第128話 大友宗麟を弟見殺しに仕立てあげてしまった家

※本作はフィクションであり、推測を多分に含みます。


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 大友興廃記という本がある。

 1635年ころに元、豊後佐伯氏家臣で伊勢の藤堂家に佐伯氏ごと再仕官した杉谷宗重が書いた本である。

 23巻中10巻以降は現地の聞き書きが書かれ、内容に信憑性があるが、それ以前はデタラメな記述が多く、4巻の『豊後譽中国弓箭』という話では


【大内義隆公の家臣、陶は野心を巡らし、相良などの屈強の武士を亡ぼし天文12(1543)年5月7日に長門国深川の泰念寺へ追い出し切腹させた。

 大内太郎左衛門輝廣と子息武廣は死を逃れ、義鎮公を頼り豊後国に居住した。

 陶は国主となったが義鎮公の弟、義長を申受け、大内八郎と号して是を仰いだ。退


 とデタラメを書いているらしい。

 陶器が死んだのは1555年。毛利に殺害されたためで、大内義長こと宗麟の弟、大友八郎君が死んだのは1557年。これも毛利に殺害されたためである。


 つまり、時系列や因果関係がおかしいのだ。


「そんな前提が誤っている大友興廃記ですが、【(陶晴賢は大内家に)義長を横入りさせて家の連続を途切れさせました】と、大内義長が跡を継いだ事は正しくなかった事だと判定し、宗麟さんは大内に行く事を止めたけど弟が言う事を聞かなかったので、義長さんを見殺しにした後に陶討伐を企む毛利へこんな書状を贈ったと書かれています」


【今回の事は元就の事も有り、黙止しました。(大友晴英から)同姓の縁を募られましたが今後の約諾で防家の加勢に気遣い、加勢を表さないようにし(弟が死んだ)た事を今、嘆いています陶、内藤らがのさばっているので今度の戦いは毛利の好きなようにしてください(※実際の書状の書き下しは最後に掲載】


 この後「主君を滅ぼした陶を倒し元就は仇をとった。元就は義者だったから大名になった」という筋書きで話が進んでいる。前提条件が間違っている創作小説の書状だから、その内容には信憑性など無い。

 ところが、1700年頃の江戸時代に萩藩が自家の由緒を纏めるため、祖先の書状を集めて萩藩閥閲録という本を書いた。

 その際に、小寺家はこの大友興廃記の書状を提出している。(萩藩閥閲録2巻 小寺文書より)」

 このため、大友宗麟は山口に行った弟より茶器が欲しくて見殺しにしたという与太話に少しばかりの真実っぽさを与えられることになったのだという。


「でも、それって興廃記の方がその小寺文書をどこかで入手して、書き写した可能性はないのか?」

 毛利家の書状を伊勢にいた人間が手に入れられる可能性は0に近いが、有りえない話では無い。

 公平さを保つため一応聞いてみたが、

「この文書、差出人は大友宗麟で、受取人は毛利右馬介(元就)。つまり大名間で交わされた書状なんですよね」

 と、さねえもんが言う。トップ同士で交わした書状を単なる家臣である小寺が所有できるはずもないのだが、萩藩閥閲録はこの書状をそのまま収録したという。

 要は『ウチの家は昔、毛利家のためにこんなに頑張った』とか『昔からウチは毛利と仲が良かった』とアピールするための文書なので、1555年の厳島合戦の時には参加すらしてなかった一族が毛利家に協力して礼状を受けたと偽の書状をでっちあげていたが、それを萩藩閥閲録をそのまま収録しているという。

「ちなみに先哲叢書大友宗麟に収録されていた活字化された小寺文書では毛利右馬頭が右馬守となっていたり、振舞を振廻という書き誤っているそうなので、書き写し間違えた書状を提出している感が強いんですよ」

 と、最後のダメ押しをした。

 さすがに原文は読めないが、プロが書いたもので誤字が有るとは考えにくい。

 そこまで聞いてふと疑問が湧いた。


「でも、それは大友興廃記って本の作者か、この小寺って人の子孫が悪いのであって、本人に罪はないんじゃないか?」


「あ、ちなみに小寺は大友晴英さんが毛利に殺される前年にやって来て、一年かけて宗麟さんから一字を貰う位に信頼されてますけど、毛利が大内家を攻める前あたりから音信不通になってるので、多分大友家を裏切るために入り込んだんだと思いますよ」


 なるほど。シベリア送りだ。


 ついそう言いそうになった。

 埋伏の毒を送り込むとはやってくれるじゃないか。

「よし、お客様はお帰りだ。あくまでスマイルで追い返せ」

 というわけで、この小寺さんはスパイとして扱うように家中に徹底しておいた。


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「いやー、さすがは歴史ある大友家の皆様方。立派な風格をお持ちでいらっしゃる」

 小寺という男は生粋の太鼓持ちである。(※豊後県民の妄想です)

 1554年に毛利が陶を滅ぼして頭角を顕した後、1556年に豊後を現れた小寺は数カ月豊後に滞在し4月18日には大友義鎮宗麟から、『数月在府の辛労を労い佐渡守に補任する』(先宗388)という文書が存在する。

 さらには翌年の1557年に宗麟から鎮の一字をもらって小寺鎮賢と名乗っている。(先宗444)

