15.薔薇とカフェオレボウル


 暑い日はモヒートがうまい。


 藤沢の父がそういって、夏になると自分で作って母とうまそうに飲んでいたのが、エミリオの夏の思い出でもあった。


 大人になり、独り立ちをして、父親がおまえも一人前だと作り方を教えてくれたのがモヒートだった。



 モヒートは生のミントの葉を使え。

 ラム酒はホワイトラムだ。シュガーはブラウン。

 ライムもよく冷やしておけ。

 ミントとライムはマドラーで潰しすぎるな、苦みになる。

 氷も家庭でつくったものでなく、なるべく市販のものを。


 これが本物のモヒートだ。父のこだわりだった。




 藍子は料理好きなので、ブラウンシュガーにライムは常備している。氷もエミリオがアルコールを嗜みたいときのために、勝手に彼女宅の冷凍庫に常備させている。


 ないのは、生のミント葉、ホワイトラム酒、強炭酸水。


 エミリオは補充するそれらを揃え、藍子はちょっとした酒のつまみをつくると食材をあれこれ選んでくれた。






 エミリオはバイクで、藍子は貸しているジープを運転して海辺の住宅地まで一緒に帰宅する。


 今夜も聞かれなくても藍子の家へ。彼女の家の玄関先でバイクを止め、ヘルメットを脱いだら、また路地の向こうでちょこんと待っている女の子を見つける。


「ミミー!」


 城戸家の末っ子、心美だった。今日は大輪の薔薇を手に持って走ってくる。そして今日の彼女のお供は制服姿の双子だった。


 藍子も車から降りてきて、心美と双子が走ってくるのに気がついた。

 心美もだった。今日は『お姉さんも一緒』という驚きの顔を見せて、でもすぐにいつも以上に嬉しそうにして元気いっぱいに走ってくる。


「心美。こんばんは。待っていてくれたのか」


 城戸家のたくさんの薔薇は、その日その日、その時その時で花開く時期が異なる。だからこうしてなにかが咲くたびに心美が持ってきてくれるのも何年目か。


 城戸家の園田少佐が『なぜかミミルに持って行きたがるの。きっと心美にはいちばんかっこいいお兄様だと思うの』と言っていた。しばらくはその王子様役をお願いしますとまで言われている。


 なのに、その心美がいつもはエミリオにまっすぐに走ってきていたのに、今日は途中から方向転換。バイクにまたがるお兄さんではなく、ジープから降りてきた制服姿のお姉さんへと一直線。


