33.相棒と初めての喧嘩


 朝田藍子准尉は、我慢強く遠慮がちな性格で、どちらかというと内気なほう。気が強い女というわけではない。


 なにか嫌なことがあっても、はっきりと言い返す性格ではなく、一度は自分の中にしまい込んで吟味するという慎重さもある。


『木から落ちるなよ、モンキーちゃん』なんて、うっかり意地悪を言ってしまった時に、その様子がよく出ていた。


 そんな人の好い彼女だとわかっていたから、狡い者に押しのけられないかと心配で、防衛パイロットとしての努力も実績も正当に評価されて欲しいと思い、守りたくなって彼女にいつのまにか接近していた。



 その彼女が帰宅してから、ずっと泣きじゃくっている。

 ずっとハンカチを目に当てて、嗚咽を漏らすほどに泣いているのだ。


 水色キッチンのカウンターに座らせ、ひとまず彼女に飲み物を出した。

 美瑛の父から教わって、毎年自分で作っているというレモンジンジャーエールだった。

 父親の味でもするのだろうか。それをひとくち飲むと、やっと泣き止んだ。


 エミリオも、藍子の隣の椅子に腰をかける。

 カウンターに俯いている藍子の背をそっと撫でた。


「落ち着いたか」

「うん……」

「全部、聞いたのか」


 今度の藍子は無言でこっくり頷いた。そうしたら、また思い出したのか涙が再び溢れたようだった。


「……昨日の、御園少将が、あんなふうなことを言っていた顔も気持ちも、わかっちゃって」

「ソニックオーダーの演習が終わってから、俺の付き添いのうえで、藍子に話すと聞いていたんだが。なにがあったんだ」

「噛み合わなくなっちゃったの」


 藍子がそこでまた涙を流した。


「別に私たち、恋人でも家族でもない。たまたま同じ機体に乗ることになった同乗者だもの。互いの家族のことまで隅々知っておかなくてはならないなんて思っていない」

「だが、藍子と海人はまるで姉弟のように波長が合っていて、最高の相棒じゃないか。海人も美瑛のご家族にあんなに馴染んで」

「それは海人が、人の心をよく見抜いて、上手に付き合ってくれるからよ。でもわかったの。海人は子供のころから、大人の顔色を窺って、どうすればお利口さんでいれるかを知らないうちに身につけていたのよ。海人、自分でも言っていた。たぶん、最初にその顔色がとても気になって窺っていたのは『母親』だったって」


 それはエミリオも海人本人から聞いていなかったので、そこまで自分の心情を吐露していたのかと驚いた。

 かえせば、海人にとって、エミリオや銀次以上に、藍子にだけは本心で向かってくれていたことになる。


「その母親がどんな身体で生きていて、どんな仕打ちをされて、自らを傷つける人生を優先してきたかと聞かされたの。私も馬鹿だった。海人が話してくれると約束してくれていたのに。でも、だめだったの。海人もずっと様子が変だし、私も、海人が話してくれるまでどんなことが待ち受けているのかと、お互いにいつもの気兼ねない空気が壊れていたの」


「それは、仕事でということか」


「そうよ。たまらなかったの。いつもの自信を持っているきらきらのサニーじゃなかったの。暗雲が覆た太陽とおなじ。いつもの海人がなにもかも隠れちゃったみたいになって……。私も気になって気になって、海人にかける言葉が減っていったの。だから、初めて……喧嘩しちゃって」


 ああ、油断した。エミリオも目元を覆って項垂れた。

 仲が良いほど、何かがあるときどうするべきか。まだ付き合いが浅いふたりには確立されていなかったのだ。喧嘩もない相棒ではいられまいとは思っていたが、まさかここで。いや、やはりそれほどのことなのに、どうして『時が来るまでお互いに気にしないように』なんて暢気な選択をしてしまったのだろう。エミリオは海人に『演習が終わってからでも良いと思う』と伝えたことにも、彼女とその相棒の気持ちをよく予測できなかったことにもだ。


「今日の業務とフライトはどうした」

「上空でのコックピット内も空気は最悪。だって、あのお喋りな海人が無言なんだもの。幸い、昨日も今日も、追跡指令はなくてパトロールだけで終わったからよかったけど」

「そうだったのか。迂闊だった、俺も……。岩長さんは、なにか言っていたか?」

「それはもう。私たちの隊長で、海人のお目付だもの。海人の様子が変なことはとっくにお気づきで、私には個別に『母親が艦長を辞することになった事件の日を視聴してしまったから仕方がない。これで続くならシフトを変更しようと思う』と伝えてきたもの」


