29.君の空になりたい

 ピアノ、ヴァイオリン、アコースティックギター。楽器に触れる三人が正面に集結。

 海人がピアノの椅子に座り、1音鳴らすと、それに合わせて葉子がギターの弦を鳴らした。海人がもう1音鍵盤を押すと、次は彼の母親・御園少将がヴァイオリンのボウを構え、弦においてゆっくりと音を奏でる。最後に海人の合図で、三人一緒に音を鳴らして確認――という準備が始まる。


 ユキのアナウンスが入る。


「音合わせをしておりますが、準備が整うまで、あとひとつ。こちらでムービーを見ていただきたいと思います。これで、私たち双子が監修した披露宴向けムービーは最後になります」


 そこでユキがすっと引いて、弟のナオと共にテーブルへと戻っていく。

 これでひとまずのお役目を終えたのだろうか、ゆっくりとテーブルに腰をおちつけ、遅れて運ばれてきたメイン料理を食べ始める。


 最後のムービー。

 流れ始めた映像は、どこなのだろう。狭い通路に、二段ベッドが並んでいる風景……。空母の中だとわかった。

 スクリーンからまたユキナオの声が入る。


『これ、ご自分で撮ってくださいね。ちゃんとちゃんと、心からの愛の言葉を残してくださいよ』

『そんな怖い顔をしないでくださいよ~』


 双子の声が聞こえ、ひとつのベッドが映し出される。

 そこには飛行服を着ているが、上半身はTシャツ一枚、ずいぶんとラフにくつろいでいる金髪の男が、ベッドに座っていた。

 少し無精髭が出ているその男はエミリオだった。

 双子の声かけに、顔をしかめ、金色の髪をかきあげて、とても億劫そうな表情でいる。


『なんでだよ。そんなの式で誓い合うし、帰ったら存分に伝える』

『そんなの当たり前じゃないですか。だから、その時に言えないことを伝えるんですよ』

『……思いつかないな』

『それでもいいですよ。なければないで、藍子さんには渡さないだけなので』

『渡すのか? 藍子に?』

『気の利いた言葉だったら、ですよ。ダメダメだったらボツにしますよ』

『無駄だ、やらない、絶対に』


 双子がエミリオにカメラを突き出しては、エミリオが突き返しの映像が続く。

 すると二段ベッドの上段から、ひょいと柳田中佐が顔を出した。


『それなら。エミルひとりだけにしてやろうぜ。ほら、ユキ、ナオ。エミリオにカメラを渡して、俺たちは外に出る』

『はい、わかりました』

『じゃあ、クインさん。十五分ぐらいで俺たち回収に来ますね』


 柳田中佐がベッドを降り、ユキナオがエミリオにカメラを渡す。

 航海中、エミリオが就寝しているだろうベッドに一人取り残される。

 渡されたカメラはエミリオが持ち替えたため、彼の姿が消え、ベッドルームの床が映されている。

 それがしばらくすると動き出す。エミリオのため息が聞こえてきた。

 彼がどこかにカメラを置いて、ベッドに座った自分が映り込むようにセットしたのがわかった。

 再度、自分が寝起きしているベッドに彼が座った。

 任務中でマメに手入れをしていない頬に顎にはうっすらとした金色の無精髭。金色の髪も少し伸びていて。彼がその髪をかき上げる。まだなにか躊躇っていて、ひとりでため息をついている。腿に肘をついて、手を組んで、思いあぐねている様子が繰り返されていた。


 やがて。彼がカメラに向かって、語り始めた。


『愛しているなんて、当たり前すぎて。もうすぐ帰還できるだろうし、そう信じて疑っていない。一週間後には美瑛にいて、夫として妻に誓いを立てる。だから、いまさら――』


 会場が静まり返っていた。海人たちの音合わせも、そこで一度止まっていた。

 いつも麗しく美しすぎる男、気高いクインと言われている彼が、男臭い狭い空間で、しかも無精髭スタイル。どこかアンニュイな面持ちで静かにそこにいる。

 任務中だから結婚前だからと浮ついた精神ではないことが伝わってくる。だからこそ『いまは熱愛に没頭できない』、常に厳しい精神状態に追い込んでいたい時だと言いたそうだった。


