第354話 ビーチェの影

 終わりがないように思われた道のりにも、ようやく終わりが見えてきた。

 無謀とも思えた宝石の丘への道を再び巡る旅は、今こうして異界の狭間へと到達し悲願を成就しようとしている。逸る心を抑え、もつれてしまいそうになる足に力を入れて一歩一歩進んでいく。

 標石マイルストーンの指針はもはや一方向を指し示して動かない。段々と近づいていく。求めていたものがもうすぐこの手に――。


 目前に、闇があった。


 ――あれは何だ?


 遠くからはただ、茫洋とした真っ黒な闇に見えた。

 洞窟の先が見通せないほどに濃い闇が、目の前に広がって行く手を阻んでいる。

 駆けていた足を緩め、慎重に闇へと近づいてみるとそれがただの暗がりではなく、もっと物理的な存在感のある『黒』であることがわかった。光の反射がほとんどなくて、空間的な闇と見間違えたようだ。


 それは一見して、髪の塊であった。

 生物由来のものかさえ疑わしいほどに、身動き一つしない漆黒色をした髪の毛のわだかまり。その髪の主である人形ひとがたの姿は揺らめく闇に包まれて、風貌さえも黒一色に塗り潰されていた。地を這うまでに伸びきった黒い髪が、底なしの闇を湛えた穴のように、ぽっかりと口を開けている。


 闇色のわだかまり、その周囲にはたくさんの食料が積み上げられていた。

 木箱に梱包された食料を闇から伸びた黒い手が掴み上げ、無明の穴へと放り込むようにして喰い散らかしている。幾ら食べても満たされないといったふうに、あればあっただけ木箱から食料を掴み出す。

 木箱の中身が空になれば、どこからともなく召喚術で新たな木箱を呼び出していた。あれは、あの木箱は間違いなく、黒猫の陣にあった食糧物資だ。だとすれば、それを召喚術で呼び寄せられる目の前の存在は――。


『召喚……成功。……クレスはまだ、私のことを忘れてない……』

 黒いものから声が発せられる。


『召喚……成功。……私はまだ、忘れられていない……』

 黒いものが同じ言葉を何度も何度も繰り返す。


 辛うじて少女と判別できる姿。この黒いものが、俺の求めたものなのか。

「ビーチェ、なのか……?」

 わだかまる『黒』に変化が現れる。蛇が鎌首をもたげるように、地に這う髪を重たげに揺らしながら表情の見えない真っ黒な貌でこちらを向いた。

『……ク……レス……?』

 真っ黒な貌に金色の魔眼が開く。

 見間違うはずもない。何度も何度も、じっと俺を見つめてきた目だ。少女にとっては関わる人に畏怖を与える忌むべき魔眼であったが、俺はそんな魔眼になど委縮はしない。いつだってその目を俺は正面から見つめ返してきた。

「ビーチェ……やっと、見つけた……」

 すっかり容貌は変わってしまったが、そんな些細なことは気にならなかった。これはビーチェだ。真っ黒だがビーチェに違いない。

 俺は多くの疑念に蓋をして、やっと会えたビーチェへと手を伸ばす。もう二度と離すまいと、この腕の中に彼女を迎え入れようと。


『ち……ちがう……』

 頭を抱える仕草をして、『黒』が苦しげな声を上げて身を捩る。

『ちが……う……クレス……は、もう……もどッて……こない……!!』

 ごうっ、と黒い魔力の波動が吹き荒れて、俺の体を大きく押し退けた。


「ビーチェ!! 俺がわからないのか!? クレストフだ!! クレストフ・フォン・ベルヌゥエレがお前を迎えに来たんだぞ!!」

 どれだけ声を張り上げても『黒』から溢れる魔力の波動は治まらなかった。

『――やめて。何度も、何度も、私をからかって、騙して、クレスで遊ぶなっ!!』

 騙す? 騙すとはどういうことだ? 誰が、ビーチェを騙した? 何度も、何度も、からかい、騙して、ビーチェの精神を狂わせた?

