第193話 宝石よりも価値あるもの
……今更ながら、あの女の忠告を聞き流したことが悔やまれる。
『友人として先に忠告しておくよ……この依頼は断った方がいい』
『――出所の怪しい依頼だ。……私は、あまり薦めないよ――』
早い話が嵌められたのだ、罠に。
今回だけのことではない。おそらくは前回も。
証拠を掴ませるような隙は見せなかったが、大方の予想としては『王水の魔女』あたりが糸を引いているのだろう。
あの魔女なら、気に入らない新参者を陰で葬ろうと動いても不思議はない。連盟の利益より、自分の保身を第一に考えるような人間なのだから。
だが、罠とわかっていても受けるだけの理由があった。
一つは見栄というものだ。
連盟の幹部連中は常に己の能力を誇示し、他者の評価を貶めようと画策している。依頼を断ればその程度の仕事もこなせない、と格好の批難材料とされるだろう。
もっとも、自分もまたその一人であり、相手の思惑を逆に利用して自身の成果にしようと考えたのだから自業自得というやつかもしれない。
それに幸の光の探索には金がかかる。
いくら潤沢に資産があるといっても、私財を投げ打って調査ばかり続けていては、いずれ資金も底が尽きる。幸の光の情報と、高額の報酬を一度に手に入れられる依頼を断る理由などなかったのだ。
(……そんなことは承知の上……だというのに、今になって後悔するとは……)
つまらぬ見栄と報酬に釣られて引き受けた結果がこれでは、金の亡者と呼ばれても仕方ない。ただ、これが自分一人のことなら後悔もしなかっただろう。看過できないのは、己の傲慢が招いた事態に一人の純朴な少女を巻き込んでしまったことなのだ。
(……俺も感傷的になったものだ。他人のことを気にかけるなど……)
自嘲の念を懐きながら、力なくその場に跪き天を仰いだ。間もなく、護りの陣を成す術式は消え去って、この身は光と熱に焼き尽くされる。
天から降り注ぐ光は次第に明るさを増し、視界が真っ白に染まっていく。覚悟とも諦めとも違う、ただ納得の死を前にして目を閉じた。
そんな自分を、上空の光から守るように覆い被さる小さな影があった。
強い痛みが全身に走って意識が覚醒する。
「――――っ!? ……おい、何の真似だ!」
身動きできないほど力強く、レリィが体を抱きしめてくる。
「ごめん。君一人なら、こんな状況にはならなかったよね……たぶん。ううん、君なら確実に逃げられていたはずだもの」
謝罪と後悔の念。だが、それはすぐに決意を固めた声へと変わる。
「――だから、このけじめは私につけさせて。あたしは騎士だもの。護ると決めた人を護るのが騎士の本懐。君を護るのがあたしの役目。約束したでしょ」
そう言いながらも身体の震えが、激しい心臓の鼓動が、レリィの胸から伝わってくる。
「他人のことなど気にしている場合か! 闘気を集中しろ! 自分の身を守ることだけ考えろ! でなければとても、あの光は
レリィは左手で垂れた髪の毛をかき上げる。
そして一息に、闘気を封じる八つの髪留めを解いた。
「安心して、あたしは死ぬまで君の騎士だから。最期の一瞬まで、護ってみせるから……!」
その言葉と共に、目の前が光で一杯になった。
鮮やかな翠の光。
天上から降り注ぐ、
レリィの身体から発せられる翠の光。それは紛れもなく彼女の闘気のはずだったが、通常では考えられないほどの輝きを見せていた。
長い髪の毛も翠に染まり、重力に逆らって舞い上がる。白く滑らかな肌には血管が浮き上がり、淡く光を放っている。その様相はまさに――。
「魔導回路!? 体内に刻み込まれていたのか!」
――懐で、水晶の砕ける音が聞こえた。
手持ちの虹色水晶が全て砕け散り、内部に封じ込めていた魔導因子が解き放たれて、レリィの身体に吸収されていく。周囲に存在する魔導因子を髪に貯蔵し、必要なときに闘気へと変換する。
これが彼女の力の本質か――。
一際大きく広がった翠の光が、疲労しきった身体を人肌の温もり程度に暖かく包み込む。護られている、という安心感で満たされる。それは確かな実感。
恐るべき熱量を持った虹色の光が、今まさにこの身を焼き尽くそうとしている。それでも不思議と恐怖はなかった。絶望も感じていなかった。
何故だかとても満ち足りて、幸福感すら覚えていた。
