53.義父のオムライス
優しい卵の匂いが漂ってきたダイニング、食卓テーブルで藍子とふたり並んで、そのスケッチブックを眺める。
キッチンではじゅうじゅうとバターが溶ける匂いも加わってきた。
「素敵! お父さん、ほんとうにこんな素敵なお料理を作ってくれるの」
娘の藍子が頬を赤くするほどに興奮して、次々とスケッチをめくっていく。
俺もゆっくり見させてくれよという間もなく、だった。
それでも、さっと過ぎていく数々の料理のイラストのどれもが美麗で、エミリオは初めて『フレンチを扱う料理人は芸術家でもあるんだな』と驚く。
その時に、初めて挨拶に出向いた夏に見せてもらった『色図鑑』を思い出していた。
この世界にあるなにもかもが、繋がっている。そう言っていた舅の思考が、エミリオにまた流れ込んでくる。
「見て、エミル。アミューズが百合だって」
最初のページに戻って来た藍子が、やっとゆっくりとエミリオと共に眺めてくれる。
白い百合のイラストも、義父の画才が垣間見え、エミリオは感嘆する。
イメージで描かれている百合のそばには、エレガントな皿に、白をイメージしたアミューズのイラストがあった。
「純白から始まるということなんですね」
「綺麗。私、お父さんのアミューズ、見るのも食べるのも、昔から大好き」
ああ、娘のためのアミューズなんだなとエミリオも納得だった。
スープも、鮮やかな緑の絹さやビシソワーズは、美瑛の緑の丘を思わせる。
ポワソンは北海道の夏の魚に美瑛の野菜をふんだんに、アントレは美瑛と富良野特産の和牛で、夏らしくさっぱりとローストビーフになっていた。
デセールも、ウェディングを意識した純白をベースに、エレガントにベリーの濃い紅とピンクの濃淡でお洒落なデザインだった。
「いいな。葉月さんにも、心優さんにも喜んでもらえそうだ」
「みてみて。これ、心美ちゃん用のお子様コースなの。お兄ちゃんの翼君と光君は大人とおなじだけど、ミニコースにしているみたい」
そこには『お花の妖精コース』なんて名前が付けられていた。
「これも、おしゃまな心美が喜びそうだな」
「ほんと。もう見せちゃいたい」
はしゃいでいた藍子だったが、そこでふっと、眼差しを伏せている。急に表情が、いつものクールなアイアイに戻ったようにも見えた。
「ときどき、まだ、信じられなくて――。ほんとうに結婚するんだなって。フレンチのシェフとしてのお父さんが、こんなふうに作ってくれるなんて」
「俺だって信じられないぞ。嫌われていたアイアイとこうして美瑛に一緒にいるうえに、フレンチシェフが舅になって、ほら、いまそこで、プロが俺にオムライスを作ってくれている!!」
プロのシェフが真後ろでオムライスを作ってくれているこの興奮が、思わず出てしまっていた。
だから藍子がきょとんとしている。そしてまた笑い出した。
「もう~、やだ。ほんっとエミルったら。それに嫌われていたって」
「そうだっただろ。俺のこと、いつも睨んでいた」
「エミルが意地悪だったからじゃない」
「仕事で意地悪をするしかなかっただろ。アグレッサーだったんだから。厳しく訓練をすることが、コーチするパイロットたちを守ることに繋がる仕事だったんだぞ」
「わかっていたけど……、でも、言い方きつかったもん、戸塚少佐」
「あー、もう。以前の俺と藍子の話はもうおしまいだ。あれは仕事の関係だったんだからな」
すると、バターと卵の香りが漂うキッチンから、笑い声が聞こえてくる。
振りかえると、もう白い皿に卵色のオムライスが盛り付けられていた。それを青地義父が颯爽と持ってきてくれる。
「なんだ、エミルは藍子に嫌われていたのか」
「そうなんですよ。俺はこれでも、藍子を思ってあれこれ話しかけていたつもりだったんですけれど」
「だから、言い方が意地悪だし……。なにより、演習がすっごい意地悪。もちろん仕事だってわかっていてもよ」
