14.藍子は知らない
ホワイトボードの文字が全て消え、ウィラード大佐が再び正面を向くと、いつもの険しく厳格な部隊長の顔に戻っていた。
岩長部隊長も沈痛の面持ちのまま、席を立ち上がった。
「後ほど、御園海曹についてはご報告いたします」
「わかった。私の部屋に来るように伝えてほしい」
「かしこまりました」
岩長部隊長と共に菅野と城田も席を立ち、退室をしていこうとしている。ただ菅野大尉と目が合った。なにか言いたそうにしている。そしてエミリオにもすぐに通じたので、なんとなく『大丈夫ですよ』と頷いておく。
たぶん『藍子だけが御園のタブーについて何も知らない。頼む』と先輩として案じていると思ったのだ。
「銀次とエミリオも責任を取るというのはどういうことか。よく考えてほしい。モリス、裾野、このサラマンダーの二人と共に、双子のこと頼む」
モリス中佐が穏やかに微笑み返す。
「もちろんですよ、スナイダー。雷神での最後の仕事だからね。若い双子に刻みつけて去って行こうと思ってます」
「うん。頼む。長かったな。一足先に雷神を去ったが、やはりコーストガードの時がいちばん肝を冷やしたな」
「いや、王子のバーティゴもでしたよ。大陸国との摩擦が激化しはじめて、まだバランスが取れていないときだった。でも、葉月さんと王子がバーティゴで出会ってなければ、コーストガードの時、日米連合のこちら側で多数の死傷者は絶対に出ただろうし、雅臣さんももっと前線で苦労していたはず」
「王子がいるうちだな」
そこでウィラード大佐がまたはっとした顔になる。
「ああ、そうだった。銀次とエミリオはまだ知らなかったか」
銀次も大先輩たちの会話を聞いて落ち着きをなくしていたせいか、自分から質問をぶつける。
「無線にあった『王子フランカー』のことですか」
「そう。いま思い返しても不思議な縁だと思ってる。それか、葉月さんと王子の育ってきた環境が非常に似ていてシンクロしやすかったんだろう。こちらで『王子』と呼び始めた男は、そのバーティゴを起こして侵入してきた大陸国のパイロットだ。救助後、艦内で葉月さん自ら聴取をしている。つまり『互いの顔を見ている、対面している。穏やかに和やかに会話をしたことがある仲』というわけだ。葉月さんの判断で助かった恩を彼はコーストガード襲撃の時に、過激な方法で最前線に葉月さんをひっぱりだし、そして交渉をすることで返してきた。その王子は国の面子を保ちながら日本にも被害を与えないよううまくバランスを取ってくれる指揮官になった。いま『朱雀』の部隊長は彼だと聞いている」
それを聞き、エミリオと銀次は共に驚きをそろえた。
「しかも、葉月さんと同じ、あちらの海軍の三世隊員で、じいさんの代からの海軍一族で父親は海軍総督までなっていたようだよ。そんなご子息だから葉月さんも手厚く国に返すよう心を砕いた。そして再び領空に出現した時、当時の岩国艦隊の艦長だった高須賀准将が『王子』と呼び分けたことから、こちらの通称名となったんだよ」
「もし、バーティゴの時。葉月さんと王子が出会っていなかったら、どうなっていたんでしょうね」
モリス中佐も当時を思い出してかため息をついた。
「そうだな。考えたくない。今日はこれまで」
心底そんな気持ちになったのか、ウィラード大佐はそのまま退室した。
「お疲れ様。では明日もこの時間にここで。双子にごまかすのが大変だな」
モリス中佐が笑って裾野少佐と去って行った。
エミリオと銀次はしばしそこに座ったまま、二人だけになった。
「御園のタブーと言われてきたけれど、もうタブーとはいえないほど知っている人も多いんだろうな」
上官や先輩たちが去り、銀次が足を組みながら腕も天井へと上げ『緊張したー』と伸びをした。
「でも、タブーと呼ばれるその根底には痛ましい事件と犠牲者と、横須賀本部の隠匿もあるから、そうおおっぴらには今だって言えないでしょう」
「そこだよな。知っている程度も人ぞれぞれだ。葉月さんの体調不良と部隊長ははっきりと告げてきたけれど、そのPTSDの状態で艦長を務めていたということも、ある意味タブーに近い」
「タブーを知っているのかどうかと俺と銀次さんに部隊長が確認しましたけれど。海人に母親が前線を退いた理由が知られてしまう。海人は母親がPTSDを苦にして退いたと思っていた、でも違うと本日、彼にわかってしまう。こういうことだったんですね……」