『でも、そうだな。ほんとうに帰還できるかは、わからない。艦に乗っているとそんな思いは払拭できない。また戦闘機乗りである以上、誓えない。それでも、妻にと選んだ藍子には、心を誓いたい。必ず還る、諦めずに還る。それも誓う。でも、どうにもならないこともあるだろう。その気持ちだけが拭えない』


 そこで、エミリオがカメラから目線を外し、またため息を吐いた。


『喜ばしい日には、なかなか言えないだろうから。それなら、いまここで言っておく。もし、俺になにかあったのならば……。俺の魂はそれでも藍子の元において欲しいと願う。でも、藍子には俺が消えた後でも幸せになってほしい。藍子が新しく選ぶ男が、俺も安心できる男であることを願う。海人やユキナオがそばにいるのならば、また、俺の父、母にも、義妹の瑠璃ちゃん、義弟の篤志にも……。藍子のその後を見守って見極めてあげてほしい。つまらない男が近づいてきたら、追い払ってくれ。すまない。なかなか言えなくて、おそらく、結婚式の日も雰囲気を壊したくないから言えないと思う。せっかくの、愛の言葉を残せ……だったが。それならば、心に残っていること、迷っていたことを言い残す。藍子、こんな記録ですまない』


 軍人である以上、拭えない想いだったとエミリオが付け加えた。


 ここからだった。静かに、演奏が始まったのだ。

 葉子のアコースティックギターの音から始まった。聞き覚えあるそのメロディーは、パッヘルベルの『カノン』。

 御園准将の誕生日会で、海人が妹と母親と演奏をした曲。エミリオと藍子にとっても思い出の曲だ。藍子自身も常々、相棒の海人に『御園家お誕生日会恒例の曲かもしれないけれど、私とエミルにとっても思い出の曲になったの。大好き』と伝えていたから?


 今日は杏奈がいないが、そのかわり葉子がチェロのパートをモダンなアコースティックギターで綺麗に音を重ねてくれている。


 そんな中、エミリオの言葉が続く。映像の中のエミリオは、カメラを自分の手に持って、真っ正面から自分の顔を映している。


『これも誓っておこう。これも言いたくないことだ。藍子、もし藍子になにかあって、俺と子どもが遺されたら……。安心しろ。俺は誰も選ばずに、独身を貫きとおし、藍子の魂を感じ取って、子どもたちを育てあげる。そう誓っているよ、俺自身にも。だから、空を飛びたいなら、飛び続けてくれ。俺は空を飛ぼうとしている女がいると知って、藍子を知った。藍子が飛び続けることで研修のたびに小笠原にやってくる――。何度も、飛ぶためにやってくる。だから藍子を気にして、力になりたいと思っことから芽生えた気持ちだったから。俺の妻が空へ向かう以上、それも誓っておきたい。それが、俺の、いまの言葉――』


 そこでエミリオが黙った。翠色の目がカメラを凝視すると、そこでスイッチが切られてしまった。


 しあわせな気分が続いて頬も熱くなっていた藍子だが、そこですっとなにかが醒めるようだった。夢から現実に戻されたような……。隣にいるエミリオを見ると、彼が少し申し訳なさそうな顔をしていた。


「ここで使われるとは思わなくて……。いや、あれだけいろいろ集めていたから、もしやと、思っていたんだけれど。あんな、気の利かない言葉しか残せなくて、すまない」


 でも大切な言葉で、ありえる現実に対することに目を背けず、藍子を案じてくれた心積もりは大事なこと。だから、醒めたのだ。夢から現実に目覚める。そして、藍子にも『覚え』があって、もしや――と心臓がドキドキしてきた。


 優雅なカノン。追従曲でおなじ旋律が繰り返し演奏される中、スクリーンに映し出されたのは、制服姿の藍子だった。

 海の上を往くフェリーの甲板が映っている。

 あの日だ。帰還してくるエミリオを初めて港まで迎えに、海人と一緒にフェリーに乗った日。甲板で海人が急にスマートフォンを構えて言った。


『結婚式一週間前、帰還するフィアンセへ、愛のひと言を!』

『藍子さん、俺の母は、いつものように胸を張って帰ってきたと思ったら、その日から大隊長を解任でしたよ。そういうこと、平気であるのが防衛任務です。いまここで、戸塚少佐に伝えられる言葉を――』