「おねえさん! 待ってたの。やっと会えた!」

「え……?」


 藍子の目の前にたどり着いた心美が、彼女を見上げながら大輪のベビーピンク色の薔薇をさっと差し出した。


「おねえさんにも、結婚おめでとうしたかったの。おめでとう!」


 呆然とする藍子に、小さな従妹についてきた城戸の双子が申し訳なさそうに藍子に説明する。


「すみません。藍子さんはシフト制のパイロットだから、俺たちみたいに決まった時間には帰ってこないと何度も言い聞かせたんですけど」


「戸塚少佐におめでとうは言ったから、おねえさんにもあげるんだと、もうだだこねてだだこねて」


 それで俺たちが付き添いで待っていたんですーとユキナオがそろって説明してくれる。


 藍子も自分のために待っていて、大輪の薔薇を運んできた小さな子を見つめている。


「心美ちゃん……、そうだったの。ありがとう」


 エミリオがそうしているように、藍子もしゃがんで心美と目線を合わせ、そっとその大輪の薔薇を受け取った。


「おねえさん、夜も空飛んでるって、パパもママもユキナオちゃんも言うから」


「うん。そうなの。夜飛んだ次の日はお休みで、おうちにいて寝ていることが多いの」


「あ、だから、お昼も見なかったんだ」


「素敵、とってもいい匂い! 心美ちゃん、ありがとう」


 綺麗なお姉さんにそう言われ、心美も嬉しそうな微笑みになった。


 エミリオもバイクから降りて、藍子と心美が向き合っているジープへと向かう。


「心美、いつもありがとうな。心美が持ってきてくれた日は、お部屋が薔薇の匂いになって気分がよくなる」


 エミリオが小さな頭を撫でるとまた心美は嬉しそうに輝く瞳をみせてくれる。


「心美、渡したなら帰るぞ」


「ほら。お姉さんも戸塚少佐も帰ってきたばかりで疲れているんだから」


 ユキとナオがそれぞれ心美の小さな手を取って、引っ張るように連れ帰ろうとしている。


 そんな心美がエミリオと藍子が一緒にいるのを見て、唐突に言った。


「結婚式、いつ? おねえさんのパパママのおうち、お花がいっぱいのレストランでするの?」


 ユキナオがそろってぎょっとした顔になったが、藍子も面食らっていた。


「こら心美。そんなことはまだ決まっていないんだって」


「そうだぞ。決まったら教えてもらえるからそれまで待つんだ」


 ユキナオがそろって、藍子とエミリオに頭を下げてくる。


「申し訳ないです。ほら、あの、ご存じだと思うんですけど、」


「城戸の叔父夫妻がしょっちゅう隊員の結婚式に招待されているものだから、すっかりどこの結婚式にも自分も参加できるものと思ってしまって……」


 そして双子がこれまたシンクロしたようにはっとした顔になり藍子を見た。


「だからって! 招待してほしいがためのバラではないんですよ」


「ほんとーに、心美がお祝いしたくて持ってきたバラなんです!」


 同じことに気がつき、同じことをそろって言える。エミリオもこの双子のそんなシンクロを何度か目の当たりにしてきたが、今日の内密の演習を聞かされた後だと、なおさらに感じずにいられない。『こいつら、一緒に飛んでいたらこちらが予測しないことが出来るのかもしれない』と――。


「そんな気にしないで。ユキナオ君。私はすごく嬉しい。いつもエミリオに持ってきてくれていたみたいだから、お姉さんにも――なんて」


 藍子はそんなことは気にしないし、とても嬉しそうに薔薇の匂いを吸い込んでいる。そんな女性の顔になっている藍子を、双子がまた惚けてみているから、エミリオはついにふと笑っていた。


 その藍子が心美と双子に唐突に言い出した。


「ユキナオ君、アレルギーある? 心美ちゃんもなにかある?」


 ぽかんとしているユキナオがそろって首を振る。


「俺たちもないし」

「心美もないっす。城戸家全員大食らいです」

「あの心優さん込みでですよ」

「心美もでっす」


 一等賞はやっぱ叔父さんかな、雅臣叔父さんだよな。あれには勝てねえと双子が止まらないやりとりを始める。


 あのソニックも心優さんも大食らいに今度は藍子が驚いていたが、エミリオは笑いたくても上官一家なので必死に笑いをかみ殺す。


 気を取り直した藍子が双子と心美に向かって言った。


「父に教わったフローズンヨーグルトがあるの。一緒に味見してくれる? 薔薇を持ってきてくれたお礼」


「それって、ヨーグルトのアイスってことっすか」


 ユキの問いに藍子がそうよと答えると、心美の目がきらっと光った。


「アイス食べていいの!?」


「あ、いけない。心美ちゃんは夕ご飯前でおやつはダメだった?」


 ユキナオが首を降った。


「いえいえ! チビたちはもう飯終わっているんですよ」


「もし飯前だったとしても、ちゃんと食うな城戸のチビ兄弟妹は」


「そう、よかった。薔薇を飾りたいの、心美ちゃん手伝って」


「おねえさんのおうち、入っていいの!」


 藍子が一応、一緒に暮らしているエミリオを見て確かめた。


「藍子の家だ。このおうちのご主人様からお許しが出たから、さあ、ココ。一緒に行こう」


 エミリオから心美の手を取ると、彼女が満面の笑みを見せてくれる。


「ユキナオ君もどうぞ」


 藍子からの誘いは断れないようで、雅幸と雅直も少し照れて心美についてきた。




 ―◆・◆・◆・◆・◆―




「うっわ、やっぱ女性の匂いがする!」

「海人の家とは違う!」


 ユキナオがリビングに入ってくるなり、驚きおののいていた。


 マーケットの買い物袋を水色のキッチンに置きながら、藍子が笑う。


「それでも海人の家は綺麗でしょう。ユキナオ君も居心地良さそうにしてよく泊まりに来るって海人が教えてくれたわよ」


「それはそうですけどー、いや、やっぱり違う!」

「戸塚少佐がここに入り浸るのわかるっ」


 なんて、いつもの屈託のなさで素直に言い放った双子がはっとして『少佐』を見て青ざめた。


 しかしエミリオはそこで笑ってみせる。


「だろ、いいだろ。おまえたちも早く入り浸る女の家を見つけろ」


 双子がちょっと戸惑った顔をした。でもすぐにいつもの調子でエミリオに合わせてくれる。


「のろけっすか、の・ろ・け」

「気高いクインさんらしくないっすよ!」


 普段はサラマンダーのパイロットとして、コーチをする後輩パイロットには簡単には優しい顔をしない。そんな戸塚少佐は『気高すぎて近寄りがたい』と後輩パイロットに言われていることはエミリオも自覚している。


 それがサラマンダーだった。銀次のように愛想良い快活な男でも、上空では容赦ないテクニックで叩き落とすタイプの先輩もいれば、エミリオは逆にそういうのが苦手で愛想良くすることはできない。だから――、女性パイロットの藍子には『意地悪』と睨まれていたのだろう。


