5.母と花嫁さん

 夏期休暇に入る四日前。

 藍子は、小笠原総合基地がある島を出て、フェリーに乗船していた。

 七月中旬に入ろうとしている真夏日、晴天。小笠原の深い青の海の色に、光が反射しているのを甲板から魅入っていた。


「もうすぐですねー。新島だと、あっという間に着いちゃうな」


 相棒の海人も一緒に乗船、彼も潮風に黒ネクタイをはためかせながら、藍子がいる甲板に出てきた。


「藍子さん、落ち着かないでしょ。俺も落ち着かない~。休暇にはいったらすぐ美瑛ですもんね。半年ぶり!」


 結婚挙式まで、あと一週間というところになって、海人の言うとおり藍子も落ち着かない。


「美瑛に行く支度も大変だけど、ほんと、落ち着かない。ちゃんと私、終われるのかなあって」

「あっという間、みたいですよ。ドレスを着ることを楽しみにしている時間のほうが長いかもしれないですね」

「海人のご両親は、島で挙式したんでしょう。去年、お父様の誕生パーティーで、二階のお部屋にお茶に招待された時、ご両親の思い出の写真が飾られていたものね。御園少将のドレス姿、素敵だった。もっとスレンダーなドレスかと思ったら、うんと可愛らしいボリューミーなドレスだったの意外。でも、元々お嬢様だから、柔らかい雰囲気もお持ちだったのかなあって思ったの」


 両親の話になると、海人は少し表情を強ばらせるのは今も変わらない。

 でも、だいぶ変化してきたと、最近の藍子は思っている。だから平然と相棒に、ご両親の話題もするようになっていた。

 そして、海人もちょっと気に入らない男の子の顔を見せながらも、この話題にきちんと答えてくれる。


「いや~。本来だったらスレンダーなドレス選んでいたかもですね~。なんで、あんなボリュームがあったかというと、あの時既に、俺が母のお腹にいたからなんだそうで――」

「え、そうなの!? え、え? できちゃった婚……なの?」


 あんなに誰もが知っているご夫妻ならば、そんな話も伝え聞きそうなものなのに、一度も聞いたことがない。海人からも出てきたことがないから、藍子は驚く。

 そこでまた海人が困った顔を見せながら、でも今度はちょっと照れくさそうに栗毛をかいて呟く。


「……その、横須賀で刺殺されそうになった事件のあとすぐっていうか。それまでも何度も結婚しよう、やっぱりできない、って、同棲したり、破局したり、また付き合いはじめたりって繰り返していたらしいです。まあ、あの母と付き合うのならば、そんな波乱も仕方なかったかもですね。父がそこに寄り添うまでに時間がかかったんだと俺は思っているんですけど……」


 できちゃった婚という驚きから、急にご両親の恋愛の話になったので、藍子は若干失敗しちゃったと気楽に話題にしたことに、後悔が襲ってきた。それでも海人は続ける。


「やっとふたりで落ち着いたころに、あの事件があったそうで。元々、結婚しようとしてたらしいから、母が意識を戻してすぐ、入籍婚ていうんですかね。したらしいんですよ。それで、母が小笠原の部隊に復帰してすぐに、俺ができちゃったみたいで」


 そこまで聞いて、藍子はハッと思い出す。

 エミリオから聞いた話だ。横須賀のマリンスワロー飛行隊から小笠原のアグレッサー部隊サラマンダー飛行隊へ異動するときに、横須賀の司令『長沼少将』から、『御園と付き合うには……』という話を聞かされたという時の……。『御園少将にとって、海人が生まれたことは彼女が事件から解放されていくひとつの大事な奇跡で幸せ』だと言っていたという、長沼少将の言葉。

 いま息子の海人から聞かされた藍子だったが、奇跡だったかもしれないし、『おふたりが引き寄せた必然』とも思えたのだ。


 そして海人がちょっと困った顔をしたのは、実は照れているだけで『できちゃった婚にも思えてしまうほどに、両親が結婚式を終えてから――なんて、段階を踏むような中で芽生えたのではない。命が救われたから、もう今こそ何にも捕らわれずに愛しあおうと向き合えた時に出来た命』だからと知っているのだろう。