(……本当に久しい……)
随分と長く忘れていた、この感覚。
自分はこれを求めていたのだ。
いつの頃から忘れてしまったのだろう。
いつの頃から簡単には手に入らなくなってしまったのだろう。
望んで求めれば容易に手に入ったはずのものなのに、自分はそれを忘れてしまった。
――あの時。
周囲の人間が自分を裏切り、自分もまた裏切ったあの時からだろうか。
気の知れた友人に知人、固い絆で繋がる仲間、同じ目的を持った同志、情を寄せる家族、将来を誓った恋人……彼らそれぞれに打算はあれども、皆で助け合い、協力して一つの目標を追い求めた。
それはとても長く過酷な道のりで、脱落者が出るたびに少しずつ心を削られていったのかもしれない。いつの間にか心は麻痺して、ただ愚直に目的地へと歩き続けていた。
けれど現実に、求めたものが手に入るとわかった頃から、歯車は狂い出した。
初めに裏切ったのは誰だったろう? 気がつけば同行者は散り散りになり、勝手な理由で凄惨な殺し合いに発展してしまった。
ともあれ生き残ったのは自分一人。最後には、たった独りで宝石の丘に立っていた。
決定的な過ち、許されない裏切り、それでも手にした利益の大きさは「これで良かったのだ」と、罪悪感さえ失わせるほどに魅惑的だった。
思えばその時からなのだろう。自分一人の幸せしか考えられなくなったのは。
一人は静かで落ち着くから。
一人で何でもできると思ったから。
一人でいれば裏切られることはないから。
一人でやれば成功は全て自分のものだから。
他人は足手まといにしかならないから。
誰かと分かり合おうなんて思わない。
誰も自分を理解などできないから。
自分も他人を理解できないから。
欲しいのは美しく価値ある物。
永遠に自分を裏切らない物。
その終着に見つけてしまった、宝石の丘。
孤高にして、完璧で、永遠に、美しい、そんな理想の世界。
これ以上に価値あるものなどこの世には存在しない。
そんな幻想に心を縛られた。
その結果、不完全で、時に移ろい、醜悪な、そんなものは受け入れられなくなっていた。
あらゆる物が、他人が、価値のないごみ屑としか見られなくなってしまったのだ。
それでも、もし……。
もしも再び、自分から受け入れたいと思えるものがあるのなら。
それに全てを委ねて、心安らかにいることができるのなら。
(――間違いない)
貪るようにして求めながら、手に入らなかったもの。
(――俺が求めていたのは――)
いつからか見失って、ずっと探し続けていた。
(――求めていたものは――)
それが今、ここにある。だとすれば、目の前を覆い尽くすこの光は……。
――きっと、幸の光に違いない。
気がつけば光は消えていた。後に残ったのは空気を歪める
地平線まで平坦な硝子の砂漠の中心で、レリィは小さな身体を丸めたまま身じろぎ一つしなかった。
「……凌ぎ……切れたのか……」
「うっ……ああ、熱……ぅ」
腰まであった長い髪は半ばまで焼き切れ、深緑の艶やかな色彩は茶褐色に枯れていた。それでも最後まで、レリィは騎士としての本懐を貫き通した。
「……無茶な事を……。こんな傷を負ってまで、どうして俺なんかを護ろうとした」
「あたしは君の騎士、になるんだもの……当然だよ」
光を直に浴びた背は、白い肌を剥きだしに痛々しい火傷の跡を残している。
「それが命まで張る理由か?」
「それだけじゃない。君はあたしの恩人だから」
「よせ。俺が何をしたって言うんだ」
「……父さんと母さん、見つけてくれた」
苦痛に顔を歪めながらも、レリィは必死で笑顔を作ろうとしていた。
「あれは……偶然だ……。そんなことを恩に着る必要はない」
「偶然でも構わない。二人のお墓は作れたし、都会へ出ることもできた。その上、騎士になる機会にまで恵まれて、感謝だよ」
「こんな死にそうな目に遭っても、か? 迷惑な話だろ」
「そんなことない。むしろ幸せだよ」
「幸せ?」
唐突に出てきたその単語が、あまりにも意外に感じられた。
死にかけたというのに、それでもまだ幸せだと思えるものなのか。
「君と出会ったことで、あたしは前に進めた。君に出会えなかったら、あたしは今も両親を探して山奥の村に
「…………」
「その事を考えたら、とても怖くなった。これから先の未来にしても同じ。君がいなくなった後どうすればいいのか、想像できなかった」