『お前は誰だ!! 私を惑わす、残影ゴースト――消えろ!!』

 先程よりも強烈な、物理的な破壊力を持った青白い衝撃波が細くて黒い腕から放たれる。俺の自動防衛術式が反応して黒い衝撃波を相殺した。首輪チョーカーの魔蔵結晶が一つ、防衛術式を発動した反動で粉々に砕け散る。


 ビーチェがこうも攻撃的になっている理由。それはおそらく、俺自身も宝石の丘で経験した事象。

 幻想種だ。あるいはもっと意思すら薄弱な、異界に漂う残影ゴースト達。それらが絶え間なく襲い掛かってきて、ビーチェを狂わせていた。


 宝石の丘や、異界の狭間は幻想種が跳梁跋扈する領域だ。隙あらば生きている人間に憑依しようとする幻想種を相手に、ずっと戦ってきたのだろう。だが、それも既に限界が来ていたのだ。

 幻想種に対抗できるのはよほど特殊な術式か、同じく幻想種である精霊の加護を受けることである。ビーチェは闇の精霊シェイドと契約していたはずだが、異界の狭間を漂う幻想種達は強力なものが多く、下手するとシェイドと同格かそれ以上の存在もいる。

 闇の精霊シェイドとの契約だけでは不足だったのだろう。

 おそらく今のビーチェは無数の幻想種に憑依されている。この異常な魔力の密度からすると、一匹や二匹どころではないのだろう。本来の契約精霊であるシェイドの気配すら霞んでしまうほどだ。


 厄介なことにそれらの幻想種とビーチェの融合が進んでいるようでもあった。幻想種と人の融合、それはすなわち魔人化に他ならない。

 魔人となれば世のいかなる生物よりも堅牢な肉体となり、幻想種を寄せ付けない強靭な精神も手に入れられる。寿命だって尽きることはないだろう。

 だがそれは、人であることをやめるということだ。魔人と化してしまえば、もう二度と人の社会では生きていけない。

「くそがっ!! 手遅れなのか!? まだ手遅れでないなら……!!」

 力づくでも融合を妨害して、今からでもビーチェから幻想種どもを引き剥がす。アカデメイアで魔人化したナタニアのように、完全に融合してしまえば元に戻すのは極めて困難になる。引き剥がせても五体満足とはいかなくなってしまうのだ。時間との勝負になる。


 俺はビーチェを一旦気絶させるべく、電気石トルマリンの魔蔵結晶を手の平に仕込み、一気に走り寄ってビーチェの頭部へと手を伸ばした。これで無力化してから、じっくりと幻想種どもをビーチェから祓うのである。

焦圧雷火しょうあつらいか……!!』

 雷撃をビーチェに浴びせようと伸ばした手は、真っ黒な影を虚しくすり抜けていく。霧散する煙のように姿を消した影は、俺の目の前から真横へとわずかに場所を移動して再出現する。真っ黒に染まった影が細い腕を突き出し、俺の脇腹に軽く触れた。

 途端に青白い衝撃波が走り抜け、俺は防衛術式を発動しながらも勢いに負けて吹き飛ばされる。

(……今のは!? 先程と似た衝撃波だが……ただ力任せの魔力波動じゃない。指向性を持つ制御された魔導現象……)


 突き出したビーチェの黒い拳。その拳には、半球状に磨き上げられた蒼玉サファイアを埋め込んだ武骨な鉄製の指輪が嵌められていた。

 四つ指に填まるよう一繋がりに作られた拳鍔ナックルダスター。拳打を補助するその武装には緻密な魔導回路が刻み込まれ、術式によって威力を高める効果がある。四つ穴の指輪に象嵌された蒼玉サファイアの魔導回路から、拳打と共に青白い衝撃波を生み出すのだ。


 俺が昔、ビーチェに渡した魔導兵装であった。


 ビーチェの黒い影が半身を後ろに引き、腰をやや落として拳を構える。その姿はまさに歴戦の拳闘士と見て取れる隙のなさ。無尽蔵にも感じられる魔力を全身から溢れさせており、拳鍔の魔導回路へ魔導因子が流れる度に青白い衝撃波が発生している。

(……この体の動き。間違いなくビーチェだ。いっそ偽物か何かであってくれればよかったんだがな――)

