第3章 戦国文化破壊 収穫編 ~侵略しちゃうぞ~
第124話 新参物を加えた会議(現在の収穫高報告)
今回は第三者視点で書いてみました。
まあ、いつもと殆どかわりませんが。
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選挙制度により平和的に決定された他門衆4名。彼らを加えた評定が始まる事となった。
今まで豊後の評定は気心しれた身内同士の会議だった。
だが、今回からは外部監査というか新しい人材が入った状態での事となる。
「緊張しますなぁ」
「本当に、我々が参加するのは初めてですからなぁ」
大津留と奴留湯が親しげに語る。
大津留は庄内を、奴留湯は湯布院を地盤に持つ領主である。佐伯ほどの大領主ではないが交通の要所に土地を持ち、多くの情報を集められる立場であった。
それ故に、顔も広く多くの無責任な仲間から他門衆の権利拡大のためにがんばれと激励を受けていた。
なので、1550年から1553年までの3年間、国勢を独占していた彼らの重箱の隅をつついて自分たちを政治に参加させようと企んでいた…のだが。
「よくぞ、皆集まってくれた」
出張ばかりで国を空けていた君主たる義鎮(宗麟)が挨拶をする。
「去年は皆ご苦労じゃった。今年もよろしく頼む」と四月にもなろうとするのに年始のような挨拶をする当主。
ずいぶんとおかしな男である。
「さて、今年も収穫量の合計が出てきた。それを皆に伝えよう」
そういって、紙を広げる。
「まず、米じゃが今年の収穫は豊後で50万石」
ぶふぅ!!!
大津留以下4名は突拍子もない言葉に吹き出した。
「どうされた?」
「……いえ、その報告は本当に正しいものでございますか?」
戦国時代後期に行われた検地で、豊後国の石高は約38~40万石と言われている。
これは1587年の島津侵攻などで減少した部分もあるが、平均的な生産量と見て良いだろう。
それが1.5倍、いや各地の領主の隠し田で過小報告されていた事を考えると1.8倍に増えていたのだ。
「それは何かの間違いではないのですか?」
たまらず大津留がたずねたが
「いや、府内に納められた米の数を4で割り10をかけた数値じゃから間違いはない」
と古参である吉岡長増は太鼓判を押す。
この男は数値をごまかして当主に気に入られようとか、無理な取り立てを見過ごすような男ではない。それゆえに他門衆の領主たち信じざるを得なかった。
「選米と田植えの改良、肥料の改善。それに新田開拓が功を奏したようじゃな」
と、土木部門を担当する戸次と大友晴英が言う。
現代技術だけでも収穫量は増やせるが、それだけでは収穫量は2倍くらいしか増やせない。
おまけに新規農法を今の豊後各地に普及させることは不可能だ。
では何故そこまで収穫量を増やせたのか?
それは新規開拓のお陰だ。
農業のノウハウを持たない流民や家を継げない武士の2・3男に新たな土地を耕作させたのだ。
特に風土記の時代から水田に不向きと書かれていた『千町無田』『血田』という不吉な名前をつけられた土地に田圃を作ったのである。
「馬鹿な!あそこにそんなに米が生えるはずがないではないですか!」
と朽網が叫ぶ。
県外の方に説明すると千町無田とは明治時代までまともな田んぼが存在しなかった湿田帯である。風土記には『田野』の地名で
『この野は広く大きく、土地は肥沃で開墾の便利さは比べるまでもない。
昔、郡内の百姓(おほみたから)が、この野に住み、たくさんの水田を開き富んだが大に奢り、余った糧を畝(うね=みぞ)に捨て、餅を作って的にした。ある時、餅が白鳥となって、南に飛んだ。その年、百姓は死絶し、水田は造らず、遂に興廃した。それ以来水田に良くない地となった。今田野というのは、それが元である』
とある。
水が多い湿田は地下水位が高く一年中乾燥することがない。地温も低く酸素不足の状態で、有機物の分解が遅く腐植含量が高い。
稲は根系障害をおこしやすく、下葉の枯れ上がりが激しい。倒伏や病害、生育遅延などで収量は不安定である。
(引用;コトバンク ttps://kotobank.jp/word/%E6%B9%BF%E7%94%B0-74168)
奈良の時代より米が育たない不毛の大地・千町は従来の米では枯れるだけだった。それは明治時代まで変わらない自然の摂理だった。
だが、若い当主はこともなげに
「うむ。だから暗渠を造って乾田化し、芋畑の片手間に実験的に田を増やしておったのじゃ」
と言った。建設現場では水を一手に集める釜場を何度か作っており、水の集積は御手の者である。
「では、血田はどうやって…」
血田は風土記にて
『昔、景行天皇が球覃の行宮にいた時。鼠の石窟にいる土蜘蛛を討たんと群臣に命じ、海石榴(つばき)の樹を伐採させ、兵椎(つち)を作った、即ち猛き卒(者ども=兵卒と同じ)を簡(えらび)、兵椎を授け山を穿ち草を靡き、土蜘蛛を襲い、悉く誅殺した。流れる血は踝(くるぶし)をひたした。椎を作った場所を海石榴市(つばきのいち)、流血の所を、血田(ちだ)といった.』
と書かれた土地である。これほど不吉な土地なので朝廷に納めるような米がありませんと弁解するような逸話である。
ここも米の収穫量が少なかった。
「あそこは、米どころかまともな作物が取れない土地ではなかったですか。それをどうやって」と山二つ隔てた領主である朽網が言った。
「それについては斉藤実衛門に説明させよう」
そう言って御屋形様に近従していた斉藤家の子倅がでてきた。
「大野郡の血田は風土記の代より天皇に討たれた土蜘蛛…まつろわぬ者たちの血で収穫物に血のような赤が出ると言われておりました」
と伝承を説明する。
「ですが、それは水が不足し土地が悪いため、蕎麦を植えていたものと推測されます」