 それほどに、資料を視聴して後の海人は危なげだったということらしい。


「あと少し、あと少しと私も思って、その日を待っていた。でも、私もまだだめね。海人に言っちゃったの。お母様との間になにがあったか相棒として理由を言えなんて言わないけれど、意思の疎通を図るタイミングがずれているときがあるから、そこだけはきちんとして欲しいって。そうしたら海人が『わかりました。言いますよ。そんな聞かなくていいなんて、理解者ぶった顔をしないで欲しい』とか言い出しちゃって……」


「海人が、……あの海人がそう言ったのか」

「それも、菅野さんと城田さんが一緒にいる目の前で」


 ジェイブルーのデスク室で、そんな諍いをしてしまったということらしい。


「場所、選ばなかった私が最悪……。すっかり相棒として甘えていたけど、よく考えたら、私は海人の先輩で上官だった。後輩にあたるパートナーとの関係修復については、職場でなくもっと別の場所を用意するべきだった」


 確かに、藍子は准尉である以上、海曹である青年がどんなに優秀でも上官としての責任と監督義務がある。プライベートとの兼ね合いのコントロールだって上官の役目だ。


 すっかり親友で姉弟のような関係で甘えていたと言いたいのだろう。


「つまり。相棒同士で初めての喧嘩ってわけか」


 それにしても――とエミリオは思う。海人は藍子には本当に素のままにぶつかっている。そうでなければ、海人こそ『何事にも理解を寄せてすべてを受け入れた顔』をしているからだ。

 エミリオと銀次と食事をした時だって、いうほど取り乱してもなければ、大人の男としてまだ制御した顔をしていたのだ。藍子には違う。その制御していたものがふっ飛ぶ。そして飛んだのだ。


「それで。わかった、実家のことを話す――となって、海人はそこで言ったのか」


 途端に藍子が青ざめた。

 嘘だろ……。エミリオは目を伏せ、顔を背けたくなった。


「あまり……、周りに人はいなかったけど。菅野さんと城田さんが目の前にいた状態で。『伯母はフロリダ本部で正義の男と言われていた特殊部隊出身の男に殺され、母も二度も殺されそうになった。そんな母がまともに真っ直ぐな人生を歩んできたわけがない。あの人は自ら闘う場に出向かないと生きていけない母親だった。俺が子供の時もそう。あの人は自分が生きていける場所が海上で最前線だった。俺のそばでは無かった』と……」


 ああ、こんなことになってしまったのか――と、エミリオもうつむく。力及ばずだった。


「それで……。海人がデスク室でそう言い放ってどうなった」

「菅野さんと城田さんがもの凄く驚いて、青ざめていたけれど、すぐに海人と私を『部隊長室』まで引っ張っていったの。岩長中佐に報告されて――。なんか、おふたりは既にご存じだったみたい。知らなかったの、私だけだったのかな」


 よかった。菅野大尉と城田がいてくれてよかったとエミリオは思った。おそらく彼らも海人のお目付け役兄貴を言いつかっていたのだろう。

 御園のタブーが、その当事者一家の子息によって言い放たれる。そんな日が来たというところだろうか。


「それから。ガンズさんはどうしたんだ」

「海人を御園から預かるように任された方だもの。ご存じだったのでしょう。海人の口からそう言い放たれたことを知って驚かれていたけれど。すぐに海人をなだめて落ち着かせてくれて」


 海人も気持ちを落ち着けるのに、時間がかかったとのことだった。藍子はそれでも岩長中佐に退室するようには言われず、海人が落ち着くまでそばに一緒にいさせてくれたという。


「それから岩長中佐が、藍子に話す覚悟があるのなら、いまこの部隊長室を貸すと海人に言ってくれたの。海人はもう覚悟ができていたみたいで。お部屋を借りて、二人きりにしてもらって……全部、御園のご一家に起きたこと、横須賀訓練校で隠匿された不祥事を発端に伯母さまが酷い殺され方をされたこと。当時十歳だったお母様の葉月さんがお姉様と一緒にいたときに被害に遭ったこと。犯人の怨恨が長年御園を苦しめてきたこと。結婚前に……初めておふたりで洞爺湖で旅行をされて結婚の約束をしたその帰りに、お父様の御園准将が離れた隙にお母様が刺殺されそうになったこと。PTSDで苦しみながら最前線を護られたこと……いろいろ……聞いた。海人からも、子供のときから不思議に思っていたこと、入隊する時に『御園のタブー』と言われている実家が抱える過去について聞かされたこと。全部……よ」


