都市伝説考察1-1
旧市街の一角に、その雑居ビルはあった。
かれこれ築三〇年になるだろうか。過去のある一時、好景気に沸いて建築されたはいいものの、今では借り手もなく放棄された廃墟である。
古くからの歓楽街が立ち並ぶ猥雑な街並みにぴったりの、如何にもという雰囲気の廃ビルだった。
この廃ビルは御見て通りから少し入り込んだ場所にあり、今では周囲の民家も空き家が目立ち人気がない。
取り壊しをしようにもお金がかかるものだから、ずっと放置されている。
建てたばかりの頃は真新しかったのであろう壁面はくすんで汚れ、外壁の一部は剥離して、窓ガラスなど割れたままになっている。
敷地外から眺めるだけでも気が滅入る。
「……うわあ」
そんな如何にもな廃墟を見上げ、イヌイ・リョーマは思わず顔をしかめた。
今年の春から高校に進学する少年は、着古したジャンパーを着込み、カーキ色のカーゴパンツを履いた私服姿。
リュックサックを背負った姿はお世辞にもオシャレとは言いがたいが、それもそのはず。今日の彼は遠出して、あえて地元から距離のある本屋――いろんな意味で品揃えがいい――で買い物をした帰りだったのだ。
格好は地味で目立たず、もっさりしていればいるほどよい。
極めてプライベートかつ秘匿性の高さが重視される重大な作戦だった。
同年代の男子と比べて厳つく、背もそこそこ高いリョーマは、喋らなければ年齢確認されることもない。
まあ、そういうことである。
閑話休題。
つまりリョーマにとって、この廃ビルへの来訪は予定外かつ想定外なのである。
「警察の仕事だよな……」
独り言をもらしてため息。
中学校の入学式で幼馴染みからもらった腕時計――樹脂バンドで軽く、太陽光で充電できる防水仕様の電波時計――を見ると時刻は夕方四時。
二月下旬なので、当然のようにあたりは薄暗い。曇り空のせいか気温も低く、真っ昼間から肌寒いくらいだった。
発端はつい先ほど、帰路を急いで自転車をこいでいたときのこと。
いきなりの着信音に慌ててブレーキを踏んで電話に出てみれば、切羽詰まった様子の妹からで。
曰く、
――仲のいい友達と遊んでいたら、突然いなくなった。
――連絡が取れない。相手の親に電話してもまだ家に帰っていないという。
――もしかしたら昼間、怪談話で話題に出した廃墟にいったのかもしれない。
――あの子そういうの好きだし最近ぼーっとしてること多いし着信気づいてないのかも探してほしい。
可愛い妹(今年から彼と同じ中学に進学する)に「お願い兄貴!」と頼み込まれては断れなかった。
ひょっとして自分は妹に甘すぎるのではないか、とも思うが。
いずれにせよ、夜になれば相手の保護者が警察の捜索願を出すだろう。事件性のあるものなのか、単なる家出なのかも不明瞭だ。
友達と遊んでいる最中にいきなり姿を消すのは、あまり一般的な挙動ではないが、さりとてありえないことでもない。
控えめに言って変人奇人の幼馴染みを持つリョーマはそう思う。
しかし疑問は残る。
妹から話を聞くと、どうやら彼女たちは二人で地元のショッピングモール――新市街と旧市街の間の比較的郊外と言っていい土地――で遊んでいたらしい。
自転車があるとはいえ、この廃墟までの距離は結構なものだ。リョーマでさえ移動しようとすれば、自転車をこいで三〇分ぐらいはかかるだろう。
ふと目を離した隙にいなくなれる距離ではない。
――誘拐じゃないよな。
ろくでもない可能性が脳裏をよぎる。
正直なところ、女児誘拐事件の方がよっぽどありえそうな状況だ。
だが、向こうの親御さんには連絡が行っているようだし、彼に口出しするようなことはない。
妹の想像通り、多感な時期の女の子が怖いもの見たさで廃墟に入り込んだだけ――そういうオチを祈りつつ、リョーマはゆっくりと廃ビルの敷地に入った。
不法侵入である。
警官に見つかれば補導は免れないだろう。
リョーマとしてはこういうことはしたくないのだけれど。
――オカルトは好きだけど、肝試しだの心霊スポット巡りだのは興味ないしな。
