9.もうすぐ、ドレス

 既に機体の中、客室には美瑛行きに招待した一同が搭乗済みだった。

 コックピットに近い前方の入り口から搭乗すると、後部席には城戸一家が、その前方には御園家と柳田家という配置だった。海人と湊が一緒の並びで、その後ろには城戸家の双子、最後列は城戸准将ファミリーが固まって、子供たちがキャイキャイとはしゃぐ賑やかしさが既に機内に響いていた。

 

 「こちらのお席になります」


 機内に入ってすぐ、前方の席へとエリーが案内してくれる。

 ほんとうに最前列の二席。招待客の一同とは数列離されている状態だった。

 賑やかな一行と区別がつくような配置で、新婚さんは二人きりでゆったりどうぞという配慮を招待一行から言われているとのことだった。


 エミリオと狭い通路を並んでシートに着席する。

 わ、もうシートから高級感! クリーム色の革張り。まるでソファーそのものだった。


 最後に搭乗したエミリオと藍子が落ち着くと、コックピットドア前にエリーが立ち、後方へと目線を馳せている。


「皆様、よろしいでしょうか。お揃いのようですね。ただいまからドアをロックいたします」


 後方には彼女の父親のミスター・エドが位置取り、娘へと手を挙げ合図を送ったのを藍子は見る。娘のエリーが無言で頷き、開いていたドアへと向かう。


 その時だった。後方から『ココ』、『こら、心美!』という声が聞こえていて、一瞬ざわついた。

 エミリオも気になったようで、藍子と同時に振りかえる。

 狭い通路に、カジュアルなワンピースを着込んでいる心美が走ってきていた。その後を母親の園田少佐が追いかけてくる。だが心美が一直線に目指しているのは、最前方にいるエリー。


「エリーちゃん!」

「はい、どうかしましたか」


 いつもクールな面差しでいる彼女が、やんわりと笑みを浮かべ、心美を見下ろしている。

 心美は藍子とエミリオが座るシートに挟まれている通路に立って、エリーを見上げていた。

 だが心美も思わず駆けてきてしまったのか、急にハッとした顔になって、両脇にいるエミリオと藍子を交互に見ている。


「あ、えっと……。いいの、……」


 急にしゅんとうつむいた様子に、藍子はエミリオを顔と顔を見合わせた。

 だがエリーはなにかを察したのか、さらに笑みを浮かべ、やわらかに答える。


「万全でございますからご安心ください。シー君のママさんは『運送のプロ』です。なんでも上手に目的地まで運んでくれますよ。ココちゃんの思うままです。エリーも今朝、この目で確認いたしましたよ」

「え!? シー君のママ、アメリカにいるフランクのママって、そんなおしごとしていたの!?」

「あ、えっと……。シー君の、もうひとりの、ママで」

「シー君、ママがふたりいるの!?」


 心美を安心させたいがために、うっかりエリーがこぼしたことはある意味『大人なら理解できる事情』であるため、心美には衝撃だったようだ。エリーに心配事を確認するためにきたのに、思わぬことを知ってしまったと、心美も混乱している。


「こら、ココちゃん。いまからテイクオフよ。テイクオフの時はどうするんだっけ。パイロットのパパがいる心美ならわかるわよね」


 園田少佐ママにぎゅっと捕まえられた心美が呆然としている。


「ママ、シー君、ママがふたりいるってほんと!?」

「ええっと。う……ん、どうなのかな。シー君に聞いてみると……よい、かも?」


 園田少佐も戸惑っている。エリーが珍しく『しまった』という顔をしている。滅多にないことだから、藍子もエミリオも唖然としていた。


「おい、ココ。シー君のママの話をしてやるから、こっちに戻ってこい」


 ラフに着込んでいる黒シャツとスラックス姿のフランク中佐が、心美のところまでやってきて、園田少佐が抱き上げるまえに、さっと抱っこしてしまった。


「シー君、ママがふたり?」

「おう。フランスのママと、日本人のママだ。フランスのママはお仕事が忙しいから、シー君はフランクのおじさんの息子になったんだよ」


 真顔で正直に伝えると、心美もそれなりに納得したのか、そのまま彼に抱きついて後方の席へと戻っていく。エリーもほっとため息をついていた。だが、ちょっと落ち着きをなくしたように藍子には見える。


「ま、誰もが知っていることではあるからな。つい口も滑るだろう。今日はお世話になっているが、この機内にいる乗客は皆、プライベートで基地での顔ではない和やかさだから、エリーもつられちゃうよな」


 隣の席にいるエミリオが、いつもはプロとしての顔を崩さないエリーに彼らしい労いの言葉をかけている。こんな男性なのよね――、藍子は改めて、今日から夫になろうとしている男性のことをまじまじと見つめてしまう。


