4.妻たち、そわそわ


 エミリオが航海に出てしまうと、藍子は新居の一軒家で、一人きりの留守番になる。

 子供が生まれることも見越して、エミリオと一緒に選んだ新居は二階建て。リビングもそこそこ広くて、キッチンも独身用平屋の時より広くて使い勝手もいい。二階は藍子の感覚でシンプルなコーディネイトにしたけれど、エミリオも『ああ、藍子らしくて落ち着く』と、すっかりくつろいでくれるベッドルームになった。


 そのベッドルームですら、留守番の時には広く感じて心許ない。


 寂しいときほど、彼がつけているトワレを藍子はまとう。

 ベッドの枕にもシーツにも、彼の匂いを絶やさない。


 出発前までに彼が読み込んでいた文庫本も側に置いて、彼がベッドに寝転んで読んでいた姿も思い出す。


 そうして独りの寂しさをベッドの上で紛らわせていると、藍子のスマートフォンが鳴った。


『お姉ちゃん、わたしー』


 妹の瑠璃だった。

 招待客の返答も揃い、美瑛実家も一ヶ月後の準備に向けて、さらに忙しくなったと、妹から聞いている。


 そんな瑠璃から、いままでより頻繁に連絡が入るようになった。


『お義兄さん、いま航海中なんでしょう。一人だよね』

「うん、そうなの。ちょっと寂しくしていたところ」

『そっか……。でも今回は一ヶ月で帰ってくるんでしょう。あ、でも一ヶ月も長いよね』

「そうなんだけど。海人もいるし、城戸家の心優さんも、柳田家のメグさんも、一緒にお留守番組の妻同士、心に穴があきそうな時は、女同士で楽しくしているよ」

『海軍の奥様たちの過ごし方ってことなんだね……。私にも、電話していいんだよ。お姉ちゃん』


 ずっと仲良しの妹で良かったと、藍子もホッとする瞬間だった。


「ありがとう、瑠璃。それで、今夜はなに?」

『そうそう、ドレスのことなんだけどね――』


 ドレスが届けられる日や、フォトブック撮影の開始時間、撮影時間、撮影場所、そして美瑛の教会での挙式当日に荷物を持って入る段取りなどの相談だった。


『でね、エミル義兄さんに、そこで初めて見てもらおうと思っているの。だからね、朝起きたら……』

「うん。わかった。エミルったら、いまも時々、こっちが答えたくなるような探りを入れてくるのよ~。うっかり言いそうになってヒヤヒヤする」

『ぜーったいに言っちゃダメだよ。その瞬間の彼の顔は、一生の思い出になるから!』


 試着も夫になる篤志に見せなかった瑠璃は、挙式当日に彼にウェディングドレス姿を見せて、彼が感動してくれた顔を、いまも思い出しては励みにしているのだとか。

 そう聞くと、藍子もそんな感動してくれる美しすぎる夫の顔を見てみたくなって、つい妹の提案に乗ってしまったのだが、これが意外と隠しておくのが大変。


『あいちゃん、ミミにココのドレスのことも言っちゃダメだからね!』


 城戸家の末娘、心美ちゃんにも顔を合わせれば釘を刺される。

 幼児なのに、しっかり者の彼女は藍子より抜け目ない。


『あ~、ココ、もうすぐドレスの日~!』と、毎日数回は言うらしい。

 そんな末娘ちゃんと同調するようにウキウキしているのは城戸雅臣准将もおなじだとか……。

『また一ヶ月、パパは海の上だよ~。でも! 帰ってきたら、いよいよ美瑛!! あ~心美のドレス姿かあ……』

 『ムフフ』と顔をほころばせながら艦長として張り切って出航して出かけたのよと、園田少佐からも聞かされていた。


 お留守番はではあるが、夫が帰還後すぐに美瑛に発つため、柳田家も同様に落ち着きがないようだった。


『藍子ちゃん。夏の美瑛ってどんな服装がいいの? 私、北海道は出張で千歳基地は行ったことあるんだけど、プライベートで出向いたことがなくて初めてなの』


 柳田中佐の妻、愛美めぐみは、元は横須賀司令部にいた優秀な女性秘書官。仕事でしか北海道に行ったことがないとのこと。そんな愛美も、もうすぐ出発で、そわそわしている毎日のようだった。


 無事に息子も一緒に美瑛に連れて行けて安心のようだったが、こちらのお世話はすっかり兄貴の海人が受け持ってくれて、湊のお支度までお世話してくれているとのことだった。


『だから、私、自分の準備だけで助かっているんだけれど。やっぱりドキドキしちゃってるの。あ、藍子ちゃんの結婚式なのにごめんね。でも~、ほんっと久しぶりなの! 久しぶりの旅行でしょ、しかも美瑛! しかも御園家のプライベートジェットで楽々行けちゃって、ラベンダー最盛期の富良野・美瑛で二泊のお泊まりが出来るようになって、しかも本格フレンチシェフが振る舞ってくれる結婚式のご馳走に、宿泊が美瑛の丘が見渡せるオーベルジュってなんなの!』


 ――と、藍子と話すたびに大興奮のようだった。


 こうして、海上に出ている夫たちを待つ妻たちも、着々と心構えを整えている日々。


『私、メグさんと会うのも楽しみ。あと海人のお母様とお父様ね。篤志君はなんか、御園家の方と顔見知りになるのか……って、妙なお仕事目線なんだよね。あとね、海人の実家の、事件のこともね、……、私、知らぬ振りしておくね』

