第135話 悪鬼羅刹
断崖に挟まれた広い渓谷に、
天頂には夜空が見え、煌々と輝く満月が浮かんでいた。
陽の光の差さない洞窟と違って渓谷には雨も光も降り注ぐためか、ちらほらと小さな動植物も見受けられた。
ただ、どこか生気の感じられない土地で、静まり返った夜の暗がりが不気味に感じられる。
この渓谷は洞窟の天井が崩落してできたようだ。
基本的には一本道で、巨大な隧道と渓谷を交互に通り抜けることになる。
付近に幻想種はもういなかったが、寒々しい空気だけは常に漂っていた。
「……なぜ自分だけ生き残ってしまったのか……いや、しかし犠牲になった仲間のためにも俺だけは……」
「タバル。おーいタバル! あんた大丈夫かい!?」
虚ろな目でぶつぶつと何事か呟きながら歩くタバルに、心配したイリーナが声をかけている。
だが、イリーナの呼びかけも聞こえていないのか、霊剣泗水を胸に抱えながらタバルは一人歩みを進めていた。
(グレミー獣爪兵団の全滅に、タバル傭兵隊の壊滅。ハミル魔導兵団も犠牲者が多数出ている。損耗率がひどいな……)
ここまでの道程を思えば仕方ないが、特に数の多かった大所帯の隊が丸ごとなくなったのは目に見えてわかる変化だった。
薄暗い夜の渓谷を進むのに月明かりだけでは頼りない。
俺は魔導ランプを取り出し、青い光で足元を照らす。
淡い光に傭兵隊長タバルの顔が白く浮かび上がった。霊剣泗水は冷たい霊気を放ち、まるでタバルから生気を奪っているかのようにも見える。
オォ――ィ……
皆が終始無言で歩みを進めるなか、遠くどこからか呼び声のようなものが聞こえてくる。
「何の音だ?」
「人の声みたいに聞こえたわ。……不気味ねぇ、怖いわ~」
俺のすぐ隣を歩いていたメルヴィオーサが、わざとらしく怖がってしがみついてくる。
ふざけているのかと思ったが、実際に腕が震えていたりするので、どうやら軽く振る舞い強がっているだけのようだ。
オォ――ィ……
再び聞こえた呼び声に、メルヴィオーサがしがみついている腕とは反対の腕に、今度はビーチェが腕を絡めてきて引っ張った。
「……クレス、シェイドがこの先、進んじゃだめって言っている……」
「
ビーチェの言葉に、無視できないものを感じて俺は足を止めた。
精霊が警告を発するとき、それはかなりの高確率で災害級の事象に見舞われることを意味する。
「ダミアン、お前達の精霊は何か感じ取っていないか?」
「あぁ……ひどく気が立っているな。この先に何があるかまではわからないが……」
やはり他の精霊も不穏な気配は感じているようだった。
あの不気味な呼び声と関係があるのか、肝心のところがはっきりしないのは精霊との意思疎通の難しさもあるかもしれない。
通常、精霊術士は精霊との意思疎通を直接に思念のやり取りで行うことが多い。それも人間の言語ではなく、感情や心の指向性といった非常に曖昧な感覚によるものだ。
よほど感受性の良い者でなければ、精霊が何を伝えようとしているか汲み取ることができないのだ。
もっとも、
ここは明確に答えを返せるジュエルに問い質すのが一番だろう。そもそも道案内をしているくらいなのだから、向かう先に何があるかもそれなりに予想がつくはずだ。
「ジュエル! お前、この辺りの道について何か知らないか? また幻想種の類がうろついているとか」
「ん? ん~とね。以前にボクがこの道を通った時は特に問題なかったよ。一匹だけでいっつも居眠りしている大きな
「本当か? 精霊達が騒いでいるんだが」
「ま、ボクぐらいの精霊になると怖いものなんて限られているし? 格の低い精霊はちょっとしたことで怖気づいちゃうのかもしれないけどね~」
挑発とも取れるジュエルの軽口を聞いたからでもないだろうが、
「この様子、ただごとじゃないと思うんだがなぁ」
精霊術士のダミアンは自分の精霊を宥めて落ち着かせようとするが、精霊はよりいっそう激しく動き回るばかりだった。
ジュエルは問題ないと言っている。仮に危険がこの先にあるとしても、高位精霊のジュエルには恐れるまでもなく、しかし並みの精霊は警告を発する程度の脅威、といったところだろうか。
「なんにせよ道は一本だ、進むしかない。皆、警戒だけは怠るなよ」
曲がりくねった渓谷に風が吹きぬけ、うなだれた葦の穂が揺れる。
夜空に浮かぶ満月に雲がかかり、周辺一帯の闇が濃くなった。
魔導ランプを掲げて注意深く進んでいると、不意に目の前に崖が聳え立った。
「行き止まりだと? ジュエル、道は正しいのか?」
「間違ってないよ。このまま、まっすぐ……のはずなんだけどぉ~、あれ?」
聳え立つ崖の前で立ち往生していると、不意に満月を隠していた雲が晴れ、月光が目の前を照らし出した。
それは一見して、小山のように見えた。
しかし、目の前に聳え立つものが崖でも山でもないことは、月の明かりが証明してくれた。
ウヴォオォ――――ィイ……
すぐ間近で、奇妙な呼び声が聞こえた。
一歩引いて目の前を良く見てみると、そこには月明かりに照らし出された崖――ではなく、とてつもなく巨大な物体が鎮座していた。
それは深く、大きく脈動を繰り返していた。
全身艶消しの真っ黒な毛並みに、大きく突き出た腹、頭部には銀色の巨大な巻き角を生やしている。
見開いた二つの眼は真っ赤な瞳に塗りつぶされ、口から覗く歯列は鋸刃の如く並んでいた。
ウヴォオアァア――――!!
