名前を呼んで
あれは少年少女が廃墟で怪異に出くわす前、イヌイ・リョーマが遠方の本屋に足を運んだときのことである。
一言で言うなら、そこは肉色のフロンティアであった。
写真からイラストに至るまで、ありとあらゆる形で展示される人肌の色――若い女性を写した無数のエロ本。
当然のことながら、一般的に成人向けと呼ばれる類の雑誌、写真集、漫画本が並ぶコーナーに少年は立っていた。
成人向けコンテンツに、今年ようやく高校進学する年頃の少年がいうというのならもちろん
正しくないが、正しくなくても、切実な祈りが間違いを起こさせることはある。
まあ、思春期である。
黙っていれば成人で誤魔化せる強面のリョーマは、こうして遠方の店――成人向けの書籍と映像媒体を売るその手のショップに足を運んでいた。
いつも通り、ぐるりと店内を巡回。
顔見知りがいないことを確認してから、お目当てのコーナーを目指す。
目指すはグラビアアイドルの写真集を置いてあるコーナー。
かなり際どいが、局部を露出してはいないのでギリギリでエロ本とは言えないが実質的にエロ本と言えなくもない――そんな感じの本が並ぶ一角である。
年齢詐称してエロ本をあさりに来た割に、中途半端なところで順法精神が垣間見える小市民的判断である。
だが、それがいい。
一説によれば、人が最もいやらしいと思えるのは想像上の存在であるという。
もちろんリョーマにそんな特殊な性的嗜好があるわけではない。単にいざエロ本を買う段になると怖じ気づいてるだけである。
だが、この日はそれが奇跡の出会いを生んだ。
その表紙を見た瞬間、リョーマは衝撃を受けて固まった。
(こ、こんなことってあるのか……夢じゃないのか……!?)
「バスト一〇〇センチオーバーの奇跡!」という刺激的な見出しと、童顔のグラビアアイドルが胸を強調するような膝立ちのポーズ。
両腕で下から持ち上げるようにして支えられたそれは、大きく、柔らかそうで、重たそうだった。
布面積が明らかに小さめのビキニ水着に包まれた胸、乳房、おっぱい。
そう呼ばれるものの存在感に、リョーマは圧倒されていた。
イヌイ・リョーマはどちらかと言えば、胸の大きい女性が好みである――幼馴染みの胸が身長の割に大きいことと関係はない。
ついでを言うなら、少したれ目気味の女性が好みである――幼馴染みが優しげなたれ目気味なのと関係はない。
とにかくそういうわけで、少年は大きな決断した。
写真集というのは値段が馬鹿にならない。
ましてや学生の小遣いからそれを工面しようとすれば、その月の飲み食いやゲームの購入などを我慢する必要が出てくる。
きっと苦しい道のりになるだろう。
後悔することもあるかもしれない。
ああ、それでも。
――今のこの瞬間、その
だからきっと、その決断は間違っていないはずだった。
結局まともに読む機会を逸したままリュックサックに入れっぱなしになり、うっかり幼馴染みの家に持ってきてしまったとしても。
「…………夢か」
うめき声を上げながら、横になっていたソファーから身体を起こす。
いつの間にかかかっていた毛布は、ベルカか使用人のシエランさんが持ってきてくれたものだろう。
当然のことながら、この家に住人であるベルカは眠たくなったら自室で就寝している。
これでも思春期の男女なので、同じ部屋で寝るなんてことはしないのだ。そういうこと意識するなら異性の家に泊まったりしないだろう、というのはさておき。
(そういえばあの本、ろくに読んでなかったな)
しょぼしょぼした目をこすり、
時刻は午前十一時過ぎ、もう朝を過ぎて昼前である。どうやら昨晩、映画を見ている途中で寝落ちしてしまったらしい。
ベルカには悪いことしたかな、と思う。
ふと人の気配を感じて、ソファーの傍に目を向けると。
「おお、でっかい。こりゃでかい」
幼馴染みが興味津々でエロ本を眺めていた。
「バスト一〇〇センチオーバーの奇跡!」という頭の悪そうな帯がかかったグラビアアイドルの写真集――辛うじて局部が写っていないのでギリギリセーフみたいな代物――を、金髪碧眼の幼馴染みが感心しながら読んでいた。
少女の名はベルカ・テンレン。
リョーマの初恋の相手であり、長年の付き合いの大切な人である。
「あっ……おはよーリョーマ」
ちらりとこちらを
ミルク色の肌はつやつやしていて、そこには恥じらいも後ろめたさもない。
自然体の少女は、ただひたすら好奇心たっぷりの微笑みを浮かべていた。
「なんでもいいけどさ、これは流石に大きすぎない? 夢見過ぎじゃない?
