怪獣少女
どうやら自分には不思議な力があるらしい、とホシノ・ミツキが気づいたのは五歳のときだった。
生まれつき、人の心を読むのが得意だった。
それは表情筋や声音から情動を読み解くような洞察力の話ではない。
少女には味覚というものがない。
ミツキは舌で食事から感じるべきもの――美味しいとか美味しくないとか、甘いとか苦いとか、しょっぱいとかすっぱいとかを区別する術を持たない生き物だった。
舌の上の
ミツキは他人の感情も思考も舌で理解する。
読み取るだけだったら精々、人間不信をこじらせた内向的な少女に育つだけで済んだだろう。
しかし幸か不幸か、彼女は人の心に触れるのも得意だった。
何より、少女の備えた母親譲りの美貌が問題を引き寄せた。
容姿端麗で長く艶やかな黒髪を持ち、一人歩きが好きな女の子というのは、いかにも誘拐犯や犯罪者の標的にされやすい存在だった。
ミツキはそういった人種の被害に遭ったことはない。
だが、自分がそういう目で見られやすいことは自覚していた。
何もしていなくても蚊の羽音が聞こえるように、醜悪な欲望の焦げついた苦みがわかってしまう。
道行く人間のうち誰が自分にそういう視線を向けているのかも、正確に判別できた。
死角に潜んでいても舌の上に乗った食物のようにどこにいるのかわかった。
しかし人間というのは面白い生き物で、たとえば、子供を欲望のままに蹂躙して殺して死体を捨てるような人種であっても、自死を選んでしまう心の働きがある。
罪悪感とか羞恥心とか恐怖心とか、呼び方はいろいろあるけれど。
生来、他者に対しての共感や罪悪感を抱く能力が弱い人種――サイコパスというらしい――も、完全にそれがないわけではなくて、微弱な感覚を増幅してあげるとあっさり心が折れる。
罪深いほど鈍感になることはできても、それから逃れることはできない。
――人の心には、絶望と恐怖の中で自死するためのスイッチがある。
まるで神様があつらえたように、どんな人間にもそれは備わっている。
自分に自信のある人たちは心を強い弱いで語りたがるけど、これはむしろ、スイッチの入りやすさの問題なのだ。
スイッチの感度に差はあっても、それが備わっていない人間はいない。
ミツキはこのスイッチを押すのが得意だった。
殺意もなく、愉悦もなく、ただ剥き出しの精神を舌で撫で上げるだけでいい。
胸の内にそういう欲望を秘めているだけの人たちはともかく、実行に移そうという人間には容赦できなかった。
身を守るために。
支配欲や攻撃性を胸に秘めてミツキを【そうしてやろう】と目論んだ悪い人たちには、いつも、そのスイッチを舌で押し込んであげた。
すると彼ら――老若男女問わない――は、二度と彼女の前に姿を現さなかった。
そのあと彼らがどうなったのか、ミツキは知らない。
ミツキは自分にも他人にも関心が薄い人種である。
何を食べてもにおいと舌触りしか感じられないし、他人の心を舌で味わうとき感じるのは雑味とえぐみばかりだった。
生きるのが苦痛になるほどの不快感ではなかったが、よろこびも薄い日々。
唯一、心安らぐ歌声と甘美な心を持ち合わせた母が亡くなってからは――何もかも味気なくなった。
◆
ありふれたチェーン店のファミリーレストランのいいところは、ドリンクバーで席を粘れるところだ。
つまりそれは客層として、お金のない学生がたむろすることにも繋がるわけだが。
まさに該当者、お金のないミツキにとってはありがたいことだ。
アニメやゲームに関わるシンガーソングライターだった母が没して、叔父夫婦に引き取られてからは特に人並みの暮らしである。
つまりお小遣いに余裕はない普通の小学六年生だ。
休日とはいえ、お昼時を過ぎたファミレスの店内は空いている。
一人で席に腰掛け、ドリンクバーのジュースを飲むミツキは、ぱっと見で高校生ぐらいに見えた。
ホシノ・ミツキは華奢な少女である。
手足は驚くほど高く、モデルのように腰の位置も高い。そのすべてが折れそうなほど細い上に、病的なほど色が白い。
わずかに紫がかった黒髪は肩甲骨の真下まで長く伸ばされており、切れ長の目に夕焼け空のような赤い瞳。
顔つきも可愛いというより子供っぽさの残る美人という趣で、一二歳にして身長一五八センチという背丈と相まって、浮世離れした美少女である。
ミツキ自身は自分の容姿に何の価値も見出していないが、他人の感情も思考も【味わう】ことで理解できるので、客観的な評価は熟知していた。
まあ何にせよ、こうして一人でファミレスに出入りしても、大して詮索されないのは楽だった。
氷をたっぷり入れたガラスのコップの中、オレンジ風味のジュースを飲む。
柑橘類のような香料。
そして味のしない液体。
お水と一緒で飲みやすい。
においはわかる。
だから清涼飲料水にたっぷり入った砂糖の甘みはわからないが、香料は敏感に識別できた。においのついた水を飲んでいるわけだから、たぶん飲料メーカーが想定する味わい方をしてはいない。
