第180話 かぶれの呪詛

 邸宅に戻ってすぐ、レリィは服を着たまま浴場へと駆け込み、そのまま頭から湯水を浴びた。

 衣服に滲み込んだ茶色は、思っていたよりも簡単に洗い流されていく。泥水か何かだったのだろう。大切な一張羅が駄目にならなくて本当に良かった。


 髪を八つに結い分ける帯は、水を弾いて生地の表面に丸い水滴を形成している。この不思議な髪留めは泥や油にも決して汚されることがなく、水浴びをする時にも外す必要がない。

 これには闘気を制御する機能が備わっているから肌身離さず持つように――と、クレスは言っていたが、それ以前にこれは母から貰った形見である。言われずとも滅多なことで外すつもりはなかった。


(……それにしても趣味の悪い浴場……)

 大理石の浴槽になみなみと湯を注ぐのは、黄金に輝く蛇の口。洗い場の床は黄土色の煉瓦でできていたが、所々に金色の光が煌めく。これは想像だったが、ひょっとして砂金が混ぜられているのではなかろうか。


 衣服から茶色の染みが抜けたことに安堵して、洗い場に濡れた服と下着を脱ぎ捨てる。慌てて浴場へ飛び込んで染みを抜いたが、この邸宅には衣類の洗浄装置も置いてあったはずだ。冷静に考えれば、ここで手洗いをする必要はなかった。


(……洗濯まで自動化しているなんて便利だけど……便利すぎて堕落しそうだ……)


 驚くべきことに洗浄を終えた後は自動で、熱風による乾燥までしてくれる。

 便利なので度々、下着姿のまま一張羅の胴着を洗っていたら、クレスに見咎められてしまった。

 とりあえず何か代わりの服を着るようにと言われ、仕方なく畑仕事用の作業着を着たらそれはそれでクレスにひどく残念な顔をされた。どういうつもりでその反応なのか、ちょっとわからない。


 そんなこんなで、この数週間ですっかり贅沢に慣らされてしまった。

 大理石の浴槽に張られた湯船に浸かり、自身の白い肌に指を這わせる。元から白く、滑らかだった肌は、ここへ来てから更に艶を増したように思える。


 食事もクレスに付き合うと外食になり、毎回のように三つ星の高級店を巡ることになる。食費は全てクレスが支払っていたが一言も奢りだとは言っていない。

 騎士になった後で、まとめて請求されるのだろうかと考えると、どんなに珍しい料理も素直に喜べなかった。これならばまだ、地下の食糧工場から取ってきた食材で自炊をした方がましだ。


 一方で、騎士になる為の訓練は朝から夕方までしっかりやらされていた。騎士としての教養の他に、有名どころの武術のかたを学ぶなど、今まで我流で棒術を振るってきた身としては新鮮な修練である。

 他にすることもないので大いに結構なのだが、クレスはこれといった指導はせず、指南書だけ渡してきた。そのくせ、訓練の成果だけはしっかりと試験して確認するのだから気が抜けない。


(……成果が不十分で、訓練期間が延びたら借金に上乗せ、とか言っていたし……)

 日々の生活費から騎士の登録料まで全て出世払いだ、と楽しそうに帳簿を書いているクレスの姿を見ていると、借金がどれくらいになるのか今は怖くて聞けない。騎士になって返済の当てができたら、改めて確認しようと心に決めていた。




