第99話 戦国時代の奴隷貿易と言う地雷を踏みぬいちゃうぞ☆(震え声

 ※本作はフィクションです。一次史料や他史料を読みこんでますが不勉強ゆえ未読の重要資料がありましたら、すぐに主張撤回します。


 ベズビオ火山噴火、日付のがこれまで考えられていた西暦79年8月24日ではなく、同年10月17日以降だった可能性が出てきたように、

 https://www.afpbb.com/articles/-/3193580

 たった一つの史料で全てが覆るのが歴史の恐ろしい所ですが、豊後側史料からの見解を残しておきたいと思い、あえてヤバそうな問題に踏み込んでみます。


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 一ヶ月ほどの下準備の終え、俺は対馬に向かっていた。

「しかし、何故あのような場所に大船団で向かっているのですか?」

 とベッキーこと戸次が尋ねてくる。

 船頭は大分が誇る最強水軍 若林氏と岐部氏。

 その船中には戸次鑑連と、高橋紹運の父 吉弘鑑理という現時点での最強メンバー。

 そして一島を相手にするための戦力として大砲10門、ライフル100丁を用意し、島の10個くらいなら占拠できる戦力を編成した。

 ベッキーが不審に思うのも無理は無い。しかし


「あー。対馬ではそうなんだよ」


 これから向かうのは犯罪者の巣窟かもしれない場所だからである。


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 大友宗麟に関する誤解の最たるもの、奴隷貿易。


 ここに来てすぐ、さねえもんに

「大友宗麟って火薬と引き換えに人間50人売り飛ばした人だっけ?」

 と聞いたら説明されたのだが、大分県史料と先哲史料大友宗麟と言う本を読んだ限りではそのような話は聞いた事が無いという。


 なお大分県史料は33巻。戦国時代に関する書状だけでも8000通以上。

 先哲史料大友宗麟は5巻。収録されてる書状は2500通以上あるらしい。

 辞書の方がページ数が少ない。


 なのに徳富蘇峰という人間が『近世日本国民史』という本で書いた根拠不明な説を曲解して大友宗麟につなげただけの話の方が広まるとは皮肉な話だ。

 江戸時代や明治時代のフェイクニュースはいいかげん沈静してもらいたいものである。と、怒った顔で言う。


「だいたい、戦国大名にとって国民は重要な生産力であり戦力でもあるんですよ?仮に

 なので伊達家では下人と呼ばれる奴隷に近い人間が逃亡し、自分を売って他国に逃亡しようとしたら、それを斡旋した商人ともども処罰対象にしている。(身売りの日本史のP73)

 徹底的な囲い込み政策だ。

 そんな中で他国に売られた日本人と言うのは、戦争や貧困で奴隷となった人間を売り買いすると さねえもんが言う。

「まあ、未発見の書状が見つかれば覆る可能性はありますが、『大航海時代の日本人奴隷』って本でも「大友宗麟が積極的に奴隷貿易に関与したとは言いがたい」と外国の史料を読みこんだ方も結論づけてましたし、可能性は低いです」

 強力な後ろ盾を知っている上で『豊後では人身売買は行われていない』とさねえもんは言う。

「1587年に薩摩が豊後に侵攻し、薩摩に50人ほど連行された事がフロイス日本史8巻P266~8にかかれているんですけどね」

 1588年の記録でフロイスが聞いた話では、島津軍が捕虜として連行した豊後人が肥後に連れていかれて売却されたが、肥後も飢饉で困窮していてわが身すら養うことすらおぼつかない状態にあったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、島原で40名がひとまとめにされ二束三文で売られたとある。

『これ以外で豊後の記述による奴隷売買が書かれた記述はない』

 とさねえもんは断言する。

 幕府の御家人である豊後では人さらいなどの犯罪者は厳しく取り締まられていたのか、そんな商売をしなくても硫黄の貿易で国が運営できていたのだろう。

 

「ただ、その中で一つだけ人身売買に書いてある書状がありました」

 そこで登場するのが対馬の書状だ。


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 大分県資料26巻P90~には薬師寺文書という九州史で特異な書状がある。

