【ラストダンジョン  : 宝石の丘】

第149話 魔性の片鱗

 息を切らしながら、ぼさぼさの長い髪を揺らしてビーチェは走っていた。

 金色の瞳に強い決意を秘めて、二本の霊剣を抱えてジュエル救出に向かう。

 今、窮地に陥ったジュエルを救えるのは彼女一人しかいない。


 クレストフとセイリスは戦っている。

 メルヴィオーサとエシュリーは敵を倒したようだが、すぐに姿を見せないところから負傷しているのかもしれない。手助けは期待できないだろう。

 ……ミレイアとイリーナは、死んでしまった。


「うっ……」

 全速力で走って息が切れたのとは別に、ビーチェは胸が詰まる想いで喉を引き攣らせた。

 苦しくても、悲しくても、今は立ち止まることができない。走り続けるしかない、ジュエルの元へ。


 だが、ビーチェは迷っていた。

 このままジュエルの元に向かうより、さらに助けを呼んできた方が利口ではないか。

 先行したビーチェ達以外に、水晶の小路前で待機する同行者達の姿が思い浮かぶ。


 騎士隊長ベルガル率いる、屈強なる国選騎士団。

 学級長レーニャが引率する、魔導鎧を主武装としたハミル魔導兵団。

 猫人チキータを商隊長とする、商魂逞しい黒猫チキータ商隊の烏人達。

 それと仲間を失って一人、失意のまま旅に同行する傭兵隊長タバル。


 弱気になり、ビーチェは幾度も足を止めそうになった。安易に助けを呼びたくなってしまう。

 それでも、ビーチェは走り続けた。

 助けを呼びに行けばそれだけ時間をくってしまう。事情を説明するのに更に時間を費やせば、ジュエルの救出が間に合わないかもしれない。

 何よりジュエルの救出は、クレストフが彼女に頼んだのだ。

 他の誰にやらせるというのだ。


「私が……やらなくちゃ……!」

 霊剣を握り締め、呪法に囚われるジュエルの元へと駆けつける。

 ビーチェの細い足が地面を蹴り、黒い鳥の羽が宙を舞う。


(――黒い羽――?)

 ビーチェは立ち止まった。


 きぁぁぁあぁぁ……ぅぅぅうぅぅっ……!