「なんだよ、藍子」

「ううん。なんかちょっと懐かしくなっちゃって」

「……なにがだ?」


 こうして助けてくれた男性であったこと。そんな気の付く男性だってこと、それが始まりだったこと……。


「宮島に一緒に行ったこととか」


 ほんの一年半ぐらい前のことなのに、藍子は懐かしく思い出す。

 自分に自信がなくてうじうじしていた岩国での日々。そんな藍子のところに、一夜限りの関係で終わるはずだった戸塚少佐が『なんとなく予感してな』と、斉藤准尉とのペアが決裂寸前であることを気にして会いに来てくれたこととか……。

 遠い人だったのに。そんな戸塚少佐が今日は夫になる。そんな感慨深さがある。なんだか藍子は出発前になって、ちょっと泣きそうになってきた。


『おなかすいたよ!!』

『朝ごはん、離陸後に食べられるんでしょ。まだ?』


 城戸家の育ち盛り兄弟、翼と光の声が後方から聞こえてくる。


『おまえたち、離陸前だから静かにしろって』

『静かにできないと、離陸できないんだぞー。これ、パイロットの兄ちゃんたちからの本気のアドバイスなー』


 歳が離れた従弟を、大きな従兄であるユキナオが上手になだめていた。

 あの双子、ちゃんとお兄ちゃんできるんだと藍子はちょっと後ろに振り返ってみる。


 よく見ると……。後方は城戸家が固まっているが、その賑やかなファミリーの前には落ち着きある夫妻の姿を見せる柳田中佐と愛美めぐみが楽しそうに離陸前の窓を見て話している。夫妻の前は青年たちの空間、ユキナオの双子と海人と湊がすでにスマートフォン片手に撮影ごっこをしていた。最後、藍子とエミリオが座る前列シートから数列空けてすぐ後ろは、華やかなご夫妻、御園葉月少将と夫の隼人准将。こちらも目と目を合わせて、基地とは違う柔らかな微笑みで語り合っていた。


『離陸の時間です。最終チェックいたします』


 エリーとミスター・エドが確認を始める。こちらの父娘が変わらずに機内のお世話と管理をするようだったが、他に黒スーツの若い男性が二名一緒に動いている。


 とうとう搭乗口のハッチが閉められる。旅客機が離陸する前同様のエンジン音が響き始めた。


 隣のエミリオを見ると、一人でニヤニヤしていた。


「エミル?」

「あ、つい。職業病かもな。いまコックピットでなにをしているかとそのステップが頭に浮かんでしまうんだよな」

「わかる。メーターチェックして、無線で管制に確認を取って……」

「上空に障害物なし、」

「離陸OK――」


 二人で呼吸を整えるようにテイクオフの手順を追う。

 気がつくと、後部座席にいる子供たちも大人しくなっている。遠くから『上空障害物なし――』、『離陸OK』、と同じように呟く海人に、ユキナオに、雅臣パパ、そして柳田お父さんたちパイロットの唱和が始まって、子供たちはそれをワクワクした目で聞いている。


 エリーもミスター・エドも、前方にあるスタッフ専用シートに座りベルトを装着した。


『離陸します』


 コックピットからそんな男性パイロットの声と共に、高まっていくエンジン音。ついに機体が滑走路を走り出した。


「V1、だな」


 エミリオが呟く。『V1=離陸決心速度』に到達。ここまでくるともう機体は止められないというスピードに到達していることになる。

 そして藍子も。


「VR――来た」


『VR=離陸速度』に到達、ここでパイロットは操縦桿を操作し機首をあげるタイミングになる。

 やがてふわっとした感覚――。それはもう、パイロットであるならすぐにわかる感覚だった。

 背後の招待客一行も、パイロットパパにパイロットお兄ちゃんたちと合わせて、子供たちも『V1』、『VR』とカウントを取っている。


「V2、テイクオフ」


『V2=上昇速度』に入った。窓辺にはもう小笠原の青い海が広がってきた。


「数時間後には、美瑛の緑が待っているな」


 エミリオが目を閉じた。その向こうに、彼が愛してくれた藍子の生まれ故郷が映っているのだろう。


「そして明日は、真っ白なドレスの藍子も、だな。俺は一度も見ていないから、ほんとうに楽しみだ。いま思えば、試着に義兄さんは見に来るなと言ってくれた瑠璃ちゃんに感謝だな」


 藍子を熱く見つめてくれる翠色の瞳。

 また藍子は思い出している。


『その顔で泣いた後も、泣いた気持ちのまま岩国に帰るのか』

『俺の家に来いよ』

『その時、アイアイ。俺と目があっただろ』


 あの夜に見せてくれた戸塚少佐の湖水のような瞳。

 遠い人だった少佐なのに、あの夜からはじまって、いま一緒に空を飛んでいる。そして、おなじ大地へ向かう。


 そして私たちは、そこで花に囲まれて夫と妻になる。

 藍子もエミリオの翠の奥にその姿を映して微笑み返していた。

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