 何が特異かというと、書かれた地域がである。

 薬師寺というと豊後では津久見の一族が有名だが、こちらの一族は対馬の武士。

 宗氏に仕えた一族が湯布院に移住したため大分県の史料として収録されたという。


 その文書に以下の文字が並ぶ。


・かいくち ならびに船の売くち・かい口諸公事等、閤候所也。(=人や船の売買などの雑務への参加を免除する)

 仍此旨可被存知之状、如件

 文安元年(1444年)11月12日 (宗)貞宗」


「しもへ(僕)のうり口・かいくちの事、御免ある所也、そのむねそんちすへき状、如件(=人の売買を許可するので、その事を知るように)

 文安6年(1449年)6月2日 (宗)貞盛」


 どうやら人身売買を対馬では行っていたらしい。

 文明7年(1476年)にも同様の書状がある。

 それ以降は元服の書状や官位任命の書状になるが、奴隷貿易自体は中国人和冦 王直が取り仕切っていたといわれているので、人身売買の拠点となってはいたのだろう。


 WIKIだと博多も取引拠点になっていたというが、こちらは民間商人が裏で売買していたのかもしれない。


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「というわけで、不当に取引されている人間を幕府の命で解放しにきた」

 一日前に対馬の守護 宗氏に使者を送り、準備や小細工をさせないよう翌日の朝には到着という抜き打ち検査のような到来をした俺達一行。

 対馬の守護 宗はあまりの早さに対応しきれないはずだが、汗一つかかずに

「不当と申されましても、何の事かさっぱりわかりませぬな」

 とぬかした。

「そうか」

 そう言うと俺は

「では、この書状はどう言う事じゃ?」

 人間を売り買いした書状を突き出した。


 いかに甲賀忍者といえども島への潜入は難しいだろうから、商人と奴隷に紛争させて実際に売買をさせる、おとり捜査をさせたのだ。

 マッチポンプ?知らない言葉ですね。


 さて、ここで当時の奴隷取引事情についてちょっと解説しておこう。

 身売りの日本史のP28によれば鎌倉時代でも人身売買は違法とされていたらしい。

 戦乱さめやらぬ鎌倉時代には人さらいが出没し建長年間(1249~56)の幕府法で違反者は追放刑に処したという。

 だが元々根無し草として活動していた犯罪者にとって追放とは何の効果もなかったため正応3年(1290)には顔に火印を押し、1目で犯罪者とわかるようにし再犯防止をした。

 それでも人さらいは止まらなかった為、1303年にやっと盗賊に準じる犯罪と判断され斬刑となった。

 つまり人さらいは死刑。

 国というのは国民が安心して暮らせるよう生活を保障しなければ成立しないのだから当然と言えば当然だ。


 その国民を売り飛ばすような国首がいれば取り替える必要があるといえるだろう。


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「なるほど。このような取引が私の預かり知らぬ場所で行われていたのかもしれませぬ。しかし、ここは我が宗一族が統治を任された国。いかに大友様が豊後肥後肥前の守護であろうと、口出しをされる謂われはござらぬ」

 と、宗は取引はあくまで民間人が勝手にやった事であり、内政干渉をするなと強引に論点をすり替えようとしている。

 よく九州2島というが、対馬は2郡9里の対馬国という独立した行政区である。

 なので地位としては自分と同格。

 内政干渉をされる謂われはないと言いたいのだろう。だが

「あー、今回の件は将軍様も御存じでな。人民を他国に売るとはけしからんとの書状も貰っておる」

 人が簡単に誘拐されるような世は安心して暮らせるわけもなく、治安を守るべき統治者としては見過ごせない問題ですよね。と、綸旨を貰っておいた。

「というわけで、さらわれた者たちは足利様の名において解放するし、断るならこの場で首をはね刑罰を執行しようと思うが、どちらが良い?」

 屠殺場へ連れてかれる豚を見るような目で告げた。


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 私は外国語は全く読めないので、『大友宗麟は奴隷貿易に関与してない』と断言できなかったですが、欧州の史料読みこんで研究をされている方の『大航海時代の日本人奴隷』という本で「大友宗麟が積極的に奴隷貿易に関与したとは言いがたい」と書いていたので胸を張って正義の味方サイドで奴隷貿易について語って行きたいと思います。

 もし、違ってたら素直に謝ります。ごめんなさい。

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