「なるほど。エミルもプロの心構えで、藍子を叩き落としていたわけか」
義父が男としてなのかエミルの味方になるような物言いだったので、娘の藍子がちょっとむくれた顔をした。でもそれがまた、父と娘でなければ見られない、かわいい顔に見えてしまった。
「さあ、召し上がれ」
ダイニングテーブルで並んで座っている娘と婿の前にそれぞれ、白い皿に盛り付けたオムライスが置かれた。
よくある半熟ふわふわの、たんぽぽオムライスかと思ったら、オーソドックスな薄焼き卵で美しく包まれているものだった。だが赤いケチャップはどうやら手作りらしい。
「お父さんのオムライス、久しぶり!」
「そうだな。藍子も忙しくてなかなか帰ってきてくれなかったからな」
「これね。お父さんがお休みの日によく作ってくれたの。あ、土日は絶対に仕事だから、平日の夜ってことね。お父さんがお休みの日に作ってくれるご飯、瑠璃とこれが出てくるの楽しみにしていたの。それと、このケチャップ、お父さん特製の自家製なの。実家でしか味わえないのよね、これ」
そんな思い出のメニューらしい。
いいな、プロのシェフが娘たちに作ってきたオムライスか――。
「エミリオだって、エレンママが作ってくれたんだろう。どこも同じだよ」
「いえ、母はアメリカ人なので――、滅多に出てこなかったというか」
「ああ、なるほど。だったら、なおさらだな。エミルが生まれて、日本で暮らして作れるようになったのだろう」
そう言われてエミリオもふと幼少時代が蘇ってきた。
『日本に来てから、パパに教わったの~』と、いつもほんわりニコニコしている母の顔だった。
馴染みのない日本の洋食を覚えてくれたんだな――と。
「……急に子供のころを思い出しました。……ここって、ほんとうに、俺には……」
ふいに目頭が熱くなって、自分でも驚いている。
額のブロンドを掻き上げて、うつむいてしまった。
藍子もきっと、実家に帰ってきたからこそ感傷的になっていたが、エミリオもだった。
ここは、なんだか懐かしい思いを蘇らせてくれて、エミリオのことも素肌にしてしまう家になっている。
「エミル……、どうしちゃったの」
滅多に涙など見せないエミリオが感情を露わにしているからなのか、藍子もそっと抱きついて心配している。
「いや、ここでは素直になれるとわかったんだ。そして、忘れていた大事なことを急に思い出す。それは俺がいまは『ファイター』ではないからだ。つまり……、すごくくつろげているということだ。いい実家だよ」
いまもこのダイニングには、晴れやかで眩しい雪の光が入ってくる。
遠くの丘も白く輝いて眩しいくらいだった。
使命を、仕事を忘れて、ただその日をのんびり過ごすこと。
そうすると、こんな自分になるのだなと、エミリオはそれを知る帰省になったとも思った。
「冷めないうちに食べてくれ。また来たら作ってやろう。これからは藍子とエミルに、そしていつか生まれるだろう私の孫たちにね」
「また楽しみが増えました」
「スープももってきてやろう」
きっと生まれてくる子供も、『美瑛のおじいちゃんのオムライス、食べたい』と言うようになるだろう。
「では、いただきます」
「うん。いただこう」
藍子と一緒に、父の味を堪能する。
優しいバターと卵の味なのに、シェフの譲らないプライドをオムライスからも感じ取る。
「手作りのケチャップ、うまいな」
「うん、これも大好き。私も今度作ろう!」
でも、レシピ通りに作っても、どうしてかお父さんと同じ味にはならないの――と藍子が悔しそうに口元を曲げている。
スキーも思い出になったが、なにもないゆっくり過ごしたこの日も、エミリオは決して忘れないだろうと、藍子と笑っていた。
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