「他力本願だな」
「そうだね。でも、頼れる誰かがいるのは幸せなことだよ」
「幸せ、か――」
改めて、幸せの概念を考え直す。
はっきりとは表現できないが、今ならそれらしい答を自分でも出せそうな気がした。
きっとそれは色んな形を取るものなのだろう。頼れる誰かがいること、それもまた幸せの一つの形であるように。
「……君はもう少し、あたしのことを頼ってくれると嬉しいんだけど?」
「馬鹿を言うな。本気で俺の盾になろうなんて考えるのは、まだまだ早い。……まあ、あと五年くらいは経験を積まないとな」
「五年かぁ……長いんだか、短いんだか……」
残念そうな声を上げながら、表情は嬉しそうな笑顔だった。
「もう一度だけ、確認の為に聞いておきたいんだが……。村で静かに暮らすことは、お前にとって幸せに繋がらなかったのか……? 本当に、騎士の道を選んで良かったのか?」
「うん。それでいい。……実際あそこはね、あたしにとっては居心地の悪い場所だった。あたし、村の皆に嫌われていたから。あなたみたいに、ね」
はっきりと、そして朗らかに語るものだから話の内容を理解するのに時間がかかった。
否、理解はできたが信じられなかった。
「――冗談だろ? ……何か嫌われる、特別な理由でもあったのか?」
「ま、色々とあるんだ、小さな村だからね。――つまらない愚痴になるけど、聞きたい?」
「別に愚痴には――」
興味はない、と言いかけて止める。
いつもの自分なら、他人の事情に耳を貸すことなどなかったのだが……今は少し、つまらない話にも付き合いたい気分だった。
「興味ない?」
「……いや、興味あるな。もう少しこのまま、落ち着くまで話を続けてくれ」
今更ではあるが「このまま」というのは、レリィに抱きしめられた格好のことである。
こんなにも間近で顔を突き合わせているというのにレリィは特に照れた様子もなく、むしろほっとした感じで微笑を浮かべた。
彼女の胸はまだ、激しく打ち鳴らされる早鐘のように荒れた鼓動を伝えてきている。
無理もない、本当に死にかけたのだ。お互い平静になるには、もうしばらく時間がかかりそうだった。
「……両親がいなくなった後、あたしは村のお荷物になったんだ」
これほど長く、他人と会話をしたのは、いつ以来だろう。いや、生まれて以来、初めてだろうか。初めて他人と分かり合うことに心地よさを感じた。
「……誰かに必要とされたかった。いくらでも代わりのいるあたしじゃなくて、必要とされる人間になりたかった……」
いつまでも話し続けていた。話し続けていたかった。
……やがて、レリィは話し疲れたのか、こちらの体を強く抱きしめていた腕を緩め、身体を預けるようにして静かに眠りについた。
小さく不規則な寝息を立てる彼女の、火傷を負った背中に手を当ててみる。その背中は燃えるように熱く、尋常でない熱が伝わってくる。
見た目以上に傷は深く、致命傷だった。
「幸とは、宝石よりも価値あるもの……か」
レリィの細い身体を抱きながら、いけ好かない女の台詞を思い出す。
「それほどのものと思えるなら……」
懐の奥深く、普段は決して手に取ることのないそれを、分厚い
透き通った水晶の中に、美しい湖畔の風景が封じ込められた至極の結晶。
「二度とは手に入らない取って置きの一品だが、惜しくはない」
(――痛みを取り去れ――)
心静まる穏やかな光を帯びた庭園水晶を、焼けた皮膚に優しく触れさせる。
『……癒しの箱庭……』
術式が発動すると穏やかな白い光がレリィの全身を包み込み、焼け爛れた皮膚を白磁のように滑らかな肌へと修復していく。完全に背中の火傷が癒えた後、役目を終えた庭園水晶は砂のように細かく崩れ去っていった。
この世に二つと同じ物はなく、似たような合成品さえ造れない。貴重な結晶を一つ失ってしまったが、少しも残念には思わなかった。
今日を境に、自分は少しだけ変わっただろうか。
少しでも、変われただろうか。
これから先、もっと変わっていけるだろうか。
安らかに眠る少女の息吹を傍らで感じながら、空に向かって笑みを浮かべた。
紛れもなく、今この一時は幸せだと言い切れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます