22.Emotional〈エモーショナル〉

 教会の控え室で、撮影で崩れたところを、またエリーとサマンサが直してくれる。

 ああ、いよいよなんだなあと藍子もまた緊張が高まってくる。


「そろそろお時間ですね」


 お化粧とヘアメイク、そしてベールに髪飾りを直してくれたサマンサが呟くと、控え室のドアが開いてエリーが戻ってくる。両親が一緒に入室してきた。

 父の青地は黒のモーニング、母の真穂は黒のフォーマルスーツに整えてきていた。


 やっと娘の花嫁姿を見た母がまず涙を浮かべていた。


「藍子。……ほら、やっぱり。あなたもとっても素敵な花嫁さんになれたじゃない」

「お母さん……」

「これまで、長女として実家をささえてくれてありがとう。そのためにお国を護る仕事に身を挺してくれた分、あなたにはうんと幸せになってほしいと思っていたの。瑠璃もそうよ。誰よりもお姉ちゃんにも、女性としての幸せを知ってほしいと願っていたからあんなに頑張っているの……。ロサ・ルゴサだって、あなたは遠くから空を飛んで護ってくれていたのよ。ありがとう。幸せにおなりなさい。これからも困ったことは我慢しないで、すぐに相談するのよ。エミル君にもそう言っておいたから。藍子が言えない様子を見せたら、貴方から教えてねって。任せてくださいって……」


 先に新郎控え室にいるエミリオと戸塚の両親と挨拶を交わしてきたとのことで、そんな話をしていたことに藍子は驚く。


「おかあさん、ありがとう。でも、大丈夫だよ。私には、あんなに頼もしくて強い夫がいるし、頼りがいのある同僚に後輩も、先輩も、上官もいるの。今回、わかったでしょう」


 母が『うん。昨夜、よくわかった』と涙ぐみながらも、『ちょっとびくりするけど楽しい双子ちゃんが賑やかにしてくれていることもわかった』と言いだしたのには笑いが堪えられなくなってしまった。


 父はこんな時もいつもの父で、涙に暮れる母の後ろで、静かに佇んでいる。


「お父さん。厨房、忙しかったでしょう。私とエミルのためにありがとう」

「娘の式で自分の腕をふるえることだって、料理人には夢のような体験だよ。それに、ニセコや札幌時代の同僚に、大沼からは後輩の十和田も来てくれたしな。上等のホールスタッフとして、ベテランのメートルドテルにギャルソン、ソムリエまで引き連れてきてくれた。準備は万端だ。藍子とエミル、戸塚のご両親、小笠原の方々に食べてもらうことが、父さんも今から楽しみだよ」


 そんな父も、母のそばに立ち、白いレエスの手袋をしている藍子の手をそっと取った。


「海軍の夫を持つ妻になるのだな。そして、妻の藍子も、引き続き防衛に勤しむパイロットとして生きていくのだろう。私たちは、地上から常に祈ることしかできない。ひとときも忘れない。願っている。彼がおまえが、いつまでも幸せであるために、なにごともなく、常に滑走路へと帰還できる日々を――。還ってくることが、おまえたちのしあわせに繋がるのだから」


