都市伝説考察1-2
こつん、こつん、と階段をゆっくり上って――不意に思い出した。
この廃ビルにまつわる怪しげな噂を。
どうして今まで思い出せなかったのか、不思議に思ったが――いや、無理からぬことか、と思い直す。
廃墟にまつわる噂というのは、根も葉もないものが大半だ。
まず、何故その建物が廃墟になったのかについての説明。
多くの場合、ビルのオーナーや住人が発狂しただの借金で自殺しただの、血なまぐさくおどろおどろしい来歴が語られる。
その来歴から、死んだ人間の霊が出るとか、来訪者の気が狂うとか、如何にも怖がらせるためのろくでもない現状説明に続くわけだ。
リョーマの調べたところでは、この手の話は九割以上が虚偽である。真っ赤な嘘である。
幽霊云々はおろか、廃墟になった理由もでっち上げだったりする。
なのでまあ、地元にちょっとした怪異とセットの廃墟があっても「またホラ話か」と流してしまうのだ。
二階についた。
歩を進めて、三階への階段を上り始める。
この街は都市伝説にあふれていて、怪人の目撃談も怪異の噂話もやけに多い。
地方都市が再開発によって姿を変えていく過程で生まれる、住人の不安やストレスが
世界的大企業の主導による都市再編は、見慣れない異教・異文化・異民族の住人も呼び寄せている。
そういう異なるものへの素朴な恐怖や差別が、怪異を形作っているのだ、と。
だが、違和感がある。
この廃ビルにまつわる怪異の物語のように。
曰く。
――いつのころからかわからないが。
――あの廃ビルには化け物が住み着いている。
――そいつはとある製薬会社が作った人間と動物の遺伝子を掛け合わせた実験動物で、小動物を食い殺している。
――あのビルの周りで鳥や野良猫の類を見かけないのはそのせいなのだ。
荒唐無稽すぎて馬鹿馬鹿しい話だ。
まずそんな化け物が住み着いていたら、すぐにバレるはずだった。
この廃ビルの周囲こそ空き家が多いものの、一〇〇メートルも歩けば人通りの多いアーケード街に出るのだ。
加えて製薬会社がバイオテクノロジーの実験という設定に無理があるし、人間と動物の遺伝子云々も眉唾が過ぎる。
何というか、突っ込めば突っ込むほど疲れる与太話である。
誰かが流した作り話だろう。
「……よし」
早くあの娘に声をかけて外に出よう、と決意。
三階に足を踏み入れる――開けっぱなしのドアをくぐると、すぐに少女は見つかった。
三階は事務所か何かだったようで、椅子やテーブルの類も運び出されていて、ほとんど空っぽの部屋だから見晴らしもいい。
休憩所と思しき小部屋に通じる扉があるぐらいで、フロア全体がすっきりしている。
割れた窓越しに見えるのは相変わらずの曇り空。
灰色の雲を賺すように、わずかに夕日のオレンジ色が見えるような空模様だ。
もうすぐ完全に闇に沈む前の、黄昏時の薄明るさ。
足音に、部屋の奥の方――扉を見ていた少女が振り返る。
ふわり、と長い黒髪が揺れて。
こちらを向いたのは、警戒心バリバリの人に懐いていない猫みたいな顔。
「……どちら様でしょうか?」
澄んだ声音だった。
お互いに廃墟へ不法侵入してるはずなのだが、こちらが一方的に悪いような気がしてくる。
ぎこちなくリョーマは口を開いた。
「ん……俺の妹、ナツミってわかるかな。友達がいなくなったから探してくれって言われてる。で、君が三階に行くのが見えたので追いかけて来た」
我ながら説明下手だな俺、と頭を抱えたくなる。
だが、愛想のない説明が功を奏したらしい。
警戒をいくらか和らげ、ナツミちゃんのお兄さんなんですか、と呟く少女。
顔にありありと「似てない。兄妹に見えない」と書いてあった。この子ちょっと表情に出過ぎじゃないか、と思うぐらいに雄弁――幽霊じみた印象が吹っ飛ぶ。
とはいえ、友人を置いてきてしまったことを思い出したのか、幾分かバツが悪そうだった。