「そうしてくれると助かる。特に美瑛にいる時は、御園の跡取り息子だということを、忘れさせてあげて欲しいの」

『うん。お父さんとお母さんとも、篤志君ともそう話しているよ。だから、お母様、御園少将に会うの緊張しちゃうなー』

「お母様のお顔のときは、けっこうお茶目で抜けていることもあるから大丈夫だよ。むしろ、お母様にも、御園家の跡取り娘だということ、忘れさせてあげて欲しいな……。普通の母と息子で楽しませてあげたいな」

『わかった。篤志君にもそう言っておくね。あ、そうだ。応援にくるおじ様たちにも、それとなく、日頃のお勤めの重圧を解くような、ただの親子として楽しんでもらいたいと事情は深く言わずに、周知しておくね』


 そこの加減は、日頃、ロサ・ルゴサの宿泊業を取り仕切っている妹夫妻に任せると、藍子も伝える。


『そのお手伝いに来てくれるおじ様たちなんだけど。お父さんの札幌時代の同僚後輩だったおじ様が、そこのお嬢さんとお婿さんとお店のスタッフも連れて手伝いに来てくれることになったの。ソムリエまでいるんだって!』

「そうなの!? もしかして函館のおじさんとか」

『そう。函館大沼のおじさん! いまお嬢さんがお店手伝ってくれているんだって。ソムリエを目指しているみたいだよ。しかも、神戸で給仕長をやっていた男性がお婿さんになったらしいよ。大沼のおじさんのお店も安泰だねって、お父さんとお母さんが言っていた。しかもそのお婿さんが、お嬢さんよりけっこう年上のおじさんらしいんだけど、気が利く給仕長さんなんだって。おもてなし上手みたいだよ』


 札幌に住んでいた頃、父は札幌の大手ホテルのフレンチ厨房料理人だった。父がまだ若い見習シェフだった時の後輩シェフはいま、函館の大沼で店を持っていると聞かされている。子供の頃に顔見知りだったおじ様が、函館地方から駆けつけてくれるだけでも嬉しかったのに、そのご家族も手伝いにきてくれるとのこと。プロの給仕も来てくれると知って、藍子はますます安心する。

 普段は、妹の瑠璃と義弟の篤志も、ホールの給仕を手伝っているので、当日のフレンチの給仕はどうするのか案じていたが、そのことについても藍子はほっと胸をなで下ろす。


『これで私、ゆっくりできる~。楽しみ~。ホールの装飾も私に任せてね!! あー、楽しみ。ラベンダーも蕾がついてきたから、あと少しだね~。はあ、ココちゃんにも早く会いたいなあ。ビデオ通話で顔見知りになったけれど、それだけでも、ほんっと可愛いんだもの。いいなあ、私も女の子ほしいなあ』


 そんな瑠璃だが、やはり実家の仕事が忙しいからなのか、篤志と結婚して数年経っても子供はまだのようだった。瑠璃はまだ若いのでそのうちにという気持ちだったようだか、そろそろなのかなと藍子も少し気になっている。


『ところで、お姉ちゃん、ユキナオ君と話すことあるの?』

「うーん。ジェイブルーの部署がある建物と、雷神が所属する中隊がある建物は離れているんだよね。カフェテリアも違うから、あんまり見かけないかな」

『そうなんだ。だったら、エミル義兄さんとは、毎日一緒なんだね。あの子たち、問題児みたいなこと言われていたけど、ぜんぜん使えるじゃない~』

「ちょっと。問題児といわれているのは揶揄されているだけで、本当の問題児ではなくて、いちおうエリートパイロットなんだからね。あんまりこき使わないでよ」


 最初こそ『藍子さんの妹の瑠璃さんって……』と突撃してきたが、いまは逆に藍子を見るとサッと避けていくように感じている。いったい妹になにをやらされているのやら。


『大丈夫~。なんだかんだ言って、ユキナオ君たち、ちゃんとやってくれているから。それにいま、エミル義兄さんと海上でしょ。帰ってきたらもう一仕事してもらって、それで終わりだから』


 任務から帰ってきて数日で、彼らも一緒に夏期休暇に入るというのに、その数日も小笠原で仕事をさせるらしい。義妹がなんの支障もなくあの双子を従えているので、藍子は苦笑いが浮かんでしまう。


「ほんっとに、ユキナオ君たちの業務に支障でないようにしてよ。双子君たちになにかあったら、上官であるエミルとか柳田中佐にも負担かかるんだからね」

『わかってまーす。じゃあ、またドレスが届く頃に連絡するね!』

「うん、わかった。お願いします」


 フライト気をつけて――という、いつもの妹の最後の挨拶に、藍子も『ありがとう。瑠璃も無理をしないで』と笑顔で応えて電話を切った。


「いったい、ユキナオ君たちになにをさせているのやら」


 ほんとうに、藍子が『あ、ユキナオくん、ひさしぶり……』と声をかけようとすると、彼らがさっとどこかに行ってしまう。

 瑠璃と海人になにかをさせられていることはわかっていたが、これはもう結婚式当日まで言葉も交わせない気がすると藍子は思っているところだった。



 みんな、そわそわしている一ヶ月前。


 夫たちが帰還するとき、妻たちも子供を連れて揃って新島の港にお出迎えにいく予定。

 そのあと、夫たちが夏期休暇に入ってすぐ、一緒に御園家のプライベートジェットで、美瑛入りする。それも、もうすぐ。

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