「心美、ここに座って待ってろ。いまお姉さんがアイスを準備してくれるからな」


「ココ、手を洗いたい」


「お、偉いな。そうか、そっちが先だったな」


 よしミミと行こうとエミリオは心美の手をとて、シャワールームにある洗面台まで連れて行く。


 ユキナオは藍子の側でお礼を言いながら手伝うといい、キッチンで手を洗っていた。


 洗面台に連れてきたら、心美がまた目を輝かせている。


「かわいいの、いっぱい」


 藍子が愛用している石けんトレイや、歯ブラシ立てにコップが気になるらしい。


 洗面台の棚のひとつには、欠けてしまったカフェオレボウルに藍子は緑のアイビーを差して飾っていた。


 これもきっと、実家のオーベルジュで何気なくやっていることが、藍子にも習慣になっているのだとエミリオも気に入っている。


「きっとお姉さんは、ココの薔薇も、あの丸い食器に飾るはずだ」


「あれお皿なの?」


「そうだ。前はスープを入れたり、角砂糖を入れたり、珈琲を飲んだり使っていたが。ここがちょっと割れているだろ。割れたらお姉さんはこうして今度は石けんを入れたり、輪ゴムを入れたり、お花を入れたり。いろいろ使っている」


「あれかわいい。ココのバラもかわいいのに入れてくれるのかな」


「きっとそうだ」


 小さな彼女とリビングに戻ると、心美が期待していたとおりに、藍子が食器棚からカフェオレボウルを出していた。


「心美ちゃん、お姉さんね、これに薔薇を飾りたいの。好きな模様のお皿、心美ちゃんが選んでくれる?」


 藍子の提案に心美が目を輝かせる。


「わあ、いっぱい」


「お姉さんのパパが、いらなくなったものをいっぱい送ってくれるの。北海道のレストランで使っていたものなのよ」


「お花のレストランなんでしょ」


 それはエミリオが話した言葉から心美が理解したものだったので、知らない藍子は少し驚いていたが、うまく察してくれる。


「そうなの。この薔薇の仲間のお花の名前のレストランで、おうちの玄関にもいっぱい咲いているの」


「ここみも行ってみたい」


「うん。パパとママとお兄ちゃんと、あ、ユキナオ君たちとみんなで来てくれたら、お姉さんのパパも嬉しいと思うな」


 心美の愛らしい目がますます輝いた。でもエミリオはそこで少し不安になる。きっと、結婚式に招待してくれると思っているんだろうなと、またその話題になったとき藍子はどう受け答えてくれるのか少しハラハラする。


「この青いのきれい。ここみ、これ好き」


 それに薔薇を飾るようにしたようだった。と、エミリオは思っていたのだが。


「じゃあ。これは、ここちゃんにプレゼント。薔薇のお礼ね。これはね、まだ壊れていないからスープも飲めるし、お花も飾れるわよ」


「え、い、いいの?」


「うん、いいのよ。お祝いしてくれて嬉しかったから」


 薔薇を飾る器を選んでもらうふりをして、心美が好きになってくれる物を選べるようにしていた藍子の姿に、エミリオはもう釘付けになっていた。


 彼女は『エミリオが子供と接している姿が、パイロットの時とは違って素敵だった』と言ってくれたことがあるが、彼女だって……。そんなアイアイの顔は見たことがないと思ったほど優美に見えた。


 子供が生まれたら、こんなふうに……。そう彷彿としかけたエミリオだったが。



「わー! 藍子さん、ダメっすよ、ダメ!」

「そうですよ! お父さんから譲ってもらった大事なものでしょ。心美を甘やかさないよう叔父にも言われているんですよ!」


 けたたましい双子の声に、エミリオは我に返る。


「え、でも。たくさんあるんだもの。ペンションでもたくさん揃えていて、定期的に入れ替えるからって。それにお礼だし」


 いいや、いやいや、ダメです――と双子がそろっていきり立つ。


「そうして心美がバラを持っていくたびに、その先で気遣ってもらってばかりで、母親の心優ちゃんも気にしているんですよ」


「またここで心美が小さいこと気遣っていただいて、そうして物をいただいてばかりだとそれが当たり前になっちゃうんですよ」


 ユキナオがまた小さな従妹の側に行き、ひざまずいて心美の目をのぞき込む。


「ココ、今日はバラをお姉さんに届けるだけ。そうだったよな」

「バラはお姉さんに任せて、もう帰ろう」


 ちょっぴり泣きそうな顔をしている心美も、母親やお兄さんたちに常々そう教え込まれていたのか、ぐっと涙をこらえてこっくりと頷いた。


「ここみ、帰るね」


 藍子も余計なことをしたと感じたのか、残念そうにして『うん』とも言えず困惑している。


 ユキナオの二人がそれぞれ心美の手を取って『お邪魔しました』と出て行こうとしていた。


「待て。雅幸、雅直」


 いつもユキナオとセットで簡単に呼ばれている二人が、しっかりと名前でそれぞれ呼ばれたからか振り返った。

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