「えっと、その……あたし、ここに、呼ばれた気がして」
不明瞭な言い方に、引っかかるものがないわけではなかった。
最初の電話が来てから三〇分ぐらいは経っている。そろそろ妹に連絡すべきだった。
「ナツミに電話するから、ちょっと待っててくれないか?」
妹とスピーカーモードで話させれば、眼前の少女も安心するだろう。
最初からそうしていればよかった。
連絡先から妹の電話番号をタップし発信――だが。
「……圏外?」
携帯端末の電波が繋がらないという音声が、スピーカーモードの端末から垂れ流されている。
おかしい。
地下ならいざ知らず、こんな街中で完全に通話不可能な場所があるなど。
「おかしいな」
困惑しながら顔を上げた瞬間、リョーマは見た。
少女の背後、開いていなかったはずの扉が開き――暗闇の奥から二本の腕が伸びてくるのを。
「――っ!!」
あとはもう考えるまでもなかった。
迷うことなく少女の腕をひっつかみ、ぐいっと引っ張る――乱暴すぎるとか、恐怖を感じさせるとか、反省点はいくらでもあったけれど。
それでもなお、アレに捕まったらこの娘は終わると、そう本能がささやきかけていた。
少女が一メートルほど手前に引き寄せられ、彼女の頭を掴もうとしていた二本の腕が空を切る――すぐさま扉の奥に消えていくそれ。
ぬるり、と伸びて来た腕はたしかに人間のものだった。少し黄色がかった肌のほっそりした指。
けれど、人間のそれにしては長すぎる。
「あ、あのっ!?」
「部屋の奥に、何かいる。振り返らずに一階まで走ろう」
案の定、パニックに陥っている少女に向けて指示を出す――非礼を謝罪するのは後にして、この廃ビルから一刻も早く逃げ出すべきだった。
もう一度、扉の奥の闇を見て。
見なければよかったと心底、後悔した。
真っ暗な別室の扉の向こうに、女の顔があった。
ぼさぼさの黒い髪と奇妙に痩せこけた頬、それでいて目だけがぎらついた若い女。
その口元は錆びた赤茶色で汚れている。
そんな女の顔が、扉の影から頭だけを突き出して、こちらを見つめていた。
そいつはリョーマと目を合わせると、ニタァと笑って。
口の端から肉片をぽろぽろこぼしながら。
いらっしゃあああい、と奇妙にしゃがれた声を喉から絞り出した。
そしてまた、暗闇から腕が伸びてくる。
色も形も人間そっくりなのに、前腕だけで一メートルを優に超えるそれが――二本、三本、四本と増えながら迫ってくる。
少女がそれを見ていないことを祈りながら、リョーマは決断的にその怪異に背を向けた。
「逃げるぞ」
「は、はい!?」
迷うことなく、女の子の手を引いて駆け出した。恐怖に泣きわめくのも腰を抜かすのもくそ食らえだ。
そんなものは全部、ここから逃げ切った後にやってやる。
異様な声と気配は、見ていなくてもわかる。明らかに女の子は怯えていたが、今はとにかくこの部屋から逃げ出すしかない。
走る。
来たときはあっという間に思えた道のりがひたすら遠い。
三階の入り口にたどり着く。少女の身体を廊下側に引き込んで、ドアを勢いよく閉めた。
ガタン、と建物中に響くような音。
そのまま少女の手を握って、階段を駆け下りる。
けれど中学三年生と小学六年生では歩幅も運動能力もまるで違う。
だから全力疾走できたかというと、全然そんなことはなくて――二階から一階に続く階段を降りようとした瞬間、少女が悲鳴をあげた。
「ひぃっ……!」
女の子が見ていたのは、たった今通り過ぎようとしていた二階の入り口の方だった。
ガラス戸がなくなっていて、ほとんど吹き抜けのようになった扉ごしに見えた。
見えてしまった。
雑居ビルの二階の窓――とうの昔にガラス窓が割れてなくなったアルミサッシの向こうに、上下逆になって張り付いているにたにた笑い。
若い女の顔だった。
その口元は真新しい鮮血で汚れていて、ぷちぷちと音を立てながら、羽毛のついた肉塊を