「母さんがどうして艦を下りたのか、体調が良くないことは息子として知っていたんだろうな。自宅でPTSDの症状を子供として目撃していたのかもしれない。それでもお母さんは最前線へ行く。この部隊の空部大隊の隊長で防衛パイロットたちの長だった。子供心に置いて行かれる寂しさはあっただろうが、海人には誇りだったんだろう。そんな母親を応援していたからこそ、留守を頑張っていたのかもしれない。なのに、理由もはっきりさせてくれないままある時、引退表明をしていたわけでもなく母親が任を解かれるという不名誉を受け、しかもそれに甘んじた。まさか処分を受けての退陣とは思わなかったんだろうな。それを自分が防衛パイロットになって仕事の席で聞かされるだなんて、あんまりだ……」
銀次が気の毒そうにうつむいた。そして彼もエミリオに問う。
「どうやら、藍子だけ知らなかったようだな。ちょうど良く彼女だけ席を外したから、ウィラード大佐も王子のことを教えてくれたんだろう。エミリオ、どうする」
そう聞かれ、エミリオの答えも決まっていた。
「俺の口からは伝えません。相棒が海人でなければ上官でもあり夫になる自分がと思ったでしょうが……。きっと藍子は……、相棒の海人から話してくれるまでは誰からも聞きたくないと言う気がします」
「そっか。じゃあ、俺もしばらく知らぬふりだな。気をつけておく」
「よろしくお願いします」
「それより、双子だよ双子!」
それも考えただけで頭が痛くなりそうだと、エミリオも一緒に気合いを入れ直した。
―◆・◆・◆・◆・◆―
「はあ、疲れた」
ソニックオーダーのミーティング後、サラマンダーのパイロットが詰める部隊室にて事務作業に没頭。ほぼ定時の終業時間の夕だったが、空はまだ青い。それでも珊瑚礁の海は傾いた夕の日差しに優しい色に変わっていた。
気疲れをする一日だったと、エミリオは濃紺のフライトスーツから制服へと着替えるためにロッカールームへ向かおうとする。
ああ帰宅したら美瑛のお父さんが送ってくれたコーヒーをまず一杯。今夜は食後にモヒートを飲みたいから、生のミント葉を買って帰りたい。藍子もエミリオ特製のモヒートは気に入ってくれている。そうだ、そうしよう。今夜もリビングの窓から薄紫に暮れていく空と海を眺めながら、藍子の家で……。なんて考えていると疲れを忘れていく。
目の前をコバルトブルー色のフライトスーツ姿の女性が歩いているのを見つけた。藍子だった。
「藍子」
彼女が驚いた様子で振り返る。近頃フライト以外の基地内では、ひっつめていた髪をほどいて、ふわっと女らしく下ろしていることが多い。そんな藍子が黒髪を頬のところで揺らしながらエミリオに気がついた。
「戸塚少佐」
エミリオは顔をしかめた。
「いまはフィアンセの男のつもりで呼んだ」
藍子が周りを見渡し、誰も居ないのを確かめた。
「お疲れ様、エミル」
彼女もエミリオがよく知る愛らしさを見せてくれる。
「大変なミーティングになったな。お疲れ様。海人はどうだった」
すぐに彼女が寂しそうにまなざしを伏せた。
「うん。追いかけていったら、海人、鈴木少佐を探していたみたいで、カフェテリアでお二人で一緒だったクライトン中佐と鈴木少佐とどこかに行ってしまったの。そっとしておこうとおもって。私ひとりでジェイブルーの部隊室に戻ったんだけれど、岩長中佐に海人の様子を知らせてほしいからウィラード大佐のところへ行ってくれって言われて訪ねたところ」
「ああ、そうだったのか。ウィラード大佐も海人のことは心配していたよ。上官ではなくて親しくしていた近所のおじさんみたいな顔だった。海人が子供で、大佐が若きファイターパイロットだった頃から親しかったみたいだからな」
「そうだったんだ……、私、びっくり、しちゃって……、だって、御園連隊長が……」
藍子がいまにも泣きそうな顔でうつむいた。涙を抑えるように目元を覆って、息苦しそうにしている。
相棒の実家が、母親が、父親が、そして相棒が幼き頃。どのように過ごしてきたのか初めて目の当たりにして、心で感じてしまったのだろう。いつもは頼もしい年下の明るい相棒が、あんなふうに気持ちを乱したのも初めて見たに違いない。
エミリオはそっと藍子の側に寄り添い、仕事場の通路ではあったが肩を抱き寄せる。
「大丈夫だ。きっと英太さんがなんとかしてくれる。いつも海人は甥っ子のようで弟のような家族だと大事にしてくれているから。それに、あの現場にいた人だ。海人が納得できる話もしてくれているはずだ」