 遠くから、悲鳴とも唸り声ともつかぬ声が聞こえてくる。

 この声は間違いなくジュエルの声だ。

 まだ、生きていた。


 ビーチェはひとまず安堵した。

 だが、苦しげなジュエルの声はいつ消え去ってもおかしくない悲痛さを帯びていた。

「ジュエル! 今、助けるから!!」

 強く一歩を踏み込んだところで、黒い羽がまたビーチェの前をふわりと舞った。

 訝しげにその羽を見たビーチェは、ジュエルの声が聞こえてくる闇の奥に、黒の保護色となって溶け込んだ人影を見つける。


「誰……?」

 嫌な気配を感じて、ビーチェは闇に溶けた人影に問いかける。

 こんなやり取りをしている場合ではない、とわかっているのに確認せずにはいられない。根源的な恐怖心というものがビーチェの足を止めていた。


「おや、誰かと思えばお嬢さん」

「誰かと思えば可愛らしいお嬢さん」

「お嬢さん、そんなに急いでどこへ?」

「急いでどこへ何をしに?」

「ビーチェさん、そんなに焦って一体何事でしょう? クレストフ様とは合流できたのですか?」

 闇の中から浮かび上がるように現れたのは、黒猫チキータ商隊の副官カグロと烏人達であった。


「烏さん達こそ……どうしてここに? 待機していたんじゃないの?」

「なかなか戻られないので、様子を見に来ました」

 カグロはビーチェの問いかけに首を傾げながら答えた。その様子に、ビーチェは先程の嫌な感じが杞憂だったかと胸を撫で下ろした。

「それならちょうどいい。付いて来て、手伝って。ジュエルを助けないと」

貴き石の精霊ジュエルスピリッツでしたら、ご心配なく。我々が今まさに発見し、保護しようとしていたところです」


 そう言ってカグロが指差す方向には、今なお呪法に囚われて浄火に焼かれるジュエルの姿があった。

 炎に包まれて獣のように唸りながら、地面に這いつくばっている。


「ジュエル……!? 今、助ける――」

「お待ちを」

 ジュエルに近づこうとしたビーチェの肩を、カグロが捕まえて押し止める。妙に力のこもった烏人の手に、ビーチェは不吉なものを感じ取った。

「……何? 急がないとジュエルが。結界を壊すの、手伝って」

「お待ちを、ビーチェさん。今から私共が結界を解きます。ですから、ビーチェさんは安全な場所に離れていてください。私共にお任せを」

「結界、解けるの? 本当に?」

「ええ、解けますとも」

 自信に満ちた言い回しで断言するカグロ。


 ビーチェはじっとカグロの目を覗き込み、金色の瞳でカグロの黒い眼を見つめた。

「あなたはどうやって結界を解くつもりなの?」

「アァー……それは……」

 金色の魔眼と視線を交わしたカグロは、無表情のまま軽く嘴を震わせた。しかし、カグロの嘴からは何の言葉も出てはこなかった。

「――嘘つき」

 ビーチェの背後から滲み出るように闇の精霊シェイドが姿を現す。

 カグロはびくん、と体を震わせた。ビーチェの魔眼と闇の精霊の呪詛に縛られて身動きが取れなくなったのだ。


「クレス、言ってた。悪魔祓いの結界を破壊する方法なんてわからない、って」

 ビーチェは金色の瞳を細め、上目遣いにカグロをじっと睨みつける。カグロの周りにいる烏人達が、いつの間にかビーチェに近づいてきていた。

「準一級術士のクレスでも呪法の正体がまるでわからないのに。そんな呪詛、商人の烏さん達に解けるはずない」

 魔眼による縛りを強めていくビーチェに対して、カグロは目蓋だけをぱちぱちと器用にしばたき、震える嘴からついに声を漏らした。

「……賢いお嬢さん。その通り」

「!?」

 金縛りを緩めていないにも関わらず、カグロは呪縛から解かれて動き出した。

 ビーチェは即座に烏人達から距離を取り、警戒の構えを取った。


「確かにあの結界は解けません、私達には。だから放っておくのです」

 烏人のカグロはしきりに首を左右へ傾げながら、ぶるぶると体の羽毛を逆立てる。

「高位精霊である貴き石の精霊ジュエルスピリッツならば、術者が場を離れた状態であれば呪法を破って出てくることが可能でしょう。そのことは……精霊術士である私達の方がよく理解していますから……!」

 カグロほか四人の烏人達の背中から、一斉に黒い影が湧き上がる。黒い影の正体は、蝙蝠のような翼と丸い体を有し、縦に裂けた大きな口にねじくれた牙が並ぶ奇怪な存在。それはビーチェにも馴染みの深い、闇の精霊シェイドに他ならなかった。


「ビーチェさん、あなたはそこで見ていればいいのです。貴き石の精霊が弱っていく姿を」

「……どうして、邪魔するの?」

「私達を宝石の丘へ案内するように、契約を上書きするのです。精霊が極端に弱った状態ならそれが可能になります。そうすればもう、あの錬金術士はいりません」

「裏切るの……?」

 ビーチェの金色の瞳とカグロの黒い瞳が交錯する。闇の精霊の加護か、ビーチェの魔眼はカグロに効いていない。そればかりか烏人達が操る闇の精霊が、吐き気を催す不快な呪詛のこもった笑い声をビーチェの耳元に囁いてくる。精霊術士による静かな戦いが既に始まっていた。


「猫さんは……猫さんと話をさせて! 猫さんが、こんなこと許すはずない!」

 ビーチェの叫びに、烏人達が一様に首を傾げた。

「猫さん、とは?」

「猫さん、とは誰のことでしょう?」

「猫ですから、ひょっとして商隊長のことかと」

「猫ですし、チキータ商隊長のことでしょう」

「チキータ商隊長のことなら御気にせず」


 ビーチェの問いかけに烏人達は一斉に答えた。

「商隊長はもう商隊長ではありません」

「商隊長ならもういりません」

「商隊長とは意見が合いません」

「商隊長は排除しました」

「意見の相違で、お別れしたのですよ。チキータ商隊長とは」

 感情の窺えない黒々とした瞳が、淡々と事実だけを述べていた。


「なんで……?」

「騙されていたのですよ、皆。私達も、そしてあなたもね」

「騙された、皆騙されました、錬金術士クレストフに」

「商隊長も知っていて黙っていました、自分だけは例外だから」

「錬金術士とチキータ商隊長は宝石の丘の利益を独占するつもりです」

「自分だけ先に帰って利益を独占するつもりです」

 カグロの言葉に同意するように烏人達が唱和する。


「嘘だ! クレスがそんなことするはずない! それに、宝石の丘にはあり余るほどの財宝があるって言ってた!」

「あなたのような子供には理解できないかもしれませんが、高価な宝石と言えどあまりに多くが市場に出回れば、その稀少性は失われ価値が落ちます。つまり、宝石の丘で手に入れた宝石を相場が崩れる前に、いかにして多く一度に売り捌けるかが重要なのです」

 ビーチェにはカグロが何を言っているのかわからなかった。ただ、なんとなく耳を塞ぎたくなるような、そんな嫌な感じがした。


「そして、錬金術士クレストフは自身の体に魔導回路を刻んでいないため、送還術による速やかな帰還が可能です。つまり彼は、宝石の丘に辿り着いた後、召喚術で宝石を送るだけ送って自らも帰還し、宝石を速やかに売り捌くつもりです。私達のことは置き去りにして」

「私達を差し置いて」

「私達を出し抜いて」

「先に帰って大儲け」

「他の皆は見捨てて行きます」

「違う! 一緒にいたいって、クレスは言ってくれた!!」


 ビーチェはまやかしの声をはっきりと否定した。それでもしつこく闇の精霊と烏人が揃って唱和し、クレストフに対する疑心暗鬼を植えつけようとしてくる。

「うるさい、うるさい! 嘘ばっかり! 私はクレスを信じている! だから、クレスの想いに応えなくちゃいけない!! ジュエルを、助けないと――」


 ……グヴォオオォオオォオオ――ッ!!


