プロジェクト・ネフィリム
――二〇世紀前半、新大陸西部・砂漠地帯にて。
荒涼とした景色の一角を切り抜くようにして、その施設はあった。
公式には存在を認められていない空軍基地――周辺の敷地への侵入はもちろん、カメラによる撮影、上空の飛行すら禁じられた文字通りの機密事項の塊を扱う場所。
吹き付ける熱風と苛烈な日差し、陽炎で歪む景色は、この地が新大陸屈指の過酷な土地だと教えてくれるようだった。
レシプロ飛行機から降りたスーツ姿の東洋人――彼を出迎えたのは、旧知の友人であった。
「長旅ご苦労」
この基地は今もなお地下施設の拡張工事が進められており、その全貌を知るものは連邦政府のどこにもいない、と風の噂で聞いたことがある。
いや、この施設のすべてを統括する目の前の男ならば別か――そう、東洋人の男は思った。
「さて、連邦政府の最高機密を扱う場所にようこそ、テンレン」
そう言って微笑む長身の男――この時代の人種分類において
白色人種と有色人種は、旧大陸の西の端に勃興した列強国家群によって優生学と結びつき、帝国主義と植民地支配の正当化のため利用される概念だ。
それはつまり、この新大陸の連邦国も例外ではないということである。
「
未だ社会常識と言っていい人種差別と紐付いた階級意識――支配人種と被支配人種の区分は、当然のことながら政府機関や軍においても自明の理である。
だが、微塵も自虐の色のない言葉は、テンレンと呼ばれた男の自我のありようを示していた。
良くも悪くも他者を歯牙にかけない、人でなしの言葉。
一応、相手の社会的地位もあるし確認ぐらいはしておこうかな、とでも言うようなニュアンスである。
「テンレン、私に他の愚か者どもと同じ台詞を吐けと言うのか? 私は君を高く評価しているのだが」
「どうかな……君にとっては自分以外の人間は愚かな猿同然だろう、アレックス」
「ふむ、想像にお任せしよう」
いずれにせよ、人事権を含めてすべては私に委ねられているのだよ、と笑うアレックス。
傲岸不遜を絵にしたような男だった。
あらゆる分野で画期的発見、新たな理論を築き続ける万能の天才。
人類が誇る最高の頭脳とたたえられた若き野心家。
それが彼、アレックス・ゴールドスタインだった。
すでに数々の事業を興し、重工業から流通、金融にまで手を伸ばし――そのいずれも目を見張るほどの成功へ導いている。
自身も科学の最先端を行く研究者であり、一流の経営者でもあるというのだから、現実離れした超人と呼ぶほかない。
艦船や航空機の開発生産にも関わっているため、政治的にも経済的にも、政府や軍に対する影響力は想像を絶するものがあった。
あるいはこの秘密基地自体、この男の意向で作られたのだろう。
「ついてきたまえ、見せたいものがある」
「着任早々だが、いいのか? 私は自分のポストも知らないが」
「望みの地位を与えよう。雑事をさせないための地位だと思ってくれて構わない。純粋に研究に打ち込んで欲しいものでね」
いきなりの好待遇だった。
少なくともこの施設の外では到底望めない待遇だろう。
その代償がこの秘密基地に軟禁されるも同然だとしても。
施設の内部は如何にも軍事施設らしいものだったが、地下へ通じるエレベーターに乗り込んだあたりから様子が変わってきた。
地下へ降りていくエレベーターが停止、そこから降りた途端、広がっていたのは別世界だ。
まず照明が変わった。
テンレンが見たこともない小型照明――ガス灯やアーク灯ではない――がそこら中に設置されており、日光の差さない屋内だというのに真昼のように明るい。
昔、万国博覧会で展示されていた蛍光灯や白熱電球ではない。
「なるほど、外の世界とは技術水準が違うらしい」
「ダイオードを使った照明だ。ここで実用性を試していてね」
「軍の管轄下の基地で人体実験か、流石だ」
人聞きが悪いな、と笑うアレックス。
テンレンは皮肉抜きで褒めているから、本当に人を食ったような男である。
「――〈シャンバラ〉。それがこの施設の名だ」
「宗教的楽園ではなく、科学の支配する地下王国というわけだ」
「そうだ。我々が推し進めるのは、地上の有象無象が信じる理の外、異端たる科学に他ならない」
いつになく
先ほどからいくつものセキュリティを解除しているが、未だにたどり着かない目的地――それはおそらく〈シャンバラ〉が作られた理由そのものだろう。
見たい。
この目で、あの傲岸不遜な科学の王が魅入られるほどの何かを確認したい。
少年のような好奇心に突き動かされ、東洋人は歩き続けた。
そして。
施設の最深部、まるで祭壇のような部屋――古代の神殿さながらの、広々とした一室にその扉はあった。
「さあ、その目で確かめるといい」
一際、厳重なゲートの機械的ロックが解除され、開閉機構が動作。
電気照明に照らされ、男の目に映ったものは――
――異教の神像だった。
全長五メートルほどのそれは、ところどころで欠損し、ひび割れた鉱物の塊のように思えた。
奇妙にねじれたそれは、鳥のようにも
あらゆる動植物の特徴を見出してしまうために、かえって既視感を覚えず、言いようのない不安を喚起される造形だった。
東洋人の知る限り、彼の先祖のいた旧大陸東方にも、西洋にもこのような神像は存在しない。
世界各地の植民地化の過程で見つかった、未知の部族の崇拝対象というならわからなくもないが――そう、この神像はただの置物ではない。
うごめいている。
全身の末端がミミズのように
そして何より異様なのは――黒光りする鉱物のような体表が、周期的に光の筋を浮かび上がらせていること。
「機械、なのか?」