「他国の当主から官位や一字を貰うという事自体異常なんですが、それを子孫が江戸時代に藩に提出していることも異常なんですよね」

 さねえもんが言うには、一字を貰うというのは大名家が将軍に忠誠を誓うように、臣従に近い態度と推定されるらしい。

 さらに言えば、いくら仲が良くても、よその会社から課長とか部長の役職を貰うなどありえないという。役職の任命は上司がする権利だからだ。

 それを考慮すると、小寺は毛利を裏切って大友家に仕えたいような事をいっていたのではないかという。

 口から出まかせを本気と信じさせる口達者。目的のためなら平気で嘘をつけるお調子者。それが小寺と言う人間の正体なのだろう(※本作はあくまでフィクションです)

 そうして油断させといて、毛利が大内家を攻めた1557年以降は音信が途切れる。

 要は毛利が国内の討伐した国を治めるまで大友家に偽りの臣従を誓って攻めさせない様にする外交官だったのだろう。

 それゆえに、豊後に来た小寺は目につくもの皆ほめちぎった。

「いやー、さすがは大友様、私は毛利様に従ってますが、大友家に比べたら毛利家など新興の家。家格ってものが違います。私も大友様に仕える事ができたらどんなに良かった事か」

 と、大友家をヨイショし、いい気にさせて油断させ、時間を稼いだ後はポイ。という腹づもりなのだろう。

 おべっかのうまい奴というのは信用がならないものである。(※書状から推測した偏見です)

 なので、領主たちには『こいつは裏切りモノだから絶対信用するな』と通達をだしておいた。


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 小寺は焦っていた。

 彼にとって他人の懐に入るというのは赤子の手をひねるよりも簡単な事だった。

 卑屈で田舎臭い己を演出し、心の底から相手を尊敬していると自分で自分を思いこませ、相手の喜ぶ言葉を恥知らずなまでに投げかける。

 これで、気を悪くしない人間はいない……はずだった。

 なのに、自分の言葉は空を切るかのように相手の琴線には触れることができない。

「いやー、さすがは発展著しい豊後。私目のような小さな家の田舎者では見たことのないようなもので溢れておられますな」

 自分を小さく見せるためにへりくだる言葉だが、その言葉にいい気になる豊後武士はほとんどいなかった。


 通達の効果もあるが、この時代に豊後で見たことがあるものを探す方が珍しくなっていたからだ。


 建物が様変わりし、服もボタンの発明と綿の量産により見た目が変わった。

 さらに、近頃では月代は不便だと髪型まで変えようとしているとも聞く。

 それゆえに

「昔(2年前)は良かった…」

 と、田舎を懐かしむような有様である。


 おまけに小寺の思惑は豊後国民に広く伝えられていたので、食事はすべてぶぶ漬けで、彼が訪れた家には座箒がたてられていた。


「国をあげてのいじめだなぁ…」


 京都人ばりのいやがらせ攻勢を指示しながらも、宗麟は少しかわいそうなきもした。

 だが、その一人の密偵により毛利は九州に攻めてきたかもしれないのだ。警戒するに越したことはない。

 この行為は3日ほど続くのだが、あまり楽しい物ではないので割愛する。


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「いやあ、豊後では湯漬けが上手くて大変腹が膨れました」


 と、毎日ぶぶ漬けを振る舞われて3日で腹を壊した小寺は早々に国元へ帰る事になった。あくまで笑顔で言える鋼のメンタルは素晴らしいが、仕事の成果が得られず、引きつった笑顔になっていた。

 たいした情報は得られなかったが、毛利家にとって大友は油断ならない相手であることはわかった。

 その驚異を各地に知らせて豪族たちを糾合する事ができれば門司から九州へと攻めいることができるかもしれない。

 そんな事を小寺は考えていると


「豊後は無礼者ばかりで申し訳ない」


 と一人 小寺に接近を計る男がいた。


 対馬に父が送られた一万田の息子である。


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 ※興廃記の文書の書き下し。


 中国九州静謐の事を申し談ずため筆を染めます。とりわけの入魂を祝着し、今度の義長の不慮の成り行き(=死去)の蒙気を御察し下さい。加勢を始終望みましたが、元就の事も有り、黙止しました。

 同姓の縁を募られたが今後の約諾で防家の加勢に気遣い、義長に対し狭量にしない、(=加勢の)意思を表さないようにした事を今、嘆いています。

 併せて陶、内藤以下の者共が武威を誇ったので、今回の合戦は元就に存分に任せられることが肝要です。

 先年義長が上国したした事は無慮に非ず。防州の家中はすでに上の者が義隆を害して背き、義長を横入りさせて家の連続を途切れさせました。

 その事を強いて助言しましたが「たとえ日を期せずとも後に難にあえどしかるに上の者は代々の国家安全の調義の指南を請け申されたが、入国以来非道の軍兵を起こしたのはご存知のとおりで言うに及ばず。この時は大内家督の事、元就も同意しましたが、今より後は停止の覚悟を定めます。彼の家を育て置けば国主を変えても諸侍の鬱憤を止める事ができないでしょう。後日の事をよくよく推測し、殊更この節、一家の欠退者に義長の追善をさせます。

 また秋月が思いのままの振舞いをしているのは前代未聞で、成敗を申し付けるのでこれをご存知あれ。猶生善寺に申し含みます。

 5月14日  義鎮  毛利右馬頭(元就)殿 毛利備中守(隆元)殿


 

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