 父としての心配がそこにふんだんに込められていた。

 でも、そのうえで信じて待っている。願っている。それが娘の結婚を見届ける親の気持ちだと父が手を握ってくれる。


 また涙が出そうで。やっぱり藍子は必死に我慢をする。


「今日はシェフとして、披露宴では厨房にまた入ることになるから、ここで父親の言葉としておく。藍子、おめでとう」

「ありがとう。お父さん。これからも、必ず、エミリオと一緒にここに帰ってくるからね」

「うん。待っている。そのたびに、うまいものを作ってあげよう」


 しばし両親と向き合って、結婚する娘が妻となる気持ちを確かめ合った。


 涙を拭いた母がやっと笑顔になる。


「さあ。お父さん。父親の大事なミッションですよ。大丈夫かしらね。料理以外のこと、ちょっと心配になっちゃうな、お母さん」

「なんだと。瑠璃の時にはきちんとできていただろう」


 これから藍子と腕を組んでヴァージンロードを歩く『ミッション』があるなんて母にたきつけられ、父が少し慌てたので藍子も涙が乾いて頬が緩んだ。


 そういえば瑠璃の時も、堂々としているようで、なんとなくロボットみたいにカチコチして歩いていた父を思い出してしまったのだ。



 エリーの介添えで、藍子は父と並んで聖堂へと向かう。

 母は瑠璃と篤志がまつ参列席へと先に中に入っていく。


 お御堂の扉前には、ふわふわ白ドレス姿で花籠を持った心美が待っていた。


「あいちゃん。本番だね」


 園田少佐がまたはらはらした顔で、心美のそばに付き添い『母親の私が緊張しちゃう』と言いながら、娘の晴れ舞台にドキドキしているようだった。

 モーニングの父も小さな女の子のドレス姿に目尻を下げた。


「ここちゃん、昨日はうちのハマナスもいっぱい摘んで、そこに入れてくれたんだよな」

「うん。あいちゃんの実家だから、あいちゃんのパパママと妹の瑠璃ちゃんがいるおうちのお花も必要だと思ったの。小笠原のここみのおうちのバラも入ってるよ」


 新鮮な状態の花々を持ってきてくれた花籠からは、実家にいる時の花の香りも、小笠原で過ごしている海辺の住宅町の香りも、藍子の鼻を掠め、気分が和らいだ。

 そんな心美の素敵な提案にも感激してしまい、藍子はちょっぴり目尻に涙がぽつんと浮かべていた。

 ほんとうに今日はいちいち涙が滲んでしまい困ってしまう。


「ここちゃん。今日までありがとう。素敵なお花のお祝い、私、ずっと忘れないからね」

「ここみも。あいちゃんとミミの結婚式、お花がいっぱいの結婚式初めてで、準備もおてつだい楽しかったから忘れない」


 エミリオが先に親しくしていた小さな親友だけれど、こんな小さな彼女がどれだけ素敵な思いを運んできてきてくれたことか。これも幸運だと藍子は思っている。


「もうじき、です。私が扉を開けましたら、お進みください」


 エリーが扉の把手ハンドルに手をかける。


 花籠を持った心美を先頭に、藍子と父の青地はその後ろで腕を組んで並んだ。


 今日はコックコートではない父を見上げると、いつもは何事も落ち着いている父がふうっと息を整えているのを見てしまった。

 やっぱり料理以外は緊張するのかなと笑いたくなってきた。


「なんだっけな、藍子。滑走路で飛び立つ前はなんていうんだ」

「飛び立つ前? テイクオフする前のこと」

「なんだ、いろいろと段階があるんだろう」

「うーん。走行を始めて、スピードが出て、」

「そうだ。エミルが冬に来て初めてスキーをした時に、リフトから降りててっぺんから滑走を始めるまでに『つい、ぶい……?と確認で呟いてしまいそうになりました』とか。地上から浮き上がるまでも細かなチェックがあってついついとか。その心積もりを整えるみたいなヤツだよ」


 あ、昨日、小笠原をプライベートジェットで飛び立つ前に、乗客がパイロットだらけだったから皆で唱えたあれかと藍子も気がつく。


「滑走路を走行開始。V1ブイワンのことかな。V1は離陸決心速度到達、ここまで到達するとどんな機体トラブルがあったとしても、もう飛び立つしかなく機体は止められない速度に到達」

「それだ。そう、もう後戻りはできない。V1、当然OKだな」

「OK。VR=離陸速度、到達。機種をあげるため操縦桿を操作」

「よし。いくぞ、エミルのところまで」


 ここで扉の向こうから、パイプオルガンの音が聞こえ始める。

 厳かな音色なのに。父と腕を組んで、藍子は目を瞑って、父と唱えている。


「V2=上昇速度に突入。テイクオフ」

「そうだ。藍子のテイクオフだ」


 やっと気がつく。パイロットの娘がいつも緊張感を募らせつつも、既に手練れた職務をこなしている時同様、普段通りでいられるように。その気持ちでいま、開かれた扉の向こうに現れた道を行こうと父が落ち着かせてくれたのだ。


 その道の向こうにいる夫になる彼とのこれからは、もう引き返せないし、飛び立つしかない。このまま上昇していけと言われているようにも感じたのだ。


 もうそれだけで藍子は、またもや泣きそうになっていた。


「開けます。どうぞ。中へ」


 エリーの合図で扉が開く。

 心美がふと藍子へと振り返った。


「テイクオフ、いまから、クインのところまでお花の軌道で案内するから、アイアイ、ついてきてね」


 さすが、パイロットファミリーの末っ子だなと緊張が一気にほぐれて、藍子は父と顔を見合わせ頬が緩んだ。


 パイプオルガンの音、開かれた扉。祭壇にまっすぐつづく道、待ち構えている参列者。道の向こうには、真っ白な海軍制服の彼が待っている。

 藍子の目の前を、白いフラワーガールさんがちいさな手に花びらを握って、歩き始めたヴァージンロードに、最初のひとふり。白に紅にラベンダーの穂先も入っている。ふわっと香る花の道を、藍子は父親と歩き出す。