「エミルは、エミルは知っていたの?」
もう藍子は震えて涙声になっている。エミリオも静かに頭を振る。
「いや……、コーストガード襲撃事件の時は新人パイロットだったから、それなりの噂は聞いてきたけれど、どのようなことが起きていたかは今日、初めて知った」
「私まだ、海人のことなにも知らない。まだ、相棒じゃない」
ついに涙をこぼした彼女を見て、エミリオはさらにそっと抱き寄せる。
「そんな数ヶ月で完璧になれる相棒なんていない。俺と銀次さんもそうだ。鈴木少佐とクライトン中佐なんて最初は犬猿の仲だったらしいぞ」
「え、そうなの?」
「なのに今はいつだって一緒。プライベートも信頼し合って、まるで兄弟だ。そうなるには年月が必要だ。それに、藍子はいますぐ海人に全てを打ち明けてほしいと思っているのか」
「全て? すべてって……なに」
さすがにエミリオもはっとした。そうだった。自分は全てのうちの真実に近いことを知っているからつい『全て』と言ってしまった。
だが藍子もすぐに何かを察したようだった。
「そうなんだ。私が知らないことがあるのね……。海人が人にはすぐに言えないことがあるんだ」
「藍子、それは……」
エミリオの腕に囲まれて弱々しくなっていた藍子が、いつもの空を飛ぶときの凜としたアイアイの顔になる。
「わかった。私、待つ。海人が話してくれるまで、待つ」
「そうか。でも困ったことがあるなら我慢せずに、俺に言うこと。俺は夫になるし、アイアイの上官でもある」
「上官でもある……って、戸塚少佐の言い方になってる」
藍子が泣きぼくろがある目元を緩めてくすっと笑う。もう涙は消えていた。そして、エミリオの腕を解いて胸元から離れていく。
「戸塚少佐、ありがとうございました。もう大丈夫です」
「そうか。なにかあれば相談するように」
エミリオもわざと以前どおりの少佐スタイルで応えてみると、藍子がますますおかしそうにして笑顔になる。
そんな藍子が『アイアイ』に戻ったのに、エミリオを優しいまなざしでじっと見つめて去ろうとしない。
「藍子?」
「やっぱり寂しいです。戸塚少佐はその濃紺のフライトスーツがよくお似合いだと思うから」
もうすぐこの飛行服とも確かに、しばらくの間お別れだった。エミリオもそんなサラマンダーの真っ黄色のワッペンがついている黒に近いフライトスーツを着ている自分を見下ろした。
「いや、また戻ってくるだろうからな」
「きっと白の雷神スーツもお似合いでしょう。でも……、私は、戸塚少佐はその最強と言われる黒に近いスーツのほうが、クインらしいと思ってます」
「そうか? うん……そうか」
なんかアイアイに初めてクインとしてかっこいいと言われた気がした。いつも『意地悪な人』と思われていただろうこの姿を。
「だからいま、ぎゅっとしてくれて、くらくらってしちゃったかも」
途端に、藍子の顔になって彼女がおどけた。
「本当は、意地悪なクインがどれだけかっこいいか……。私、わかっていたの。わかっていて、遠い人だから認めなかったの。いつかまたそのスーツを着る日を待ってる」
意地悪で嫌なあなたがかっこいいとわかっていた――と言われ、エミリオは呆然としていた。俺もわかってたぞ? 俺はほんとうに藍子には意地悪くしてきた。演習では『女だからこそ、厳しい空を生き抜け』と思って容赦しなかった。アイアイはくじけずに飛び続け、小笠原の研修にやってくる度にエミリオは『よし、まだ頑張っている』と感じていた。
その藍子に初めて……。という感動だった。
「それでは、失礼いたします。戸塚少佐」
彼女が朝田准尉の姿でお辞儀をして去ろうとしている。彼女が背を見せたそのとき。
「藍子。まだ終わらないのか」
藍子が振り返る。
「ううん。もう本日はこれで終わり」
今度はエミリオだけの彼女の顔、泣きぼくろの目元が愛らしい藍子だった。
「それなら一緒に帰ろう。マーケットで買い物もしたい」
「一緒って。エミル、今日はバイクでしょう」
「だからマーケットに集合。で、一緒に買い物をしよう。俺は今夜、モヒートの気分なんだ。モヒートには新鮮なミントが必要だ」
「私、エミルのモヒート大好き! うん、じゃあ駐車場で待ってるね」
「ラジャー、アイアイ」
そう約束をして、サラマンダー部署の通路で彼女と別れた。
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