「な、な……なんでベルカァ!?」
リョーマは錯乱気味の叫びを上げた。
「おう。わたしだ。落ち着け」
「お前が俺のリュックサックの中身、読んでるから、だろうがっ!」
「そうだね。
たれ目のグラビアアイドルが微笑みながらおっぱいを両手で持ち上げているページを開き、顔の高さで掲げるベルカ。
真顔だった。
「キミってほんとおっぱい好きだね。赤ちゃんなの?」
暴言である。
思わずイヌイ・リョーマ一五歳(年齢=彼女いない歴であり童貞なのは言うまでもない)が立ち上がったのも無理はない。
「赤ちゃんに謝れ……! 生きるためにあいつらは泣いてるんだぞ……!!」
「え、いや? そこなんだ……怒るポイント……」
リョーマは赤ちゃんの尊厳に対して怒り始める人だった。
何言ってんだこいつ、という顔になるベルカ――何でもいいが、これは少女から少年へのセクハラである。
もっとも彼女の場合、セクハラだと承知の上でやっているわけだが。
はっきり言って相手の反応を楽しむため脱ぐ類の露出狂の変態とやってることは変わりない。
そしてベルカのそういう気性を、少年はよく心得ていた。
「いいから本を閉じろよ……泣くぞ」
「大丈夫、わたしとキミは友達だよ……たとえ一メートル超えおっぱいに心惹かれるポルノ野郎だとしても……」
「うるせえ!」
涼しい顔で繰り返されるからかいに、リョーマもだんだんと対応が雑になっていった。
「そもそも女の子の家におっぱい本持ってくんな」
「急に都合良く性差を利用しはじめたな……」
「お、反論する? しちゃいます?」
身長一四五センチ、頭一つ分は身長差がある二人である。床に座っていても座高で差が出る。しかしそのような体格差が無意味なほど、二人の間には圧倒的なヒエラルキーの差があった。
というかまず、単純な身体能力でもベルカはリョーマより強い。そして頭脳明晰であり、学業はもちろん金儲けも上手く法律知識なども深い。
なんかもう生命体として格が高い気すらしてくる。
あと可愛い。
「そもそもさー、そんなにおっぱい好きなわけ? エロ本買うにしてももっと他になかったの?」
「……バスト一〇〇センチオーバーとか言われたら……気になるから……学術的興味で……」
「リョーマは学問をなんだと思ってるの?」
真顔で問い詰められた。
ベルカ・テンレンは、小柄な体躯と比して豊かな胸の前で腕を組み、幼馴染みを一睨み。
「人間が好きなのかおっぱいが好きなのかはっきりしろ」
「そこ二者択一なのか……?」
人間とおっぱいは分かつことができるのだろうか。
わからない、イヌイ・リョーマには何もわからない。
「おっぱいだけを剥製にして飾ってる屋敷とかに住めば、キミの欲求は満たされると思う」
「完全に猟奇殺人鬼の発想だよな!? 胸以外の部位どうなったんだ!?」
幼馴染みは発想がナチュラルに最悪だった。
「リョーマ、人肉はタンパク質由来の病気になりやすいから食べるのはオススメ出来ないぜ?」
「怖ぇよ!」
「いやでも、シリアルキラーが被害者の遺体を料理して食べてた例って結構あるしさ?」
「やっぱり殺人が前提かよ!!」
無駄に猟奇的な話題にシフト――乱気流の中に突っ込んだ飛行機みたいに揺さぶられるのはリョーマの心だ。
このまま空中分解するかもしれない。
「……今度の長期休暇のとき、牧場の乳搾り体験とか行ってみよっか?」
「とうとう人間ですらなくなったな!?」
「リョーマ、よく考えてみて。乳牛はおっぱい大きいし四つもある。完璧じゃない?」
「動物虐待か?」
いくら何でも、そういうことじゃないのだ。
ああ、何故ならイヌイ・リョーマが惚れているのはたった一人だけなのだから。