 その晩は珍しく、クレスと一緒に邸宅で夕食を済ませることになった。

 地下から食料を調達してきて、食事を作るのがレリィの日課になりつつあったので、クレスもそれに合わせて外食を減らすようになってきた。


「最近は忙しくて外食ばかりだったが、やはり自炊した料理は安心して口にできるな」

「そこは素直に美味しい、て言うところじゃないの?」

「俺の作った料理と比べればまだまだだな。そっちの修行もしておくか? 参考書やレシピは書庫に行けばいくらでもある」

「ははは……気が向いたらねぇー……」

 辛口の評価は相変わらずのクレスだった。


 そんなやり取りをしながら夕食を食べている最中、不意に腰の辺りに違和感を覚えて、フォークを持つ手を止めた。


「ん……? なんだろ……。んんー?」

「……どうした? 落ち着きがないな」

「いや……なんか痒くて……」

 腰巻の中に手を入れて、もじもじとするレリィに目を留め、黙々と食事を取り続けていたクレスがいぶかる。


「虫にでも刺されたのか」

「うーん……そういう痒みじゃなくて。……街中で変な液体を掛けられたんだけど、それの所為かな……」

「――どういうことだ、それは? 何時いつの話だ?」

 それまで平然と食事を取り続けていたクレスが、音を立ててナイフとフォークを皿に落とし、驚きの表情をみせる。


「お昼ごろに。脇道から出てきた人とぶつかって……」

「何故、早く言わなかった!」

 クレスは猛然と立ち上がり、向かいの席に座っているレリィに詰め寄った。


「で、でも、怪我もなかったし、こっちに戻ってきてから、すぐに変な液体も洗い流して平気だったから……」

「この間抜け。呪詛を掛けられたな」

「呪詛?」


 オウム返しに問うと、クレスは呆れ果てた様子で頭を掻き毟る。

「普通に洗い流したくらいで、呪詛のけがれをそそげるはずないだろうが……。仕方ない、見せてみろ」

「え、見せろって……」

「その変な液体を掛けられた箇所に決まっているだろ。どこだ?」

「いやぁ……その、どこ、と言われても……」


 見せろと言われて見せられるような場所ではない。

 歯切れの悪い態度に苛立ちを感じ始めたのか、クレスはぶっきらぼうに緊急の事態であることを説明する。


「まず呪詛の種類を特定する必要がある。昼ごろに掛けられたと言うし、進行の度合いも気になる。手遅れになっていなければいいが……」

「手遅れになることなんてあるの!?」

「当たり前だ。毒を盛られたのと同じようなことだぞ。時間、あるいは条件次第で進行する性質の呪詛であれば、手当てが遅れるほど取り返しがつかなくなる。で、呪詛を受けたのはどこだ?」

 言いながら、呪詛を解く準備なのか、どこからともなく取り出した特殊なゴム製の手袋をはめている。


「……こ、腰のあたり……」

「よし、テーブルの上に両手をついて、こっちに腰を突き出せ」

「や、やだ! そんな格好、恥ずかしい……」

「阿呆。そんなこと言っている状況じゃないんだよ」

「うう……屈辱……」

 言われるがままに腰を突き出した。


 するとクレスは無言で腰巻を捲くり上げ、迷うことなく下着に手をかける。

「へ!? ちょっと、待っ――」

 衣擦れの音と共に、腰周りが外気に晒される。買って来たばかりの新しい下着が、膝を伝って足元に落ちた。


 クレスは真剣な表情で、腰からお尻、太股の辺りまで、呪詛の媒介となった変な液体の掛けられた部分を、じっくりと観察していた。

 時折、肌に吸い付くようなゴム質の感触が、腰の辺りを無遠慮に掴み、撫で回す。


「あ、あう、う……わ」

 クレスが呪詛の特定に集中しているため、文句を差し挟むこともできず、レリィは顔を真っ赤にしながら羞恥に耐えるほかなかった。


「……厄介だな」

 長い観察のあと、クレスが洩らしたのはその一言だった。


「――も、もう終わった?」

「呪詛の種類は特定できた。だが、解呪はこれからだ。すぐに準備をするからな、しばらくそのままでいろ」

「ええっ! そのままって……」

 もちろん、腰を突き出してお尻を出した状態である。


 こちらの不平の声など聞かず、クレスは慌しく解呪の為の器材や薬品を揃え始める。

「…………くすん。もう、お嫁にいけない……」

 レリィはその間、ずっと恥ずかしい格好のままだった。




 その呪詛は悪質なことに、極めて解呪が難しく細工された術式で、呪詛の効果自体は吹き出物が出るという地味なものだった。結果、解呪の作業は深夜を跨ぎ、朝方になってようやく完了した。