 決して、将来が保証されているわけではない。

 相棒がそういった言葉を胸に、藍子も海人が向けるレンズに神妙に向き合った。さざ波の音がひびく、フェリーの甲板で。その動画がいま、映し出されている。


 カノンの優しい演奏の中、藍子も真顔で向かっている。

 潮風に制服の黒いネクタイがはためいている。藍子も、その日は結ばずにといていた頬にかかる黒髪をかきのけながら伝える。


『戸塚少佐、おかえりなさいませ――。新島に向かうフェリーに、海人と一緒に乗っています。初めて、任務から帰港するあなたを地上で迎えることができます。いつも職務飛行中で空にいて、港まで迎えにいくことができませんでした。家族や恋人が迎えに来てくれる中、少佐はいつも一人で陸にあがって、一人で家路につく……。迎えに行けないこと申し訳なく思ったり、もどかしく思ったりしていました。だから、今日はあなたを迎えに行けることが、とても嬉しいです。艦から降りてきたあなたが陸を踏んだその瞬間から、そばにいられる、いてあげられる。でも……、これからも毎回はきっとできない。これからも迎えにいけない日もあると思います。私が職務を背負っている以上、ごめんなさい……』


 カノンのサビの部分、盛り上がる旋律の中。藍子もそこで言葉を止めた。


 海人がなにも言わずにただただレンズを向けてくれていたことを思い出す。つい数日前のことだ。


 カノンとさざ波の音が混ざる中、ホールでデザートと珈琲や紅茶を楽しんでいたテーブルからは、またすすり泣く音が聞こえてくる。特に親族席……。藍子の祖母がもうハンカチ片手にぐずぐず大泣きしているのが見えてしまった。


 藍子も躊躇っていた言葉を吐き出す映像が――。


『軍人に囲まれて育った海人が、いつもと変わらずに帰還してくると思っていても、いつまでもおなじ日が続くとは限らないと教えてくれたので、私もそのつもりで……ここで伝えておきます。あなたになにかあっても、私はあなたを忘れないし、あなたしか愛さない。あなた以外と結婚なんてしない。あなたとの子どもは私が責任をもって育てあげます。それを……たぶん、結婚式休暇を楽しみにして帰ってくるだろうあなたにすぐには言えないだろうし、結婚式の日も楽しく過ごしたいから、今日、伝えておきます。逆に、私になにかあったら、子どものことよろしくお願いいたします。というか、心配していません。気高いあなたは、立派に育ててくれると信じています。そして、あなたも、なんとなく、私の我が儘、言っていいですか……。きっと、独身を貫いてくれるような気がします。そうだったら嬉しいな。それでも、心配もあります。あなたの心を優しく包んでくれる女性がいたら、愛しあってほしいです。私はあなたの強い心が好きだから、あなたの心の癒やしになりたいと思っています。強いままだなんて……。あなたには柔らかい場所が必要です。一人きりはやっぱり心配です。だから、もしもの時は、そんな人と出会って欲しいです』


 ふたり。帰還する前、迎える前。また結婚式を一週間後に控えて、おなじことを考えていたのだ。それをいま、ここで知ったのだ。


 カノンの曲が優しく流れる中、藍子とエミリオは再び、驚きをそろえて見つめ合っている。


「藍子……。そんなふうに思ってくれていたなんて……」

「エミルだって……。でも、やっぱり嫌。絶対に帰ってきて。私も帰ってくるから」

「もちろんだ。俺だって……」


 思い出の曲の中、人目も憚らずに、ふたりだけの席で抱きあってしまった。

 結婚式の幸せな誓いとはまた違った気持ちを重ねるふたりを、誰もがそっとしてくれている。

 カノンの曲が流れ終わるまで、エミリオは制服姿のまま、白いドレスの藍子を抱きしめてくれている。


 カノンの曲が流れ終わると、ピアノを弾いていた海人が立ち上がる。

 葉子の目の前にあるマイクスタンドに立ち、抱きあっている新郎・新婦テーブルへと目線を向けた。


「映像を集めていた自分と双子のユキとナオ。最終編集にあたり、持ち帰ってきた映像を最後に確認をすると、最後の最後にそれぞれが撮影した新郎新婦の『本音の誓い』がおなじで驚きました。ほんとうにお似合いの二人だと思います」


