第195話 黒猫の陣
硝子の砂漠より無事に帰還して、レリィはめでたく正式な騎士となった。
首都の邸宅にて、二人きりのささやかな祝杯を上げ、久しぶりに酔いが回るまで酒を飲んだ。レリィも果実酒を一瓶ほど気分よく飲み干し、今は自室へ戻ってすっかり寝入っている。
食堂に一人残り、祝杯の余韻に浸りながら年代物の葡萄酒を開封した。コルクの栓が小気味良い破裂音を発して抜け落ちる。水晶のグラスに澄んだ赤紫色の液体を注ぐと、満たされた杯は魅惑的な色合いを示す。
これまで酒の味などどれもこれも似たようなものだとばかり思っていたが、落ち着いて口に含んでみれば確かに安酒とは違った味わい深いものがある。これが世間で言うところの美酒というものなのだろう。
良い具合に酔いも回ってきた。これ以上は深酒になってしまう。
レリィを見習って早々に休むべきかもしれない。
ふらふらと頼りない足取りで食堂を出て、自室へと重い足を一歩一歩進めていく。ぼんやりと視界が広がり、無駄に広い邸宅の回廊がどこまでも続いているように見える。
並び立つ大理石の柱に、天井から邸内を照らす水晶のシャンデリア、床にちりばめられた宝石の道標。それはかつて到達した秘境、『
この邸宅を訪れた客人は皆一様に驚きの表情となるが、普段から生活するには疲れてしまうというのが彼らの素直な感想だった。だが、自分だけはこの装飾がとても心落ち着く光景であり、邸宅へ戻るとまるでありもしない故郷へと帰って来た気分になれるのだ。
宝石の丘の光景を思い出し、ぼんやりと考え事をしながら歩いていたら、いつの間にか地下への階段を下りていた。無意識のうちに、自然とその場所へ足が動いていたのだ。
気がついたときには、たくさんの供物が捧げられた祭壇、黒猫の陣を前に突っ立っている自分がいた。
――何か予感があったのかもしれない。
無意識のうちに下り立った地下室で、召喚術を使う際には見慣れた黄色い光の粒が舞い踊った。
目の前で召喚術によって消える捧げられた供物。酔いは醒め、一気に現実へと引き戻される。
自分ではない誰かが、黒猫の陣にある食糧を召喚して呼び寄せた。
この場に置いては久しく見ていなかった光景だ。
しかし、黒猫の陣にある物資が消えてなくなるということは、一つの大きな意味を持っていた。自身が宝石の丘、あるいはその領域近くに広がる異界の狭間へ置き去りにしてきた、ただ一つの後悔。
「まだ、生きているんだな、ビーチェ……」
胸が痛む。頭痛がする。胃が縮み吐き気がする。酒の酔いとは違う不快感が込み上げてくる。
あの時の、硝子の砂漠でレリィに抱かれていた時の感情が幸福であるのなら、今のこの感情は不幸というものだろうか。
幸福と不幸は共存するものなのか、よくわからない。だが、依然として自分の中の憂鬱が晴れないのは、やはり不幸の根源が取り除かれていないからだろう。
いっそ切り捨ててしまえば、もうこんな感情に振り回されることもなくなるのか。けれどもし、それが消えない後悔となれば、今度は決して取り返しのつかない不幸を背負うことになる。
決して逃れられない不幸を引きずりながら、真の幸を手にするには果たしてどうすればよいのか。
「だが……そうか。結局のところ、どこまで行っても逃げ切れるものではないんだろうな、この感情は……。この、不幸というやつは――」
矛盾を抱えながら、自分は再び幸の光を求めるのかもしれない。
真の幸がなんであるのか、どうすればそれを手にできるのか。
その明確な答えを、いまだ得られぬままに。
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