おぞましい雄叫びに空気が震え、音圧が皮膚を叩く。
「なんだこいつは!?」
俺は即座に後退しながら、辺りの状況把握に努める。
広い渓谷に葦の草原。見晴らしは良いが、隠れる場所もない地形。
そしてこの巨大な怪物の他に、動く者は俺とその同行者達以外には見当たらない。
(――馬鹿げている――!!)
こんな大きな生き物が、ろくな餌もない痩せた土地で、ただ一匹で存在していることなど通常はありえない。
「魔獣か!?」
コンゴ魔獣討伐隊が即座に応戦の構えを取る。
『荒ぶるもの、戒めよ!
女術士が先立って、まずは動きを止める呪詛を放つ。この怪物がどのような動きを見せるのかわからない内は、足を封じて様子を見るのが効果的だ。
コンゴ魔獣討伐隊の女術士達が次々と同様の呪詛を放ち、地面から伸びた植物の蔓が怪物の体へと絡みつく。
「突撃!!」
色取り取りの闘気が光の軌跡を残して、一匹の怪物へと収束していく。
――ばつん、と繊維の断ち切れる音がして、小山のような怪物が動いた。
大地が土煙を上げながら
「拘束を……」
「捻じ切った!?」
その一瞬は、まるで時が止まったかのようであった。
コンゴ魔獣討伐隊は怪物の動きに怯むことなく、突撃の勢いを落とさずに走っていた。
にも関わらず、彼らコンゴの騎士が怪物の体に接触するよりも早く、頭上から降ってきた冗談じみた大きさの掌は、ガザンを含む騎士五人を一度に叩き潰した。
地面が揺れ、土塊が飛び散り、轟音と突風が周囲に拡散する。
もうもうと舞う土煙の中に、死屍累々と横たわる騎士達の姿が見えた。闘気がまるで見えないことから、まず間違いなく先ほどの一撃で絶命したのだろう。
騎士五人が瞬殺、そのあまりにも現実味のない光景に誰もが足を止めてしまっていた。
ヴォアアァ――ッ!!
腹の底に響く咆哮を吐き散らし、怪物が立ち上がった。
怪物は月を背に隠し、なお余りある背丈で俺達を見下ろしてくる。
「おい……いくらなんでも、生物としてありえないだろ……この大きさは……」
首を真上に向けなければ怪物の頭が見えないほどの巨体。
初見から巨大だとは思っていたが、この怪物は今まで座っていたのだ。
(――この位置は、まずい。完全に相手との間合いを読み違えた!!)
俺は慌てて怪物から距離を取ろうとするが、少し走った程度では相手が巨大すぎてまるで離れたような気がしない。
そうこうしている間に怪物は土に汚れた右腕を引き、代わりに持ち上げた左腕を横薙ぎに振るった。
一見してゆっくりした動作に見えたのは目の錯覚だろう。実際には巨体ゆえに、相対的に緩慢な動作として見えただけだ。
見かけ以上に早い動きをする怪物に対して、最前線に立っていたコンゴ魔獣討伐隊の術士達は対応が間に合わず、怪物の左腕に捕らえられて宙高く放り投げられる。
「あ――」
ジュエルが間の抜けた声を発した。
宙を舞うコンゴの女術士達は、鍛え上げた自慢の肉体も足場がなければ満足に動かせず、全く無抵抗のまま怪物の口の中へと落ちていく。
鋭く伸びた鋸歯が上下に動き、ばりばりと骨を砕く不快音を上げた。
「あ、あ――。あれ、おっきな……キメラくん? 今日はどうしちゃったの? 何で起きているの?」
理解が追いつかない様子で呆然と呟くジュエル。
こいつは確かに言っていた。
『一匹だけでいっつも居眠りしている大きな
だが、それはそもそもいつの話なのか。
ジュエルがここを通ったのはおよそ二〇〇〇年前。ジュエルの言い様から、俺はここが合成獣の生息地になっているのかと思っていた。そして、そいつらは群れる習性がないのだろうと、都合のいい解釈をしていた。
だが、もしこの怪物がジュエルの発言どおりに、二〇〇〇年前からずっと一匹でこの場所に存在し続けていたのなら、当然この怪物がただの合成獣であるはずがない。
この怪物は場所を選ばずただ一匹で完結し、悠久の時を生き続けてきた。
だとすれば、考えられる可能性は絞られる。
慌てふためく俺達の姿を
笑う、その行為はよほど知能の高い生物しか取らない行動だ。
魔獣ならばそれはありうるだろう。だが、いくら魔獣でも二〇〇〇年の時を生き続けることはない。
幻想種が憑依して混じり合うことになった元の宿主、生命体であったり物体であったり様々ではあるが、それら宿主が朽ち果てるだけの時が経てば、さしもの魔獣も寿命を迎える。
だが、この怪物は違う。
「こいつは、合成獣でもなければ、ただの魔獣でもない……」
嘲笑う謎の獣。
その脅威はまさに災害級。
悠久の時を生きる存在。
それはすなわち――。
「超越種だ!!」
俺の出した結論。
その一言で、戦いの場にいた全員に衝撃が走った。
超越種。
それは人の身で抗うには、あまりに大きな存在だった。
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