現代社会においてオカルトとは、あるかもしれない世界の形ではなくなった。それはとうの昔に掘り尽くされ、妄想と錯覚と詐欺の温床と切って捨てられた前時代の遺物に過ぎない。
イヌイ・リョーマはその時代遅れの遺物を趣味とする、奇特な若人であった。
きっかけはなんだったろうか。
今では思い出すこともできないが、この街が全国平均と比べても明らかに怪異・怪人・幽霊・未確認生物の類の都市伝説がやたらと多いのと無関係ではなかった。
新市街と海沿い地域の再開発が進んでなお、この地域――ソラハラ地方には色濃く闇の気配が根付いている。
そういう土地柄が、リョーマの趣味を形作ったのかもしれなかった。
――あいつに言わせれば根暗な趣味か。
苦笑しつつ廃ビルの裏口から、すんなりと侵入できた。
錆び付いたドアノブは案の定、鍵一つかかっていなかった。開閉時の軋んだ音の方がよっぽど怖い。
このビルは管理そのものがされているかも怪しく、戸口も施錠されていない。
地元ではそこそこ有名な廃墟で、不良や違法薬物の密売人がたむろしているとか、ホームレスが住み着いているとか、その手の噂にも事欠かなかった。
リョーマがこうして入り方を知っているのも、学校の友達が肝試しに入ったときの体験談を聞いていたからだ。
尤もそいつは一階を探索してすぐに出てきたらしいが。
――注射器の針が落ちてるとか、たばこの吸い殻が落ちてるとかって話はなかったよな。
話を聞いたのは去年の十一月だったが、不良と遭遇してトラブルになる確率は低いだろう。
むしろ長く放置されている廃ビルとなると、崩れた床や壁の瓦礫で怪我をする方が怖い。
常日頃から持ち歩いてる懐中電灯のストラップを手首に巻き付け、点灯。
「へえ」
ぱっと見た感じ、想像していたよりも小綺麗だった。
窓ガラスがところどころで割れていたから、入り込んだ鳥の糞で汚れているぐらいは覚悟したのだが。
元々は飲食店だったのか、一階の裏口はキッチンと思しき間取りだ。
運び出せなかったのであろう調理台の類と、錆び付いたガスコンロが取り残された空間。客席側にはほこりの積もったテーブルが置き去りにされている。
あちこちを懐中電灯で照らしてみても、人が隠れるスペースなどない。
念のためトイレを覗く――何もない。
「……二階、行ってみるか」
店舗と雑居ビルの階段を繋ぐ扉は開けっぱなしになっていて、すんなりと移動できた。
そこで気づく。
しまった。
妹から相手の女の子の名前と背格好を聞くのを忘れていた。
これでは人捜しなどできるはずもない。
――いや、小学六年生の女の子ってわかってれば大丈夫か?
今からでも名前と服装ぐらい聞いておくか、とポケットの中の
小石を踏むような足音がした。
階段の上の方からだ、と反射的に顔をそちらに向ける。
――幽霊と見間違うような少女だった。
茶色のコートから伸びた折れそうなほど細い手足、薄暗い廃墟の中でもわかる病的に白い肌。
黒い長髪は二十年前に流行った国内産ホラー映画の怨霊のビジュアルを思い起こさせたし、整いすぎた顔立ちは浮世離れしていたが。
目を大きく見開いて、それこそ幽霊でも見たかのようにびっくりした表情は年相応のように思えた。
そう、明らかに。
悲鳴こそ出していないが、心臓が止まりそうなほどびっくりしている。
そしてリョーマの頭脳は理解する。
常日頃、人相が
彼が声をかけるよりも先に、少女は慌てて階段を駆け上がっていく。
三階の方へと。
「あ、待ってくれ!」
声をかけても足を止めてくれるはずもなくて。
遠ざかる足音を前にして、リョーマはゆっくり慎重に追いかけることにした。
ここで走って追いかけては、ますます怖がらせるし、廃墟で転んで怪我でもしたら一大事である。
――俺の顔って怖いのか?
ちょっぴり傷ついていたし、焦ってもいたから、彼は違和感を見落としてしまった。
窓の割れた廃墟にしては、この廃墟は小綺麗すぎるということを。
鳥やコウモリどころか、羽虫一つ見当たらないという薄気味悪さを。
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