 何もかもすべての要素が、目の前の『黒』をビーチェだと証明している。しかも、昔より強力な技能まで身に着けていた。

 ついさっき俺の攻撃をかわしたのは、光の屈折現象を荒業でもって捻じ曲げる精霊現象だった。まともに食らえば防衛術式を破壊される手痛い反撃があるうえ、幻影を自在に操るので捕まえるのも容易ではない。


 ビーチェは身構えたままその場を動かない。そんなビーチェの黒い影から小さな声が漏れていた。

『どうして……私は、こんなに……帰りたいのに、帰れない……』

 隙なく構えながらも、ビーチェの影は時折震えるように揺らめいていた。

 受け止めてやらねばなるまい。自分が置き去りにしてしまった少女だ。


 俺の手で決着をつける。


◇◆◇◆◇◆◇◆


 純然たる魔人、魔窟の主である宝石の騎士と、レリィ達の攻防は続いていた。


 戦闘はもっぱら宝石の騎士とレリィの一騎打ちに近い内容だったが、一対一では総合的な能力で劣るレリィを他の者が辛うじて支えながら均衡を保っている状態である。レリィの体勢がわずかにでも崩れれば、その隙を埋めるようにメグが渾身の一撃で宝石の騎士の攻撃を弾き、ミラの魔導人形達が身を挺して庇い粉砕される。


 宝石の騎士の禍々しい群青闘気に包まれた霊剣の斬撃は、レリィの全力闘気による防御を容易く切り裂いて深手を負わせてくる。レリィが傷を負えば、すかさずこれをムンディが時間逆行の術式で回復させた。ついでに異界法則を利用した『時空捻転じくうねんてん』『因果捻転いんがねんてん』『無限回廊』といった術式を次々と仕掛けて、宝石の騎士が十全に動けないように、ありとあらゆる妨害を仕掛けている。さらにムンディの術式で一瞬でも宝石の騎士の動きが止まれば、メルヴィが炎や氷の強力な攻勢術式を叩き込んでいた。


 絶え間なく攻撃を仕掛けて、そこまでやっても、宝石の騎士は唯一人でレリィ達を圧倒していた。ここまでレリィ達による有効打は一つとしてなかった。レリィの真鉄杖もメグの鉄鎚も回避されるか霊剣によって受け流され、メルヴィの攻勢術式は炎であろうが氷であろうが全て群青闘気の盾によって阻まれている。

 そもそも盾の防御をうまくかわして攻撃を当てたところで、全身に凶悪無比な闘気をまとう魔人の体に傷がつけられるのか疑問であった。


 そんな息詰まる攻防の中で、宝石の騎士とレリィは言葉を交わしていた。

「あの子が理性ある魔人となるか、もしくは理性なき魔獣となるかは、あの人との繋がりに懸かっている」

 本来ならレリィには言葉を返す余裕などなかった。だが、そのやり取りも含めて全てこの戦いに必要なことであるとレリィは理解していた。だから、呼吸が苦しく喉が痛もうとも、宝石の騎士と切り結びながらレリィも言葉を返していた。

「あのは、クレスにとって悪いものじゃないよね?」

「無論。あの人にとっても、必要不可欠な存在のはずだ」

 その一言を聞きだすだけでも、レリィにとっては大きな収穫だ。先に行ったクレストフの安否を心配しながらでは、とても全力で戦えない。あるいはクレストフが魔窟の悪意に曝されていないか、そうした騙し討ちの可能性さえ疑って、魔窟の主から情報を引き出す戦いでもあった。


 一方で、宝石の騎士は純粋にレリィとの会話を楽しんでいるようにも見えた。クレストフの名前が会話に出てくるとき、禍々しい群青色の闘気の中に一瞬、透き通るように青い光が煌めくのだ。

「これまでの空白は、貴女が埋めてくれていたようだが」

「む。別に誰かの穴を埋めていたつもりはないよ」

「それもそうか。失礼を言った」

 激しい打撃と剣撃の応酬が続く最中に、気の抜けるような謝罪が入る。だからといってわずかにでも手を抜くことはできない。この宝石の騎士は先程からこうやって会話を挟みながら攻撃に緩急を付けることで、一本調子の攻めにならないよう実にうまく調整しているのだ。レリィは度々、攻防のタイミングをずらされて傷を負わされていた。