奇妙なのは、顔が一つしかないのにその腕は八本もあって、それぞれの腕が窓枠を掴んでいることだった。
意外なほどなめらかに、窓から二階の屋内へ入り込む異形――それは形容しがたい形状をしていた。
若い女の頭の下には、丸々と太った二メートルほどの胴体。
肉色の芋虫とでも言いたくなる、ぶよぶよした脂肪の塊から、人間の腕が四対八本も生えている。
ただしその腕は人間のそれよりもはるかに長く、二の腕と前腕、手首を合わせれば二メートル以上はあるはずだ。
あまりにもおぞましい、この世ならざるもの。
思わず二人が足を止めてしまった数秒が、致命的だった。
女の顔が嗤う。
おかえりなさあああい、と奇妙なしゃがれ声を絞り出して。
獲物を仕留める肉食獣さながらの俊敏さで、腕がこちらへ伸びてくる。
「くそっ!」
せめてこの娘だけでものがせないか、と思った。
だが、庇うには時間が足りない。
一か八か階段の方へ押し飛ばすのも間に合わない。
駄目だ。
ただの人間で、ただの学生のリョーマには絶望的に何もかも足りない。
恐怖で震える少女の掌を、握り返してあげることしかできない。
怪物の手指が視界を覆う。
血や臓物のにおいが染みついた薄汚い五指が、リョーマの頭を掴んで握りつぶそうと――
――耳をつんざく悲鳴。
瞬きをする暇もなかった。
今まさにリョーマの/女の子の頭を掴もうとしていた腕が、宙を舞っていた。二の腕の半ばで切断された断面――びくびくと
次の瞬間、にたにた笑いの女の顔が蹴り飛ばされていた。
肉色の人面蜘蛛とでも言うべき異形が、サッカーボールのように勢いよく二階の壁に激突。
弱々しいうめき声を上げる怪物を見下ろすのは、
一体そいつが、どこから現れたのかもわからなかった。
青黒い痩身は人体標本のそれを思わせ、だらりとぶら下がった二本の腕には黒いかぎ爪。
その頭には
不吉さを煮詰めたような造形の、悪魔さながらの人影だった。
思い出す。
それは都市で流布される
この街で起こるあらゆる凶事の影にはそれの姿があり、誰かを罰するため不幸を呼び寄せたのだとささやかれるもの。
イヌイ・リョーマはその名前を知っている。
「
リョーマのつぶやきに反応してか、こちらを
だが、襲いかかってくる気配はない。
今がチャンスだった。
何が起こったかも湧わからず硬直している少女の手を引いて、階段を駆け下りた。
そのまま一階の部屋を横切って、裏口のドアを開き、閉めることもせずに一目散に逃げ出して。
自転車を止めた、表通りの駐輪場まで振り返らずに走り続けた。
「ここなら、大丈夫、だろ……」
やっと足を止める――疲労感と汗がどっと噴き出してくる。
「あ、あのっ……もう、手、離しても……」
少女に指摘されて気づいた。
リョーマは名前も知らない年下の女の子の手を、断りもなく握っていたのだ。
実時間では五分にも満たない時間のはずなのに、何時間もそうしていたような気がしてくる。
猛烈な気まずさがこみ上げてきて、リョーマは自身の無神経さに嫌気が差した。
「あっ……ごめんな、痛かった?」
「い、いえ……その、今のって……」
「……見間違いじゃ、ないみたいだ」
夕暮れ時の空の下、腕時計を見てみれば時刻は午後四時半。
たった三〇分間の体験にしては、あまりにも異様で忘れがたいものだった。
あんな化け物が潜む廃墟が、表通りからすぐの場所にあるなど――荒唐無稽で馬鹿げている。
そのはずなのに。
――怪物も怪人も本当にいるなんて、いくらなんでもできすぎだ。
結局、妹の友達だという少女の名前も知らないまま、心臓の動悸を落ち着かせようと深呼吸。
目を閉じて、おのれに言い聞かせるように呟いた。
「この街は……
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