52.白き丘の家で

 翌日は予備日で『ゆっくり休む日、好きなことをする日』と決められていた。

 朝食が済んだあとも、エミリオは眠気が抜けない。それは藍子も同じようで、だったらそれはどうしてだ――というのは、ふたりだけの昨夜の秘密となる。


 なのにエミリオはおかわりのカフェラテを瑠璃からもらって、美瑛の雪原が見下ろせるリビングのソファーで北海道の地方新聞を読んでいたら、うとうとしていたようだった。


「エミル、大丈夫? ソファーに横になったら?」


 隣に座って紅茶をのみながら朝の情報番組を眺めていた藍子がそう言ってくれる。


「いや、篤志や瑠璃ちゃんが働いているのに――」


 眠気を追い払うようにして、エミリオは首を振りながら姿勢を正す。


「なに言ってるの。普段は、みなが平和に過ごしている間に、空のGに耐えながら、神経をすり減らして過酷な海上と上空で防衛している人なんだから。休暇のときぐらい、ぐーたらしたら」

「ぐーたら! あまり言われたことも聞いたこともない言葉だな」

「ほらね。戸塚少佐はそういうストイックな人なんだもの。はい、美瑛ではぐーたら。こちらへどうぞ」


 隣に座っている藍子が膝の上をパンパンと叩いた。

 つまり、彼女の、膝枕的な――?

 魅惑的なお誘いだった。


「んー、そうだな」


 あっさりと折れて、長椅子ソファーへと、エミリオは足を投げ出し、頭は藍子の腿の上へと遠慮なくもたれる。


「いててて、足が、痛い」

「もう、ほんっとに、クインはどこかに行っちゃったわね」

「はあ、もうだめだ。今日はずっと藍子に甘えていよう」


 エミリオからふざけるように、藍子の膝枕に顔を埋めて抱きつく。また彼女が楽しそうに笑い出す。

 しかもソファーの背にかかっているタータンチェックのふわふわしたブランケットを身体にかけてくれた。

 もうそのぬくもりと、彼女の匂いと、そして、うららかな丘の家の穏やかなリビング。こんなに、優しいものに包まれたらエミリオも勝てない。まぶたが閉じそうになる。


「ファイターパイロットが使う筋肉とスキーヤーが使う筋肉は違うんだな」

「私も痛いよ。休養日で良かったね。でも、あとでどこか車で出かけてみる? 海人は退屈そうだったから」

「いいな。道の駅あたり回ってみたいな」

「そのためにも、いま空いている時間に少し眠ったら」


 そうだな……と、エミリオも目を閉じる。


「明日、藍子は、いよいよドレスを決めるのか」

「うん。旭川で瑠璃とショッピングをするのも楽しみ。エミルは男子チームでスノーモービルだよね」

「ああ。河合さんとも顔見知りになったしな。ラーメン屋に連れて行ってくれるらしくて楽しみだよ」

「いいなあ。私も瑠璃とラーメンにしちゃおうかな」


 そんな会話をしているうちに、エミリオはいつの間にか眠っていたようだった。


『あれええ、少佐はお休みですか』

『うん。そうなの。昨日のバンビスクールでたいぶ疲れたみたい』

『篤志さんが市場に行くっていうんで連れて行ってもらうんですよ。お誘いに来たんですけど、そのご様子だと、おふたりでゆっくりしたほうがよさそうですね』

『そうする。海人は? 筋肉痛大丈夫?』

『はい? ぜんぜん……、そんなのないんですけど』

『ええ!? ……若さ……?』


 聞き捨てならないことが耳に流れ込んできたうえに、ふたりの視線がエミリオに注がれている気がしたが、眠気が勝っていた。

 筋肉痛。実は、スキーのせいだけじゃないのは、やっぱり海人にも言えないなとエミリオはそのまま眠りに落ちてしまった。



 目が覚めると、ブランケットをかけたまま、ひとりソファーで横になって眠っていた状態だった。

 時間を見ると昼を少し過ぎていて驚く――。

 さすがに藍子も何時間も寝ている男のそばにはいられなかったのか、そっと置いてくれていたようだった。

 辺りを見回すと本当に誰もいない状態で、静かだった。

 この日も晴天で、窓辺が眩しい。雪に反射している光がリビングに入っているのだと気がつく。

 雪が降り積もったばかりの晴天日は、こんなに明るいのかと改めて思った。


 長閑のどかで温かなこの家の空気につつまれ、エミリオはソファーに座ったまま、しばしぼんやりしていた。

 こんなふうに、なにも気にしなくていい、考えなくてもいい場所なんてそうはない。


「お、エミル。目が覚めたかな」


 静かな空気に、そんな声が聞こえエミリオはドキッとして我に返る。

 リビングと繋がっているダイニングキッチンに、コックコート姿の青地義父が入ってきたところだった。


「すみません。すっかりだらけてしまって」

「なにを言っているんだ。最前線から還ってきたばかりの休暇なんだ。だらけるぐらいに休息してくれねば、ロサ・ルゴサの名が泣くだろう」

「そうですか? ですが、確かに、すごく、くつろいでいます。実家でもこんなにゆったりはしないなというほどに、静かで……」


 あのテンションがいちいち高い両親と一緒にいると、こんな静けさはないなと、これも初めて思ったりした。


「豪快で男気があるお父さんと、優しげで明るいお母さん。エミルのご両親だなと納得だったよ。ま、今日は休養日ということらしいから、気が済むまでだらけたらいいだろう」

「そうですね。甘えさせていただきます。というか、もうすっかり休んでしまって、身体がなまりそうです」

「さすがだな。そろそろ上空が恋しいのでは」


 エミリオは黙ってしまった。でも、この義父だからと正直に答える。


「はい。スキーで不甲斐ないことばかりだったので、なんだか自信を取り戻したくて、……ドッグファイトをしている夢を見ていましたね」

「そうか! わかるな。俺も、明日の結婚式の料理の手順を確認するような夢を見ている時がある」


 それが常に自分の使命と仕事に意識を傾けている者の感覚だと聞こえたし、エミルは料理人である自分と同等だと認めてもらえたような嬉しさが込み上げてきた。


「オムライスは好きかな」

「え、はい。好きです」

「では、すぐに作るので、藍子を探して呼んできておくれ」

「はい」


 なんだか当たり前のようにして、キッチンに立って冷蔵庫を開けて卵を出したりしている。

 料理人だからぱぱぱっと作ってしまえるんだよ――という空気感を出している。


「藍子が好きなんでね」


 ああ、なるほど。娘が帰省しているから、大好物を作りに来たのかとやっと納得した。


「ああ、それから。これを、藍子と確認してほしい」


 ダイニングテーブルにあるスケッチブックを青地義父が指さした。


「ふたりの結婚式のメニューの考案だ。ふたりで確認をしてくれ」


 夏の休暇で行う結婚披露宴のメニュー。

 そう聞いて、エミリオの胸が高鳴る。

 すぐにダイニングテーブルへと赴き、そのスケッチブックを手に取った。


「試食をしてほしいところだが、冬と夏では素材が違う。そこも藍子とよく話し合ってくれ」


 ついに。ふたりの結婚式の料理がここに。

 エミリオはすぐに見たくなったが。


「藍子を呼んできますね」


 娘より先に見てはいけない気がして、急いでリビングから外へと出た。



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