 新郎側の参列席、弦士パパとエレンママ。その後ろは城戸ファミリーと、柳田夫妻が息子の湊と並んでくれている。

 新婦側の参列席には、母の真帆、妹の瑠璃、義弟の篤志が先頭に。その後ろには、札幌から来てくれた母方の祖母と、伯母夫妻と従姉がいる。その後ろに新婦の友人関係として、海人が両親である御園夫妻と一緒にならんで手を振ってくれていた。


 小さなフラワーガールさん、ママと練習をしたのか、いっぱいうちあわせをしたのか。きちんと左右と正面へとバランス良く、絶え間なく、藍子が行く道をお花で満たしてくれる。


 その道を、父と一緒に白いドレスであるく自分……。

 目の前には、翠の瞳でこちらを見つめているブロンドの男。白い海軍制服が今日はひときわ眩しい。


 意地悪だったよね。

『木から落ちるなよ。南のお猿アイアイ、モンキーちゃん』だったかな。

 思い出した藍子は、あの時は嫌な気持ちになったのに、いまはふと笑みが浮かんでしまった。


 俺の家に来いよ。

 あれも強引だったけれど、エミリオがいつだって藍子を見守ってくれていたからこその言葉だったことは、もうわかっている。

 あの一夜があったからこそ……。今日があると思っている。


 恋人と言え。

 あれも強引だった……。あの時の上官口調も懐かしい。



 小さな白いフラワーガールさんが導いてくれる花の道。そこを辿った先にいる白い服のブロンドの人――。

 その男の足下まで、白い女の子が花びらをまき終えた。

 花籠を持ったその子がブロンドの彼を見上げる。小さなおくちが『ミミ、おめでとう』と呟いたのがわかる。

 翠色の瞳、その目元が緩む。嬉しそうな彼が、白い手袋をしている手で、女の子の黒髪を撫でた。

 花籠を持ったまま、フラワーガールさんは、ママとパパがいる席まで。城戸准将と園田少佐も娘が大役をしっかり果たして嬉しそうにしている。


 心美が導いてくれたその人の目の前に、父と並んで辿り着く。


 父がエミリオを見つめる。


「エミリオ、よろしく頼むな。娘にも伝えたが、常に君と藍子が帰ってくることを望む。祈る。見守っている」


 腕を組んでいた父が藍子の手をそっと取り、そのまま白い海軍制服の男へと差し出す。


「自分のプライドは、藍子を愛し抜くこと。そう伝えたことがあります。空を飛ぶ使命同様、それ以上に、大事に護ります。そして、お父さんのところに連れて帰りますからね」

「うむ。エミルもだよ。私の息子なのだから――」

「はい」


 彼の翠の瞳が一瞬だけ濡れたのがわかる。

 父が差し出す藍子のレエスの手を、白い手袋しているエミリオが受け取る。


 父がそこから退いていく。


 手と手を取った真っ白な花嫁と花婿だけになる。


「行こうか」

「はい」


 今度は白い制服の彼と腕を組む。

 二人揃って、祭壇へと向き合う。

 厳かに鳴り響くオルガンの音色の中、彼とゆっくり階段へと一歩を踏み出す。


 ほんの数段の階段をあがる間も、藍子は思い返している。

 藍子を愛し抜くことが、俺のプライド。私たちが『嘘の恋人同士』から『本当の恋人』になった後に、エミリオが言ってくれた言葉だ。覚えている。

 あの時に、おたがいの実家へ行こうと約束をした。

 それが恋人という気持ちだけでは足りなくて、もう一緒になろうとシンクロした時だったと藍子は思っている。


 その時に、エミリオが言ってくれたこと――。


『ここに印をつけてもいいか。いや付けさせてくれ』


 藍子の薬指を愛おしく愛撫してくれたあの夜。

 あれから一年。約束の印が今日、その指に。


健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を夫を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか――。


 夫が藍子に誓い。

 妻が戸塚エミリオに誓う。


 指輪の交換を――。



 シンプルなプラチナの指輪。


 それを手袋を取った彼の指へ。

 やさしく手を取ってくれた海軍制服の男が、花嫁の指へ。



「もう一度誓う。俺はどこを飛んでいても必ず藍子のところに還ってくる」


 彼が微笑みながら、いつかの言葉をもう一度言ってくれる。

 白い制服の、金色の髪、翠の眼の彼を、藍子も花嫁姿で見上げる。


「待っています。祈って。そして、私の還る場所もあなたのところだけだと誓います」



 白い姿で誓うその向こうに続いているのは、空色だった。

 そこが二人でこれからも立ち向かう世界の色なのだから。

 




 

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