「だが、正直、羨ましい。私ではきっと、どちらの穴も埋められなかっただろうから――」

 刹那、ぞわりと鳥肌が立つほどのおぞましい憎悪の気配が宝石の騎士から放たれる。あまりの豹変ぶりにレリィは慌てて宝石の騎士から距離を取る。それまでの淡々とした雰囲気とは異なる、どこか破壊的な衝動を感じ取ったのだ。

「すまない。これが魔人のさがなのか。醜い感情に支配されやすいようだ」

 レリィの体にどっと疲労が押し寄せてくる。目の前の相手がクレストフにとって悪いものではなく、味方なのではないかとレリィは考えていたのだが、その考えが一瞬にして吹き飛ぶほどの恐ろしい気配だった。とても理性的で落ち着いて見える宝石の騎士だが、やはり本質はここまで自分達を苦しめてきた魔窟の主ということなのかもしれない。

「いいよ。わかっているから。あなたもクレスのために、色々なものと戦っているんだよね」


 宝石の騎士が悍ましい気配を発したのは一瞬のことで、すぐに落ち着いた雰囲気に戻る。しかし、レリィの胸は激しく鼓動を打っており、死の恐怖さえ感じていた。これではいけない、と自らを奮い立たせるものの闘気を全力で使い過ぎたようで足元がふらつく。

 さっと周囲に目を向ければ、レリィも含めた全員が既に疲労困憊の様相だった。メグは鉄鎚を肩の高さまで持ち上げる動作ですら苦しい表情を浮かべている。ミラは強力な魔導人形達を次々に召喚して戦っていたが、この短い戦闘でことごとくを宝石の騎士によって破壊されてしまい、もはやミラ自身が突っ込むしかないかと考えるほどに手持ちの駒を減らしていた。

 メルヴィも大規模な術式を連発した割に宝石の騎士への有効打に繋がらず、心身ともに疲弊して杖にしがみつき立っているのが精一杯の様子。ムンディは体力的には余裕がありそうだったが、術式の魔導回路を刻み込んだ魔導書『反転世界インベルサスムンディ』から放たれる黄金色の光が、徐々に陰りを見せ始めていた。短時間の連続使用によって魔導書に負荷がかかっているのだ。

 全員が満身創痍の状態だった。


「あの人が事を終えるまで、もうしばらく私の『しずめ』に付き合ってもらいたいのだが。もう限界か?」

 挑発とも取れる宝石の騎士の言葉に、レリィは不敵に笑って返事をする。

「……冗談言わないで。ここからが、本番だよ」

 レリィの八つ結いの髪が翠色の闘気を鮮烈に放ち、重力に逆らってふわりと浮き上がる。すると翠色に光り輝いていたレリィの髪は端から光を失っていき、代わりに血のような赤色へと染まっていく。

 急速に周囲の魔導因子がレリィの髪に吸い寄せられていく。魔窟に漂う魔導因子のみならず、目の前にいる宝石の騎士が放つ魔力の波動さえも吸収して体内へ取り込む。

 ――魔導因子収奪能力。

 相変わらずレリィはこの能力がどういう理屈で使用できているのか自覚していない。クレストフはこれに関して体を調べさせろと事あるごとに言ってくるが、レリィはまだ己の体の隅々までをクレストフに許すつもりはなかった。それはなんというか、さすがに恥ずかしいからだ。


 ただ、理屈がわからなくても使えるのなら問題ない。

 枯渇しかけていた闘気は完全に回復した。同時に宝石の騎士の魔力が幾分、削がれてもいた。

「準備は整ったか?」

「いいよ。これでまだ戦える。いくらでも付き合ってあげるから」

「そうか。安心した」

 宝石の騎士からこれまで以上に多量の闘気が噴き出す。黒い靄が蒸気のように激しく昇り立ち、群青色の闘気は火炎の如く燃え上がった。

「私もまだまだ、力が有り余っているんだ」

 魔人の騎士は、魔窟の主に相応しい威容を示していた。

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