 岩を擦り合わせるような、おぞましい大音声が洞窟に響き渡った。

 ビーチェを取り囲んでいた烏人達も、突然の事態に慌てふためいている。

 声の発生源は、どうやら呪法に囚われたジュエルからで間違いないようだった。


 ヴゥォゴォオオォォ――ッ!!


 再度おぞましい叫び声がとどろき、地に這いつくばっていたジュエルが立ち上がる。

 びしり、とジュエルを捉えていた四角錐の結界に罅が走った。悪魔祓いが創り出した祓霊儀式呪法ふつれいぎしきじゅほう、幻想種に対して絶大な効果を発揮するはずのそれが、一匹の貴き石の精霊ジュエルスピリッツによって破られようとしていた。

 烏人達が即座にジュエルを取り囲み、「アァ、アァ!」と喧しく鳴き声を上げる。


「アァ、アァ! 結界に罅が入りました!」

「アァ、アァ! 精霊が結界を壊します!」

「アァ、アァ! しかし精霊は弱っているはず!」

「アァ、アァ! 契約の呪詛を上書きする準備を!」

「アァ、アァ! 精霊を我らの意のままに!」


 立て続けに結界に罅が走ってジュエルの腕が突き出してきた。

 取り囲む烏人達の興奮は最高潮に達する。烏人の操る闇の精霊が結界の周囲を飛び回り、新たな呪詛でジュエルを縛ろうと待ち構えていた。

「ジュエル……! ジュエル駄目! 無理しないで! 私が助けるから!」

 ビーチェが霊剣を抱えなおし、結界の破壊に手を貸そうと一歩を踏み出した瞬間――。


 ジュエルの腹が裂け、縦に割れた大きな口が出現する。

 巨大な牙を有する口が呪法の檻を噛み砕き、ついにジュエルは自力で結界を打ち破った。


「アァ、アァ! 精霊よ! 貴き石の精霊よ!」

「アァ、アァ! 古き契約を捨て、新しき理に従いなさい!」

「アァ、アァ! 我らは汝が主となる!」

「アァ、アァ! 我らの願いを聞き届けよ!」

「アァ、アァ! 我らに宝石の丘ジュエルズヒルズへ至る道を示すのです!」


 黒い羽を舞い散らし、烏人と闇の精霊達が一斉にジュエルへと殺到する。

 精霊の自由意志を捻じ曲げ、支配する悪意の呪詛がジュエルに向かった。


 ――ばぐんっ。


 大きな口が開いて、五匹の闇の精霊がジュエルの腹の中に飲み込まれた。


 ――ばぐんっ。


 大きな口が開いて、五匹の烏人がジュエルの腹の中に飲み込まれた。


 ばりばり、ばきぼき、ごりごり、ごぐんっ……。


 岩と岩の擦りあう重低音と、骨という骨が砕ける不快音が響き、全てを飲み込む嚥下えんげの音が洞窟に静寂をもたらした。

 烏人は闇の精霊共々、ジュエルに食い殺された。いや、磨り潰されたと言うべきか。

 とにかくもう、この世にはいない。


「ジュエル……? どうしちゃったの?」

 ビーチェが声をかけてもジュエルは反応しなかった。

 ただひたすらに腹から重低音を漏らしながら、真っ赤に光る瞳でどこか遠く一点を見つめている。


 ――ォゴ、ゴゥォオオォォォォォォォォ――ッ!!


 魂さえも竦ませるような恐ろしい雄叫びを上げ、ジュエルは背中に六枚の翅を生やした。

 これまで背中に生えていた水晶の四枚翅は抜け落ち、新たに生えてきたのは紅玉のごとく鮮やかな赤に透き通った六枚翅。

 六枚の赤い翅は高速で振動を始め、ジュエルの体を浮き上がらせる。

 そして、徐々に加速をつけながら、ある一方向を目指してジュエルは飛び立った。


「待って!! 待って、ジュエル!!」

 飛び去ろうとするジュエルをビーチェは必死に追いかけた。

 複雑に分岐する水晶の洞窟を迷うことなく飛んでいくジュエルに、ビーチェは全力で追い縋った。


 だが、ジュエルはさらに加速して、ついにビーチェの視界から消え去った。

「――あ!? ジュエル……どこ?」

 ビーチェは完全にジュエルを見失ってしまった。

 しばし呆然とその場に佇む。

 冷え冷えとした白い空気が足元を通り過ぎていき、ビーチェはようやく我に返った。


 辺りを見回せば全く見覚えのない風景。

 寒々しい気配は、まるで異界に足を踏み入れてしまったかのような……。

「あれ――?」

 ビーチェは自身の重大な過ちに気がついた。


「……ここは、どこ……?」

 いつの間にか見知らぬ場所に迷い込んでしまっていた。


 ビーチェは、完全に迷子になっていた。

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