たとえ巨乳グラビアアイドルの写真集を買っていたとしても。
「ねえ、リョーマ」
ふっと微笑んで、ベルカは言った。
「最後まで読ませて、これ」
「…………おう」
ものすごいプレッシャーでとても断れる流れではなかった。
少年は顔を両手で覆って泣いた。
男泣きである。
◆
じゃれ合ううちに時刻は昼飯時となっていた。
リョーマは昼食を食べていくことにしたため、その旨を家族に電話で連絡している。
ベルカとしては悪くない一日のスタートだった。
スカルマスクとしての活動を終えて、自身の痕跡の消去と取得したデータの解析をしていたら軽く数時間が経過していたのはともかく。
幼馴染みの女の趣味を把握した上で、ひとしきりからかって遊べたので、いくらか気分もマシになった。
ちょっと行き過ぎというか「巨乳崇拝に片足突っ込んでない?」と思わなくもないし、心なしか顔立ちが自分と少し似ているグラビアアイドルだったような気がするのは自意識過剰か否か。
――わたしの方が美人なのも間違いないけどね。
ローテーブルの上に置かれた写真集――明らかに際どいアングルと水着だ――の表紙を眺めながら、力強く頷くベルカ。
その横に座りながら、少年が口を開いた。
「お前、なんかあったのか?」
「へっ?」
そしてどういうわけか、彼女の幼馴染みはえらく勘がいいのだった。
「お前、嫌なことがあったときほど元気になるよな」
流石に朝っぱらからテンションが高すぎたか、と反省する。
「……うん、まあ、ちょっとね」
身体構造から生理機能に至るまで、人間を模した擬態――それが一五歳の少女ベルカ・テンレンの心身の本質だ。
本来の姿であるネフィリム体での思考と人格こそ、彼/彼女の生まれ持った姿である。
解離性同一性障害のように、記憶や感情が切り離されて別人格になっているのではない。
肉体の変容に合わせて、その身体構造に最も適した形に振る舞いを最適化した結果――
本当ならば人間の少女に擬態した人格など、まがい物の仮面に過ぎないはずなのに。
あまりに長い時間、彼女はベルカ・テンレンでありすぎた。
真実の自分、ネフィリムとしての姿形を忌まわしく感じるほどに。
人間のまねごとばかり上手くなってしまったせいで、ナイーブになっているのだとしたらお笑いぐさだった。
そういう自嘲するような感情が、わずかでも顔に出てしまったのだろうか。
恐ろしく察しのいいリョーマは、心配そうな表情を一瞬覗かせたけど、何でもないように言った。
「話せないことならいいよ。でも……話せるときか、話したいときがきたら聞かせてくれ。俺だって、お前の力になりたいんだよ」
こいつは本当に、どうしようもないぐらいに優しくて泣きたくなる。
とっさに口をついて出たのは、いつも通りの軽口だ。
「お節介だよ、ばーか」
「だよな」
不意に湧いて出た衝動――そっと手を動かして、少年のそれに触れる。
あたたかいな、と思う。
つい数時間前、幼子の脳組織を握りつぶした感触とは違う。
黒鉄色のかぎ爪では、この手に触れられないと思った。
「……リョーマ」
わたしの名前を呼んでくれないかな、と言おうとしたけれど。
「どうした、ベルカ」
その必要はなくて。
「……ん、なんでもない」
ベルカは、はにかむように笑う。
答えの出ない問いかけを胸に秘めたまま、ただ、リョーマの生きる日常を守りたいとこいねがった。
――たとえキミと同じ世界を見ることができなくてもいい。
この手はきっと、人を壊して、傷つけて、恐れられることしかできないけれど。
それでも、あなたの見る優しい夢を守りたいと思ったから。
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