8.嫌い、でも素敵
ふと目が覚めると、空いている窓の隙間から見える空が茜をさしていた。
夜明けまで眠ってしまったらしい。唸りながら起きあがると、隣にいつの間にか部屋着に着替えた藍子が寄り添って眠っていたことに気がついた。
ああ、彼女が帰ってきたのも気がつかずに眠ってしまったのか。
金色の前髪をかきあげながら、エミリオはうなだれる。
おかえりも、お疲れも、労りもなにもなく……。しかも彼女の自宅で悠々自適にベッドを占領している男ってなんだという自責が襲う。
それもこれも居心地がよすぎるからだ、なんて言いたくなる。
夜が明け、夏の爽やかな空の色が広がり始める。シャワーを浴びたエミリオは濡れ髪のまま、彼女宅の冷蔵庫を開けて朝食を作りはじめる。
キッチンでいつもどおりの二人が好むメニューをこしらえていると、ベッドルームから藍子が出てきてしまった。
「おはよう、エミル。朝食、作ってくれているの」
「わ、わるい。音で目が覚めてしまったのか」
「ううん。もうけっこう眠ったもの」
彼女の分、サニーサイドアップの目玉焼きを焼くフライパン片手に、エミリオは申し訳ない気持ちで聞いてみる。
「何時に帰ってきたんだ」
「23時ごろかな。エミル、気持ちよさそうに眠っていたから。また本を読んだまま眠ってしまったのねと思って、そっとしておいたの」
部屋着ワンピースのまま、藍子がこちらのキッチンへと歩み寄ってくる。
「いいのかな、サラマンダーの少佐につくってもらえるなんて私だけかも」
カウンター越しから嬉しそうに、藍子がフライパンを覗いた。
火加減を調整し、エミリオはそのまま藍子のそばに近寄る。
「これぐらいさせてくれ。ベッドを占領する男で申し訳なく思ってる」
薄着のままの藍子をそっと抱きしめた。ほんとうは昨夜、彼女が帰ってきたらこうしてあげたかったのに。
「ううん。くつろいでくれて嬉しいよ。帰ってきて私のベッドに本当にクインがいるっていまでも、ちょっと、信じられなくて。本当にいるとほっとするの」
抱きしめているのに。エミリオの腕の中であっても、藍子は時折、こうして自信がなさそうな顔を見せる。だからエミリオはさらに腕に力を込め、ぎゅっと藍子を自分の胸元まで、小さな頭も抱き寄せた。
自分と違う色の髪、黒髪特有の艶、彼女の髪の感触。それを撫でながら、エミリオはその黒髪の頭にキスをする。
「婚約したのに。まだ信じてくれないのか。俺が藍子のそばにいたいこと」
「わかってる。夢じゃないって……。でも、ほんとうにいままでの私には信じられないことがいっぱい起きたの、起きているの」
「それは、俺だって同じだ、一緒だ」
今度は彼女の頬にキスをする。やっと藍子が気恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうにエミリオを見上げてくれた。エミリオもやっと安心をする。
「夜間の領空パトロール、お疲れさま」
最後に彼女のくちびるをふさいだ。
彼女の黒髪を掻き抱きながら、エミリオは藍子の口元をしばらく愛した。
彼女の黒髪の柔らかさ、そして肌の匂いがたちこめる。本当は昨夜、そんな彼女を抱きしめて眠りたかったのにできなかった、その狂おしさがいまになって襲ってきた。
「エミル……」
手元に抱きしめてからずっと離さない男に、藍子が戸惑いを見せる。
「早起きをして正解だな。まだ時間がある」
その手が、朝日の中では憚るほどに、彼女の肌を求めようとしていた。
「ま、待って。だって、エミル今から仕事」
「だから時間があると言っている」
そのまま藍子の身体をまっすぐに抱き上げる。彼女は自分は大柄だと嘆いていたようだが、エミリオからすれば藍子は自分より華奢で、身体も軽い。そのままダイニングテーブルに座らせた。
「え、え……、だから、エミル、ま、」
戸惑う藍子を正面に、テーブルに座らせたまま、エミリオはまた目の前の彼女のくちびるを塞ぐ。今度は強く吸って、藍子がなにも言えないようにした。
「エミル、だめ」
それ以上は――と、戸惑う藍子がやっと抵抗をする。
「どうして。見ているのは俺だけだ」
エミリオが唇を離すと、藍子の目が潤んでいた。泣きたい目ではなく、本当は女としてほてり始めたからこその潤み、それでも彼女の困った顔は本心。
「ここじゃ、いや」
燦々と朝陽がこぼれてきたダイニングテーブルには、まだ全裸でなくとも、陽になにもかも晒されるのは、まだ藍子にとっては例え婚約者の男でも、なにもかも許せるものではないようだった。
そんなこと、エミリオもわかっている。彼女は大人だが、そんなことには慣れていない。ただ、エミリオが男として止まらなくなっただけだ。
それでも、エミリオは、薄着で露出が多めになっている彼女の肌が、朝陽に映えているのを眺め、藍子の目を見て言う。
「藍子、白くて綺麗だ」
「エミル……」
「綺麗だ、藍子」
テーブルの上に座らせた彼女を抱き寄せながら、エミリオは藍子の耳元、黒髪、頬へとキスをして、何度も囁いた。
「綺麗だ、藍子、藍子、俺の手のほうがとろけそうだ」
自信がなさそうな顔ばかりしていたアイアイ、そうじゃない、自分でそう思っても、せめて夫になるエミリオの言葉は信じてほしい。だからエミリオはいつもそっと藍子に囁く。藍子、綺麗だ。藍子、いい匂いだ。藍子、優しい黒髪だ。好きだ、俺の藍子――、何度でも囁く。
まだ戸惑いが残る顔をするときもある、恥ずかしそうに堅くなることもある。いつかなにもかもをエミリオに開いてくれることを祈って、きっとそのときの藍子は美しい大人の女になるはずだ。
だからエミリオは囁く。優しく指先で撫でながら……。
そのうちに、戸惑っていた藍子もそこに静かにただ座ったまま、とろんとした眼差しになってくれる。
細い指先が、エミリオの耳を柔らかに撫でてくれる。
「エミルも綺麗。あなたの金色の髪、きらきらしてる」
同じように彼女もエミリオの耳元にキスをしてくれる。頼りなげな、でも彼女の熱い吐息がふりかかる。
彼女からエミリオの翠の瞳を探して見つめてくれる。ふたり一緒にその唇を求めて、熱く重ねる。
女としてその気になった藍子は急に大人の色香を漂わせる。慣れてない藍子、誰にも相手にされなかった自分、そうして自信を持てなかったことなど、もう忘れて……。この男と対等の女になろうとしてくれる藍子はエミリオを熱く愛してくれる。
そう、そんな藍子が欲しい。
「目玉焼き……」
「ああ、ちょっと火が通りすぎたかもな」
エミリオは藍子をテーブルに座らせたまま、コンロの火を消しに向かう。その隙に藍子はさっとテーブルから降りてしまった。
再び藍子の目の前に戻ったエミリオは、藍子の頬に触れてまたキスをする。もう一度、その口元を愛しながら、彼女の肌を求めた。
「もう、エミルったら、ここじゃなくて、いまじゃなくて……」
だが、エミリオはお構いなしに、藍子を見据えて意地悪く微笑む。
このワンピースを脱がしてしまえば、彼女は素肌だけになる。
「朝食より藍子だ」
「これから仕事でしょ、今日も演習があるんでしょ」
「俺を誰だと思っているんだ。サラマンダーのクインだ。体力なら自信がある」
藍子がふっと笑った。
「やだ。意地悪な戸塚少佐の顔になっているんだもの」
「それが俺の本気だと、藍子は知っているだろう」
「知ってる……。すごく、素敵に愛してくれる……」
藍子からエミリオの首元に抱きついてきた。だからエミリオも、そのまま彼女の両足を腕ですくい上げ抱き上げる。
「アイアイはそのまま俺に撃ち落とされ、くたくたになって眠ったらいい。今日、藍子は非番だ。ぐっすり眠らせてやろう」
「ええ? そんなにしてくれるの? ほんとうに訓練に響かないのですか、戸塚少佐は」
「だから、俺はサラマンダーのクインだと何度言ったら――」
「そんな自信たっぷりの戸塚少佐も……本当は好き」