 空母にいたユキナオの撮影、常に藍子と一緒にいる相棒海人がそれとなく促して撮ってきた映像。それを編集前に確認して驚いたとのことだった。


「あともう一曲、藍子さんとエミリオさんに贈りたいと思います。さきほど演奏したカノンですが、我が家では父が好きな曲で、父の誕生日会で母とチェロ演奏者である妹と必ず弾く曲です。おふたりも父の誕生日会に来てくれたことがあります。おふたりは結ばれたばかりの恋人同士だったと思います。自分がこのカノンをピアノで弾いている間、おふたりが見つめ合って幸せそうだったことを覚えています。その後、藍子さんがこの曲は思い出の曲になったと常々伝えてくれるので、『本音の誓い』を上映する際のBGMにしてみました。もう一曲は、『大沼で唄うチャンネル・ハコ』を運営している葉子さんに相談して選びました。葉子さんは動画配信でリスナーからリクエストを募ってたくさんの楽曲を唄い続けてきました。さまざまな年代の楽曲をご存じだったので、お二人にぴったりの歌詞とタイトルがついている曲を選んでもらいました。相棒の自分も、これはおふたりに聴いて欲しい曲だと思い、この曲に決定しました。小笠原と函館・大沼と離れていましたが、オンラインでセッションの音合わせ、母のヴァイオリンも含め、音楽家である妹にも協力してもらいアレンジを決めていきました。それでは……お聴きください。曲名は――」


【 君の空になりたい 】


 再び海人がピアノに戻り椅子に座る。マイクスタンドを前に立った葉子と、ヴァイオリンを構えた御園少将とそれぞれ目線を合わせる。

 最初にソロでイントロを鳴らしたのは、葉子のアコースティックギター。その後、海人のピアノ、葉月さんのヴァイオリンの音が一斉に重なり、カノンとは異なるアップテンポなリズムの曲が始まる。


 本音の誓いに『もし……』なんてしんみりとした空気が漂っていたのに、それを一掃するような爽やかでアップテンポな楽曲が始まった。


 しかも歌詞が入る部分が始まり、マイクに向かって唄い始めた葉子の声! ほんとうにプロ並みだった。歌手志望だったことがうなずける、会場いっぱいに通るクリアな声! 会場がぱあっと明るくなっていく。


 海人が歌詞に拘ったと言っていただけあって、葉子の声で聞こえてる言霊も藍子の心に響いてくる。


 その歌詞たちは、いままでの藍子のようだと驚きを覚えた。


 肩肘を張っていきてきた不器用な自分。

 引っ込み思案で内に閉じこもりがちだった苦い思い出。

 知ろうともしなかった、戸塚少佐の愛情。優しさ。


 そんな彼と一緒に歩き出した自分。


 あなたをどこまでも飛ばしてあげたい。

 あなたの強い心を癒やしてあげたい。

 あなたの空になりたい――。


 何度、苦しいことがあっても。

 あなたとなら、乗り越えていける。


 いままでの自分が聞こえてくるようだった。


 葉子もそんな歌詞のところで、藍子とエミリオがいるテーブルへと目線をむけて微笑みながら歌い上げてくれる。


 エッジの効いた葉子のギター音、アップテンポな海人のピアノ伴奏、葉月さんがエレガントに重ねるなめらかなヴァイオリンのメロディ。

 葉子の透明感あるパワフルな声も心に頭に耳に全身に響いてくる。

 もうすぐ白い制服とドレスを脱いで、本当の夫と妻として歩き出す。そんな藍子とエミリオを後押しする元気づけるような、心浮き立つ音楽だった。


 涙をためて抱きしめ合っていたふたりだったが、今度は堅く手と手を握りしめ、微笑みを浮かべていた。


「やっぱり、いつまでも。藍子が誇ってくれるパイロットのままでいたいな、俺は」

「私も。あなたが飛び続ける空をずっと見つめていたい。その空を私も飛んでいたい」


 それが、わたしたちの『空』。

 本音の誓いはしたけれど。本当の誓いは『最後まで一緒にいられること』。


 


※【君の空になりたい】 MANISHより※

歌詞の抜粋はしていません。寄せた表現に変えています。

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