「残念ながら私が作ったものではない。これは先住民の聖地から発掘されたものでね」
元々は新大陸の先住民の崇拝対象だったらしい。
もっともその部族は滅んでいるから、詳細を聞こうにも聞けないのだが――とアレックス。
「先住民はこれを精霊と呼んでいたようだ。発掘地点の傍で、先住民と騎兵隊の衝突があってね。掃討戦に参加した騎兵隊の大半が、一年以内に精神に異常を来し自殺している」
「ナイーブな男たちばかり集めて虐殺をさせた、というわけでもなさそうだ」
ああ、と頷いて。
悪びれもせずにアレックス・ゴールドスタインは言った。
「そう、実に興味深い。どうやらこの物体には、人の精神に干渉する作用があるようだ」
「なるほど、君が自分で研究しない理由はよくわかった」
高く評価している人間を人身御供に捧げるのがアレックス流の友情らしい。
「私は信心深いものでね――はるか遠く、天界から落ちてきた御使いだ。我々は正真正銘、人の手によらぬ知性体の存在証明を目にしている」
「……宇宙か」
テンレンの理解の早さを褒めるように、アレックスは頷いた。
「外宇宙から飛来した未知の技術の産物――まるで空想科学小説の産物だが、これは現実だよテンレン」
すべての歪みは、そこから始まった。
◆
映画を見ること数時間。
流石に午前二時を過ぎたあたりで限界が来たらしく、リョーマの意識は睡魔に持っていかれていた。
ソファーにもたれかかるようにして眠りに落ちており、すーすーと健康な寝息を立てている。
使っていない来客用の毛布を取り出し、少年にかけてやった。
ベルカがシャワーを浴びに行っている間に、すっかり寝入っていたらしい。
――可愛い寝顔しちゃってさ。
こうして横になっていれば、彼の顔を見上げずにじっくり眺めることができた。
黄金の髪の少女は、乾かしたばかりの頭髪にヘアバンドを通しながら目を細める。
青い瞳の奥に宿るのは、誰にも見通すことのできない、深く重たい感情だった。
ベルカ・テンレンは眠りを必要としない体質だ。ショートスリーパーを自称する人種のように、睡眠時間を短くしている、というわけではない。
文字通りの意味で、ベルカの肉体と精神は、本来的にその機能を必要としていない。
身長一四五センチ――小柄ながら北方の血を引く美貌が、少女の本質ではないように。
ホームシアターの映写機器が映している画面を見た。
一本目と二本目がいずれも暗い結末だったから、三本目に見た大作怪獣映画から続いて四本目はハッピーエンドの映画だった。
そう、他愛のない映画だった。
ある日、自身の生き方が間違っていたことに気づいた男が、その才能を活かして世のため人のため戦うことを志す――そんなあらすじの物語。
これが世界中で大ヒットしたヒーロー映画だというのだから。
「度しがたいね、人間って」
――わたしはヒーロー映画が大嫌いだ。
人間賛歌や自己犠牲のような砂糖菓子の衣をつけなければ、人は人を信じることすらできない獣だ。
英雄譚を、救世主を求めて消費していく人々の姿が耐えがたい。
その醜悪さと惰弱さの繰り返しを、ベルカは生まれる前から焼き付けられている。
――そのくせ、身近な人間は例外にしたがるなんてさ。
心底、人間を侮蔑し、嫌悪し、憎悪しながら、眼下で眠りこけている少年を例外においてしまう自身の愚かさを嘲笑う。
まるで意味のない感傷だった。
彼のような人間はこれまでもいただろうし、これからも世界のどこかに生まれるだろう。
明日の世界も、これまでと同じように善意や良心を飲み込んで、ありったけの暴力と悪意と差別を燃料に回り続ける。
それが人間という生き物が、蜥蜴の脳と獣の脳に残した浅ましさなのだから。
好ましく思える誰かがいることは、何一つとして救いにならない。
「キミは何も知らずに生きていればいい」
呟いて、少女はそっとホームシアターから退室する。
その人間をかたどった表皮と頭蓋骨の下にあるのは、ありふれた有機物の脳組織ではなかった。
今もなおテンレン邸の電子機器すべてと繋がり、情報通信ネットワークに接続され、都市全域を見張る
暖房の効いた部屋から出てすぐ、ベルカは羽織っていた衣類を脱ぎ捨てていく。
まるで偽りの姿を捨てていくように。
「おでかけですか、お嬢様」
足音もなく少女の背後に立っていたのは、リョーマを送迎した車の運転手――使用人のシエランだ。
黒い髪のショートヘア、おおよそ感情というものを感じさせないポーカーフェイス。
燕尾服に身を包んだ妙齢の美女は、数少ないベルカの秘密を知っている人間だった。
「うん。朝には戻ってくるから。リョーマのことよろしくね」
「かしこまりました」
一礼する使用人を尻目に、一糸まとわぬ姿となった少女はそのまま歩き出して。
何の感情も交えず、その言葉を呟いた。
「――
光届かぬ闇に飲まれ、一五歳の少女としては小柄な一四五センチの体躯が消失する。
代わって存在するモノ――深く暗い
身長一八〇センチを超える背丈に、表情のない
それは都市に君臨する
あるものは
怪異を
その名を
怪人は音もなくテンレン邸の敷地から消え、夜闇を疾駆する。
朝焼けまでに、ベルカ・テンレンへ戻るために。
――この世界には、ありとあらゆる
たとえば砂漠の地下に作られた秘密研究所〈シャンバラ〉で行われていたおぞましい研究。
たとえば外宇宙文明に由来すると思しき、
たとえば繰り返された人体実験の果てに生まれた
ベルカ・テンレンという名を得る前、彼女はこう呼ばれていた。
――堕ちたる天使より産み落とされた
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