後天的に病気で味覚障害になった人は、この甘くもなければしょっぱくもない飲食物に難儀するらしい。
だがミツキは、生まれてこの方、食事は味がしない香りと舌触りだけのものと受け取っている。
(来てくれるかな)
少女は今、とある人物と待ち合わせをしていた。
ほとんど面識がない相手だ。
数少ない友達の兄、だという男の人。
話したいことがある、と友達を介して伝えると、二つ返事でOKをもらえた。
来店を知らせるドアの開放音。
そっと入り口の方に顔を向けると、目的の人物もこちらを見つけたようで軽く会釈してきた。
待ち合わせの旨を店員に話して、こちらに歩み寄ってくる男性――若者だが貫禄がある顔つきだった。
「ええっと……君がナツミの友達、であってるよな」
「あ、ちゃんと挨拶してませんでしたよね。ホシノ・ミツキです。この前は、危ないところをありがとうございました」
「ああ……俺はイヌイ・リョーマ。よろしくな」
なんとか精一杯怖がらせないよう笑顔を浮かべてはいるが、自分が強面なのは理解しているのでどうしたものかな――そう考えている少年は、ミツキより三歳年上だった。
ちょっと舌で表層を舐めてみるだけで、その邪念のなさに呆れてしまうお人好しの精神。
先週、街中の廃墟で出会ったときと変わらない味がした。
(美味しいキャンディってこういう感じなのかな)
きっと上品なお菓子ってこういう味がするのだろう。いつまでも舐め回したいぐらい甘いくせに、くどさがなく、スッキリとした後味がある。
やっぱりこの人、かなり変だ。
普通の男の子って、小学生でも高校生でも、もっと雑味が強くてあんまり美味しくないのに。
彼の場合、人並みの欲望はあるくせにそれがえぐみにならず、むしろコクと奥行きを与えている。
「イヌイさんって話しやすい方ですね。安心しました」
お世辞抜きにそう思った。
正直なところ、このファミレスで提供されるどんな料理よりも美味しい心の持ち主だと思う。
ミツキの舌が味わうのは、地上の食物ではなく人の精神であり、自覚はないが彼女は
「そうか? 初対面でそう言われるのは初めてだよ、嬉しいな」
「はい、おいし……お話しやすいです」
思わず幼稚園児のときみたいに口を滑らせかけてしまった。
普通の人間は人の心を美味しいか不味いかで評価したりしないので、幼少期はずいぶん奇矯な言動をしてしまった。
先天的な味覚障害と同じで、こういう特異性は誰にも教えないのが一番である。
そういう事情もあって人に心を開いていないミツキは、友達が少ない娘である。
他人の思考も感情も読み取れるおかげ敵を作ることも少ないし、いじめに遭ったこともないけれど、親しい友達を作るのは苦手だった。
そういう内向的な少女にしては珍しく、警戒心が薄くなっている。
(お母さん以来かも。こんなに舐めやすい心)
ミツキにとって他人の精神は、雑味が強くて喰えたものではないキャンディだ。
なのにどういうわけか、この少年の心は食欲をそそる。
店員にチョコレートパフェを頼んだ少年――思考を読んだ限り甘党らしい――は、それで、と話を切り出した。
「ホシノさんが話したいことって、この前の、あの……お化けのことであってるか?」
彼が触れているのは、廃墟で二人が出くわした怪物のことだ。
気がついたら、あの廃墟に立っていた――おそらく呼び寄せられたのだ、とミツキは思う。この心を読み取る不思議な力のせいなのかもしれない。
思い出すだけでぞっとする相手だった。
あの蜘蛛のような怪物には、心がなかった。
犬や猫にだって、人間と比べるとずいぶん簡単だけれど、心らしきものは備わっているのに。
恐ろしく自動的で、人の恐怖を搾り取るためにあるような何か。
「……えっと、その、先輩なら……お化けについて相談しても、笑ったりしないと思って」
歯切れの悪い言葉――けれど少年が反応したのは、別のポイントだった。
「先輩……?」
純粋にびっくりしている感情の味――ちょっぴり照れているのが爽やかな風味で悪くない。
ううん、もっと舐めていたいかも。
「あたしも、同じ中学校に四月から通うんです」
ああ、と納得したように頷くイヌイ先輩。
イヌイさんだと他人行儀な感じだし、リョーマさんは馴れ馴れしすぎるし、先輩という呼称は悪くないと思う。
廃墟のときはそれどころじゃなかったけれど、この人、まろやかで舌触りがいい人柄だ。
(すごい。ナツミちゃんも面白い味だけど、お兄さんはもっと美味しい。持って帰っちゃダメかな)
あふれてきた唾液をごくんと飲み干し、すぅっと深呼吸。
この人なら馬鹿にして鼻で笑ったり、おちょくられたと思って怒りだしたりしないだろう。
意を決して、ミツキは本題を切り出した。
「先輩は……クジャク様って知ってますか?」
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