「そうなんだ。じゃあ、海人は、葉月さんと隼人さんが本当に結ばれた時の結晶なんだね。揺るがない事実の証明なんだよ。お母様は大変だったと思うけど……」


 ここで伝えてこう。もう海人はどこかの大人から聞いているかもしれないけれど。でも相棒として伝えてこう。藍子も意を決する。


「海人が生まれたことは、葉月さんにとって辛いことから開放されていく、大事な奇跡だったと思う……」


 エミリオが『いつか海人に伝えられたらいいかもしれない』と言っていたことを、やっと自然に伝えられそうだった。海人に響くかどうかはともかく……。


 でも海人は先ほどまでの照れていた表情ではなくなって、どこか嬉しそうなやわらかい眼差しを見せている。


「なんで精神的に辛いことがあるのに、子育てなんて煩わしいだろうに産んだのかなと思っていました。でも、生まれただけで、育っていく過程で、おまえは母さんを『ただの葉月』として救っていたと……父が言ってくれました」


 そうだったんだ――と藍子は驚く。自分から言わなくても、きちんと父親が伝えてくれていた。

 きっと、やっと帰省できた去年のクリスマスの時に、向き合えていたんだと藍子は知る。

 余計なこと言っちゃったかなと思ってしまった。


「でも、藍子さんが結婚していくのを、ここ数ヶ月ずっと見守ってきたじゃないですか。なんだか……俺も、最近、母のドレス姿が妙に気になって。藍子さんとおなじだったんだろうなって。藍子さんが、その時の母を教えてくれたという気持ちでいるんです。俺のために、その時の身体に合うドレスを選んでくれたことだけでも、俺は待ち望まれていたんだろうなって伝わってくるようになりました」

「海人……」


 潮風があたる甲板で、制服姿でいる相棒のふたり。藍子の目尻にぽつんと涙がついていた。

 自分が結婚する様子を見ながら、母親の気持ちを辿ってくれたと知って、それだけで藍子はもう、相棒のためになっていたのかなと嬉しくなっていた。


 そんな感傷的になってしまったフェリーの甲板、海人も夏の潮風に、栗毛をキラキラ煌めかせて、ちょっとセンチメンタルな眼差しで、さざ波を見つめている。


「あ、藍子さん。いま、ちょーっと素敵な女性の横顔でしたね~。こっちむいてくださーい」


 なんて海人の心情に気にかけていたのに、この場を賑やかすためか、彼が藍子にスマートフォンのレンズを向けてきた。


「ちょっと、やめてよ」

「あと十五分で新島基地の港に着岸です。もうすぐフィアンセの戸塚少佐に会えますね~。ってことで、結婚式一週間前、帰還するフィアンセへ、愛のひと言を!」

「なにそれ! やめてってばっ」

「いいじゃないですか。俺たち、これまでシフトが入っていて、フライト業務中でお迎えに行けなかったでしょう。初めてのお出迎えでしょう」

「そうだけど。ちゃんと自宅で『おかえり』も言えるから~」


 それでもレンズを向けて、すでに動画で録画しているのがわかったので、藍子は手で払いながらも顔を背けた。


「藍子さん、俺の母は、いつものように胸を張って帰ってきたと思ったら、その日から大隊長を解任でしたよ。そういうこと、平気であるのが防衛任務です。いまここで、戸塚少佐に伝えられる言葉を――」


 急に海人が真顔になった。『いつものように帰ってきたら、もうおなじ毎日ではなくなった』、『胸を張って職務を全うしても、おなじ場所には、望んでいる場所にはいられなくなる』。決して、将来が保証されているわけではない。相棒がそう言っているのだとわかった。


 家族でその経験をしている青年が神妙に伝えることだから、藍子の胸にも深く突き刺さった。


「戸塚少佐――、おかえりなさいませ」


 その言葉を藍子は、フェリーの甲板、潮風の中で伝える。

 小笠原の青い海の輝きに包まれながら。いま『藍子』として言えることを、相棒が向けるレンズも厭わず、伝える。

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