18.クインの誓い
夏の北国の日の出は早い。夜中の三時から空が白み始め、鳥が鳴き始める。
真夏日が続いた中、それでも北国の朝はひんやりとした気温で、やわらかなそよ風が丘の緑を撫でている。
瑠璃と篤志の付き添いで、藍子とエミリオはまずは教会へと向かう。
空に朝の茜が消えるころ、藍子は教会の控え室に準備されたドレッサーに向き合っていた。
教会との段取りもウェディングプランナー側と御園家のエリーチームがそつなく連携を整えてくれていた。ヘアメイクは、ミスター・エドの配下にいる美容部員が担当してくれることになった。エリーも介添え人として教会で待っていてくれる。
夏の早い朝日が差し込んできても、教会はほの明るいだけ。
エミリオは新郎の控え室で着替えるとのことで別れた。
藍子のメイクが始まる――。
「私とおなじチームにいるサマンサです。サリーと呼んでいます。彼女も今後、藍子様とはよく顔を合わせるかと思いますので、お見知りおきを。普段は杏奈様へとついていることが多いです」
「黒猫のサマンサです。よろしくお願いいたします」
エリーと同年代だろう女性が丁寧にお辞儀をしてくれる。
藍子も挨拶をして、ドレッサーへと向き合う。
頬骨にやさしく触れるチークブラシ。目元を彩るアイシャドウ。いつもそこにあるだけの泣きぼくろがキラッと光を宿したように見える。
パイロットだから、黒髪は伸ばすことができなかった。エクステンションをつけてアップスタイルにしていく。
きっちりしたアップではなく、首元でゆるくまとめるアップ。
それにも藍子は懐かしさを覚える。エミリオが『藍子のドレスだ』と勝手に買ってきた時、試着した時に彼が勧めてくれたスタイルだった。
『藍子はきっちりしすぎる。ゆるく隙を作った方が良い』
彼の手がそっと藍子の黒髪に触れたあの日……。恋人になった日でもあった。
あの時とおなじようにヘアメイクを望んだ。
瑠璃もお姉ちゃんはきっちりよりゆるっとしていたほうが可愛げがあるとかなんとか言っていたとか思い出し、妹のはっきりした物言いにも思わず口元が緩んだ。
ラベンダーとカモミールの花を模した飾りを黒髪にさして、白いドレスを着付けていく。
外で撮影すること、あまり愛らしいドレスを藍子が好まなかったこと、レストランウェディングであることを考慮して、裾捌きが負担にならないドレスを選んだ。
総レエスでソフトスレンダーライン。宮廷ドレスのような膨らみはなく、すとんと落ちるラインだけれど、全レエスだからこその生地に重厚感がある分、気品を高めていた。それでも後ろに少しだけ引き裾になる『トレーン』がある。試着の時に教会を歩くときに綺麗だよと瑠璃が教えてくれて、藍子もうっとりしたので選んだものだった。
ドレスの背中をエリーが整えてくれている。ベールは撮影の時と挙式でその都度つけることになっている。
鏡に映る女性が自分ではないようで……。でも藍子は奇妙な感覚に襲われていた。
まるで海軍の真っ白な制服を身につけるときと同じ気持ちになってくる。
そう思うと、気が引き締まってきた。
藍子の背中を整え、メイクをしている御園家部員の同僚と一緒にエリーが髪飾りをさらにさしていく。その時、鏡の中で目が合った彼女がふっと口元を緩めた。
「藍子様らしいお顔です。凜々しく、気持ちを構えていく気高さ。戸塚少佐の奥様にふさわしいお顔だと思いました」
『気高い』。夫になる彼の代名詞みたいな言葉だった。
誰もが言う。クインは気高い男だと。そんな男の妻になる藍子も、そうでありたいと思う。
控え室の窓に徐々に青みを増した空が広がり、きらきらとした夏の陽が射し始める。
さらにドレスが真っ白に輝く。
最後に裾のトレーンを、エリーが跪いて綺麗に広げてくれた。
「できあがりましたよ。思ったとおり。背丈もあって、身体も引き締まっていますから、美しいスタイルと佇まいですね」
この時ばかりは『身長があってよかった』と思えてしまった。あんなに恋をするのに『邪魔な条件』だと思っていたのに。
それでも大きな姿見に映る自分は綺麗だった。これで最初で最後ではないかと思うほどの姿――。
「新郎さんを呼んできますね」
エリーが部屋の外へ出て行くと、サマンサも出て行ってしまった。
まだ静かな朝、小鳥のさえずりだけが聞こえてくる。
部屋の真ん中でじっと佇んでいるだけ――。
まるで自分ではないような自分。鏡に映っている白いドレスの女を藍子は見つめていた。
ドアからノックの音が聞こえ、『藍子、入るぞ』という彼の声が聞こえた。
そっとドアが開くとそこにも、真っ白で目映いばかりの軍服の男が現れる。
金髪の彼がそっと入室して、藍子へと視線を定めたのがわかる。藍子の胸の鼓動が強く打つ。新郎の彼がどう感じるのかドキドキしている。
そっとエミリオへと藍子も視線を向けたのだが、思いのほか強ばった表情をしていた。
え、期待外れだったのかな。もっと違う花嫁姿を思い描いていたのかな? 妹のように『式当日に初めてドレス姿をお披露目して、目に焼き付けてもらうの』という願いは失敗だったのかな……。やっぱり一緒にドレスの試着をみてもらったほうがよかったのかな。藍子の中で渦巻く不安。