「本当は……、嫌いだったんだよな」
「うん、でも、それでも……素敵だって……わかっていた」
それを聞いてエミリオは密かにほっとしている。嫌な男、卒業できそうだな――と。
「アイアイが木から落ちないようにする。俺が」
藍子がちょっと驚いた顔をして、そして直ぐに微笑んでくれる。
「うそ。何度も撃ち落とされてるんですけど、少佐」
「上空とベッドは本気にならないといけないだろ」
男の首に掴まってすっかり身体を預けてくれる藍子を抱いて、ふたりでくすくすと笑いながらベッドルームへ。
ここなら、藍子とふたりきり。誰も知らない藍子と誰にも見せないエミリオが向きあうことが出来る。
藍子と彼女の名を囁いて優しく肌を愛すると、藍子は切なそうな眼差しで、なんの遠慮もなくエミリオに抱きついてくる。そして、彼女もその指先で唇でエミリオの肌を愛してくれる。
硬く緊張していた彼女の身体が、囚われるものもなくなり、藍子は素直にエミリオの身体に反応してくれ、一緒に感じてくれる。
大人の、いい女の顔になってきたな。
そんな藍子を知るたびに、狂おしくなっていく。
俺のところでそうなったなら、もう誰も知らなくていい。
俺のところでだけしか、藍子は女になれない。これからも、こんな藍子は誰も知ることが出来ない。
他人が知っているのは『アイアイ』の藍子だけだ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
本日も全国からやってくるパイロットたちと、仮想敵を模した演習を終える。
翌日からの演習についても、アグレッサーのメンバーで内容を確認するミーティングを行う。
夕方になり、その話し合いも終わり解散となる。
「シルバーとクインは残るように」
部隊長のウィラード大佐にそう呼び止められた。
アグレッサーのパイロットに、サラマンダー部隊を支えているスタッフ全員が出た頃を見計らい、ウィラード大佐がいつもの席にもう一度落ち着くように言われる。
銀次とエミリオが席に座ると、向かいのデスクの椅子をこちらの席に向け、部隊長も座った。
「もうすぐ雷神へ異動だな。寂しくなる」
青い目の眼差しを伏せ、明るい金色の頭でうなだれたスコーピオン大佐の様は本心に見えてしまい、エミリオも銀次も共にうつむいた。
「最後にやってほしい演習がある。その打ち合わせを明日のこの時間、サラマンダーのミーティングが終わった頃に始める。その演習に参加する他のパイロットも交えての話し合いになる」
銀次と顔を見合わせた。どのような演習か直ぐには把握ができなかったからだ。
「ジェイブルーにも参加してもらう。そのパイロットと岩長部隊長も明日は一緒だ。それから……、資料を閲覧してもらうため、その資料を管理する責任者として園田少佐も同席する」
他の飛行部隊とそこの部隊長、そして、連隊長秘書室の園田少佐も? 最後の演習として銀次とエミリオの二人だけが呼び止められたうえに、いつもとは異なる様子をウィラード大佐も醸し出している。
「明日の打ち合わせの前に、おまえたちに確認しておきたいことがある」
なにを確認したいのだろうかと思う間もなく、ウィラード大佐が唐突に尋ねる。
「おまえたち、『御園のタブー』というのを聞いたことがあるか?」
先輩であって相棒である銀次とはなにごともアイコンタクトを取って、上官やほかの隊員にどう応対するかの意思疎通を図ってきた。
だいたいは銀次が判断をして返答をする。銀次よりも後輩のエミリオが返答した方が効果的ならそうしてきた。だが、この質問は違う。二人揃ってのアイコンタクトをせずに、でも同時に正面にいるウィラード大佐を真っ直ぐに見てしまった。
「やはりな。知っていたか」
知っていることをこの上官にどこまで明かせばよいのか、エミリオは銀次と戸惑う。
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