 エミリオもがっくり肩の力が抜けるほど、脱力した。カウンターに両肘を付いてブロンドの頭をかきむしる。

 エミルさんフォローしてくださいね。あの海人もまだ『お利口さんの海人』でしかなかった。気がつかなかった自分にエミリオは口惜しさを感じている。


 一緒にカウンターで並んで座っている隣の藍子は、もう涙をこぼしていた。


「全部話し終わったら海人が……。なんで、俺なんか生んだんだろうって、泣いたの」


 海人は、藍子にはそんな顔を見せられたようだった。自分は力及ばずだったが、エミリオはそれができるだけでもよかったとほっとしながら、相棒にシンクロしている彼女をそっと抱き寄せる。


「そんなこと言っても。海人はわかっている。海人にはパパママの顔を見せているはずなんだから」

「美瑛の家族のこと……、あんなふうに慕ってくれたのも、もしかしたら、御園のご実家では常に気を遣う子供でいなくちゃいけなかったからなのかも」

「そうかもしれない。いや、俺だって、美瑛のご家族のこと、もう一つの家族とすぐに思えるほどに癒やされたんだ。そんな居場所がもうひとつあってもいいじゃないか、海人にも」

「そうだね……。どうして俺を生んだなんて、あんなこと抱えていたなんて……」


 闘う場にいなければ生きていけない女なら、母親になぜなろうとしたと海人は言いたかったのだろう。


 でもエミリオはそう聞いて、思い出す話がある。


「俺は横須賀司令本部に昇格された長沼少将司令から聞かされた。葉月さんより少し先輩だが同世代で空母に乗艦もして、空を共に飛んでいた戦友だ。あの世代の人たちにとっては、いまでも生々しく残っている事件だったらしい。あのとき、彼女が亡くなっていたら、海人は生まれていなかったことになるんだ。だから、葉月さんにとって、海人が生まれたことだけでも、彼女が事件から解放されていくひとつの大事な奇跡で幸せなんだと言っていたよ」


「……エミルはそんなふうに聞いていたの?」


「葉月さんが頼りにしている司令のおひとりだ。表と裏で手を組んで、互いに軍隊での足場を盤石にしてきた意味でも戦友。なんでもご存じのようだったよ」


 親世代で見えているものと、子世代で見えているものが違うんだと、エミリオは初めて思った。


 これを埋めていくことを、藍子と手伝えたら……。


「海人にもそう伝えてみたらどうだろう。きっと、親御さんの葉月さんと隼人さんとは、まだそんなに向き合えていないようだし、でも、俺たちが上官から聞いた少しのことでも、葉月さんと隼人さんがどんなふうに生きていたか、海人に伝えたら海人のためにもなるかもしれない……」


「海人が生まれただけでも、奇跡……」


 そこで藍子の目からまた涙がどっと溢れたのか、声を漏らしてまた泣き出してしまった。

 エミリオはさらに彼女を身体ごと引き寄せ、抱きしめる。


「自分が当たり前におもっていたことが……、海人にはとても大変なことだったなんて……。なのに、海人、私が岩国で困っているときに、うんと助けてくれた。私の困っていることなんて、……海人に比べたら……」

「違う。海人だからわかってくれたんだ。そして海人もほんとうはわかっている。海人ほど、葉月さんの姿を心に、人の痛みを誰よりも感じてくれる男になっているんだ」


 それは藍子もわかっているのか、涙をぼたぼた落としながらも、エミリオの胸元でウンウンと頷いている。


 ひとしきり泣いた藍子が涙を拭いて、エミリオの胸から離れた。

 もう藍子の目はまっすぐ遠くを見ている。彼女が遠くを見据えたときは、なにか心に決めた強さを決意するとき。


「美瑛の結婚式で……。海人とご両親にうんと素敵な時間を過ごしてもらう。御園少将と御園准将は洞爺湖で結婚の約束したんだよね。だったら、また北海道から素敵な思い出を持って帰ってもらう。今度は海人と一緒に」


 藍子も、エミリオとおなじ考えに至ってくれて驚く。そしてやはり俺の妻になる女だと、エミリオは再度、笑顔で抱きしめる。


「おなじことを考えていた。海人がごねても、ご両親も意地でも招待して美瑛に来てもらおう」

「うん。お父さんにもそれとなく話しておく。全部は言えないけど、きっと……なんとなくわかってるかも。ご両親の話があまり出てこないって言っていたから。それで、ご挨拶をしたいと言っていたんじゃないかな」


 そんな義父の密かな心積もりを知って、エミリオはさらに青地父に敬意を抱く。

 やはり、あのお父さんは人を見て料理をする職人だ。そう確信した。

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