彼がクインモードで実直に職務に向き合っている時とおなじ怖い顔をしている。
そっとドアを閉めたエミリオが、静かに藍子の目の前へと歩み寄ってくる。
藍子はそのまま顔を伏せてしまった。
「あの、エミル……」
「すまない。声が出なかった……。瑠璃ちゃんの作戦に完全にやられたと思ったよ」
それは感動していると言ってくれている? 眼差しを伏せていた藍子は、目の前にやってきたブロンドの男を見上げる。
今度の彼はそっと優しく微笑んでくれている。
「俺の想像以上だ、藍子」
「ほんとに……?」
「ああ。怖くなった……。怖くなったんだ。こんなに純真な白を纏ってくれた彼女を最後までしあわせにしてあげられるのかと」
「……どうして。私はエミリオが最後まで誠実な男性であることを信じられるから結婚を決めたのに?」
今度は彼が眼差しを伏せた。朝の陽射しに、金色の
そのままじっと黙っている。エミリオがなにを考えているのかわからなくて、こんな時だからこそ藍子は不安に思い緊張してきた。妻になるのに、彼がなにを思い描いているのかわからないだなんて。
そんなエミリオがやっと気を改めたようにして、見上げているだけの藍子の目を見つめてくれる。翠の眼がより一層澄んでいることだけが藍子にはわかる。
「いままで任務のために空へ行くことも、海へ出て行くことも、なんら恐れたことはない。それが自分が決めた生き方だからだ。俺ひとりなら幾らでも――。どうなっても全うできればいい。そして俺は無敵でなくてはならない。サラマンダーを担い、雷神で前線へ出ることを望まれた男だ。それが俺のプライドであることは藍子もわかってくれていると思う」
「うん……。わかってる。そんな貴方を空へ見送るし、私は待っているよ。還ってくることも信じている」
「でもな、藍子。決して『絶対ではない』ことも、藍子は知っているだろう……」
殉職のことを言っているのだと藍子もすぐに理解する。
こんな素敵な日の始まりに。そんなゆくさきの憂いをこぼすだなんて。エミリオらしくないと思いつつ、でも藍子も思い改める。
こんな日だからだ……。こんな日だからこそ、空へ往く彼を受け止めなくてはいけない。自分の一部にしなくてはならないのだ。
「それも。海軍パイロットの妻になる者として覚悟もしています」
「それは、海軍パイロットの妻を持つ俺も一緒だ。ただ……、そんな真っ白で、きっと輝かしい未来があるだろう藍子を独りにしないか、俺は彼女を孤独にしてしまう男にならないか……。お互いに見送ったその時が最後にならないか。もし家族が増えて、その子達を不幸にしないか。この制服を着ているからこそ、そう感じたんだ」
「同じだから。私だって、いつどうなるかわからない。エミルもわかってるでしょ」
込み上げてきた涙を堪え、藍子はなんとか声に出して伝える。
「だって。私たち、海軍で使命を全うする者同士で結婚すると……決めたんだよ」
「そうだ。恐れを抱いたからこそ、藍子、こうして一緒に居る日々も時間も大事にしていくよ。大事に、藍子と暮らしていきたいと思う。それを誓う、誓うよ、藍子」
やっと彼がクインではない馴染み深い『エミル』の笑みを見せてくれ、そっと藍子の頬に触れてくれる。
そのまま白い制服の彼が、金髪の頭を傾けて藍子の耳元へと唇を近づけてくる。
「藍子、綺麗だ。すぐに言えなくて……畏れ多くなったんだ」
「エミル……」
彼の唇がそっと、
藍子も目を瞑って、彼の唇の熱を感じ取る。
白いドレスを着ている藍子の細腰を、白い制服の男が抱き寄せる。
「このまま気高い藍子のまま、俺のそばにずっといて欲しい。空を飛んでも海に出ても、俺は今日この日の藍子を目に焼き付けて飛ぶよ」
私は貴方の白い制服の……。
そう言おうとして藍子は飲み込んだ。海軍の白い制服を『素敵』なんていうのは簡単なこと。いまさらそんなことを言っても言われても、それはずっと前から知っている彼の姿だった。
今日は『素敵』なんて軽々しくいえない。限られ選ばれた技能を持ち得た男だからこそ、重い使命を持つ業務に挑む。それを担うものが着られる『白』なのだから。いつも以上に厳かに重厚だと藍子に迫ってくる。
「藍子?」
少し戸惑った迷いさえ、夫になるエミリオには見つけられてしまう。
藍子はそれを誤魔化すように、抱き寄せてくれた彼の首に素肌の腕を伸ばして抱きついた。
「こんなドレスを着られたのは貴方のおかげ。絶対に還ってきて。絶対、やっぱり誓って。私も誓うから」
「藍子」
優しく抱き寄せられていただけのドレス姿の自分を、今度は彼がきつく強く抱きしめてくれる。
藍子の首筋と肩先へとブロンドの男が顔を埋めている。
「今日の藍子が俺のお守りだ。白い藍子をいつも心に持って飛ぶからな」
藍子の首筋に何度も熱い息のキスが押される。
まるでその匂いも記憶するかのように、エミリオは藍子の首元の熱をかいでいるようにも感じた。
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