蕎麦自慢はお里が知れる。という格言が出来るほど、蕎麦は米が育たない荒れ地に育つ作物なのだが、その根っこは赤い。
つまり知田は土地が悪く水も不足した稲作に適さない土地だったのだと推測される。
その証拠に現在の知田バス停の正面にある貴船神社には昭和22年に建立された『水道敷設之碑』があり『この地には古来より飲料水に乏しく、谷間から湧く悪水を使用していた(略)その湧水ですら枯れる事があった』と書かれている。
それを改善するため昭和47年(知田公民館の水道記念碑より)にも水道工事を行い、水事情を改善したらしい。
そのため2015年に筆者が同地を訪れた際には一面に田圃が存在して米が作られ、根が赤い作物は一つもみられなかった。
個人的に、これは大分県の史料に記載しても良いくらいの大発見だと思うのだが、論拠も弱いしそもそも風土記に大分市長含めて誰も興味を持っていないので、トリビアにもならない無駄知識となるだろう。
作品を通じてここに記しておく。(筆者談)
「そこで、水車による稲葉川からの取水を行い、2年かけて田圃として使えるようにしたのだ」
と義鎮は言った。去年はその初収穫だったのだ。
(まあこれは千町無田も知田も、平成で稲作可能だった事が分かってるから最短でできたんですけどね)
と斉藤である、さねえもんは内心思っていた。
逆に、今では田圃が存在しない別府中部の稲作は棚田が上手く作れず、地熱栽培の道を探っている。
現代知識チートとは先人が思考錯誤した結果だけを貰った良いとこどりなのである。
「な、成るほど。米はたくさん取れた事は分かりました。で、では豆や稗はいかがですか?」
若い当主の失策を突いてそこから発言権を思っていたのに、思いも寄らない先制攻撃に、朽網が話を変える。だが、
「豆は3年前の2倍。稗は旨くないから特に手を加えておらんが、南蛮芋が5万石分。試験的に作った人参などの作物が1万石分成功した」
と義鎮は言った。
そんな領主たちの内心を見透かしたのか、御屋形は
「ああ、ちなみに米は隠し田の5万石ほどを含んでおるから名目上は55万石になるじゃろう」
と、こともなげに言った。
これは正式な数値ではない。
当然だ。必死に隠して申告してない脱税額など誰にだって分かるはずもない。
これらの数値は甲賀忍者に軽く調べさせたものであり税収からの逆算もできないため、おおよその数字を出しただけである。
ただ、重要なのは当主が不正の量をあたかも全て把握しているかのように語り、それを見逃している。という点である。
まるで全てが手のひらの上で転がされているような錯覚さえも領主たちは覚えた。
実際は『これで『かくなる上はここで上様と果てるまで』とか言って切りかかられたらどうしよう?』と内心ドキドキしながら放ったハッタリなのだが…。
だが、良い地位を手に入れた領主たちは、そんな『無敵の人』ムーブは取らず、ただただ恐れ入るばかりだった。
それを見て斎藤が話を継ぎ
「相模より取り寄せた蜜柑は半分が枯れましたが実を付けたモノもございます」
と、貴重品の栽培成功を報告する。
「よし。蜜柑は佐賀関と津久見、杵築以外にも育つかも知れぬので、海岸部に植樹を進めてみよ」
「あ、それと皮は陳皮って漢方薬になるので大事に集めておきますね」
「あとはリンゴが育てば良いんだがなぁ…」
と、今まで聞いたことのない作物を口にし出す。
今まで無駄に遊び歩いていたと思われた大友家当主が3年がかりで進めていた計画の一部である。そこまで聞いて奴留湯たちはたまらず言った。
「殿!」
「今までそのような計画を何故お話下さらなかったのですか?」
そんな計画があったなら、自分達にも提案してくれて良いではないか?
その返答は明朗だった。
「相談したら反対しておったじゃろう?」
某省庁が成功している研究だけに補助金を出すと言い出して「当たりのくじを売って下さい。と宝くじ売場で頼むような支離滅裂な思考だ」と馬鹿にされていたように、新事業を始めようとすれば『それは成功するのか?失敗したらどう責任をとるつもりだ?』と言いだす奴らが絶対に出てくる。
なので、大友家が所有する土地や誰からも顧みられなかった耕作放棄地を利用して実権をしていたのだ。
仮にこれらが失敗していればダマで通そうと思ったのだが、成功したので事後承諾的に報告したのである。
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「しかし、これだけの収穫が生まれたとなると、これから豊前や筑前の侵略を行えますな」
あれから蔵に入った食料を見て、報告に偽りが無い事を確認した奴留湯は言った。
それは領地的な野心だけでなく、大友家が突出して冨を蓄える事への警戒でもあった。
領主にとって大名が力を持ちすぎる事は手放しで喜べない事である。
領主の力が無いと戦争が出来ず、いざとなれば頭を下げる。少なくとも横暴な大名が選ばれれば十数名の領主の反対でクビを挿げ替える事が出来る程度の権力がないと、理不尽な取りつぶしや権力を濫用される恐れがあるためだ。
そんな財力や権力を削るには出兵が最適なのだが、若い当主は事もなげに言った。
「あ、それならもう終わってるから大丈夫だよ」
「「「「は?」」」」
4人は我が耳を疑った。
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風土記はそのほとんどが散逸しており、完全なものは豊後を含めて5つしかないと言われています。
なので、その貴重な文献から現在の風景を納めた写真集を電子書籍で作ったのですが、大分市長含め興味を持つ人がほとんどおらずお蔵入りとなりました。
その供養として、個人的な考察を掲載しました。
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