「ほれ、終わったぞ」

「ひん……」

 ぺちり、と尻を叩かれても何の抵抗もできないほどレリィの心は傷ついていた。


「後は、日毎に薬を塗りなおして、包帯を取り替えていれば十日ほどで完治するだろう」

「……うう、はっ? 日毎に?」

 まさか、これから十日間、今日と同じような屈辱を受け続けるということか。


「薬は調合してやる。包帯取り替えて、塗るのは自分でやれ。今回は解呪の作業が必要だったから俺が施術をしてやったんだ。これ以上、手間を掛けさせるなよ……まったく」

「……ご、ご迷惑を、お掛け、しました……ぐぅぅっ」

「感謝しながら、唸るな」


 乱れた着衣を正し、人心地ついた所で、それを待っていたかのようにクレスが説教を始める。

「いいか……? 本来ならな、闘気を纏ってさえいればこの程度の呪詛は跳ね除けることができたんだ。だが、闘気を纏っていない状態で呪詛を掛けられてしまっては、後から闘気を発しても呪詛を濯げない場合が多い。今後は、相手が飛び出してきた瞬間に闘気を纏うぐらいの用心をしておくことだな」

「はい……」


 レリィは情けなくも、しゅん、と項垂れたが、クレスはそれでも容赦なく言い募る。

「そもそもだな、工房に戻ってきた時点ですぐに報告していれば、呪詛の発動前に対処できたんだ。それも至極簡単な方法でな。解呪に手間取ったのも、呪詛の効果が進行して定着してしまったからだ。第一、おかしいと思わなかったのか? 鍋に泥水を入れて運ぶ奴がいるか? しかも、人にぶっかけておいて一言も謝罪せずに逃げるなんて怪しすぎる。その時点で何かあると疑うだろ普通……」


 くどくどと続く説教に対して反論の余地もなく、レリィはすっかりしょげてしまった。そんなレリィの様子にようやく気がついたのか、クレスは一つ咳払いをしてから、長くなった説教を切り上げた。

 お互い冷静になるまで少し間を開け、クレスはそれまでの棘のある口調から、淡々とした口調に戻して語りかけてきた。


「……ま、いつかこういうことも起こるだろうと予測はしていた。俺は多くの人間から、羨望、嫉妬、憎悪、様々な目で見られている。その騎士ともなれば、悪意の矢面に晒されるということだ。これから先も今日のような事は続く。こっちは知りもしない相手から、一方的に逆恨みを受けて呪詛を掛けられるなんて珍しくもない」


 ……甘く考えていた。

 嫌われ者のクレスに同情して用心棒になって助けてあげようとか、首都にこのまま住み着くには他に方法がないからとか、適当な理由で自分を納得させて、大した覚悟もないままに騎士の道を歩もうとしていた。


 降って湧いた幸運に身を寄せて、間近に見えた夢に浮かれていた。でも、それは蜃気楼。真実の姿が見えていたわけじゃない。


 クレスは大勢の人間を敵に回して、深い恨みも買っている。彼の騎士になるということは、それらの悪意に自分もまた身を晒すということだ。そこまでの覚悟が今の自分にあるだろうか?

 レリィは自問自答をして塞ぎ込む。そして悩むには十分な時間が経った後、一つ溜息を吐いてから、クレスが口を開いた。


「もし、辛いのなら騎士になるのはやめておくか? 村で静かに暮らしていた方が幸せということもある」

 その言葉にレリィは、はっ、と顔を上げてクレスの目を見た。彼の目はいつも以上に穏やかで、不甲斐ないレリィを責めているわけではないことが知れた。それだけに、当てつけや嫌味ではなく、本気で言っているのだとわかった。


「――君は、その方がいいと思う……?」

「どちらが幸せか、それはお前にしかわからない」

「どちらが幸せ、か……」


 クレスの言葉に、自分が何故あれほどまでに村を出たかったのか、その理由を明確に思い出した。


「続ける。あたしの夢だもん。これぐらい平気。それにさ、騎士は誰かを護るために戦うものでしょ? そういうの結構好きだから」

「騎士になる覚悟があるんだな?」

「うん! 約束するよ。あたしは君の騎士になる。君が何を求めてどんな道を進むとしても、あたしが盾になって君のことを護るから」


 清々しいまでの決意表明に、クレスは一瞬言葉を失ったようだった。

 だがすぐに平静を取り戻し、皮肉気な表情を浮かべる。

「ふん、尻の青い小娘が、粋がるな」

「――んがっ! 子供じゃないんだから、お尻に青痣なんてないよ! 第一、さっき見た……で……しょ……うぅう~……」

 思い出して赤面してしまう。


 ……たぶん、この日に誓ったことは一生涯忘れない。


 苦い体験と抱き合わせではあったが、今日がレリィ・フスカの夢の始まり。

 本気で騎士になると決めた日だった。

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