76.パレットみたいに

 

 美瑛の父から一冊の本が届いた。


 エミリオ宛てのもので、彼も心待ちにしていたもの。




 それを彼は書斎にした一階の部屋、彼の机でもくもくと読み込んでいた。


 あっという間に夏も通り過ぎ、秋が目の前ではあったが、ここは相変わらず常春の島。


 穏やかな気候は夏の暑さを和らげ、優しい花が揺れて、今日は月と星が窓に見えて、潮騒も。




「エミル、コーヒーを淹れたの」


 ずっと父から届いた本を夢中で眺めている彼のところへ、藍子も訪ねる。


「ちゃんとデカフェだろうな」


「ちゃんとデカフェです。それに私はいいから、エミルが飲んで」


 彼の机に愛用のコーヒーカップを置いた。


「俺だけ、」


「もう、そういわないで。少佐」


「少佐と言ったな」


「そのほうが、言うこと聞いてくれるもの」


「は? うちの奥さんは少佐と呼んで少佐にいうことをきかすのか、凄いな。さすがだ、アイアイ」


 そっちも仕事用で呼んだじゃないと、つい藍子も応戦してしまう。


 そして見つめ合って笑った。


 椅子に座っているエミリオが、まだそこに立っている藍子の腰に抱きついてくる。


 柔らかくてゆったりとしている黒いワンピースを着ている藍子だったが、ほんの少しだけお腹が膨らんできたところ。四ヶ月の終わりだった。


 そこにエミリオが頬を寄せる。


「懐かしいな。俺が意地悪な少佐で、意地悪を言われたママはパパを睨むモンキーちゃんだったんだ」


「もう~、お腹の子にそういうこと聞かせないでよ」


「パパ、好きだったんだ。きっとあの頃から、頑張っているママのこと。心配だったんだ」


 今度の藍子はなにも言えなくなる。決して男の目線を戸塚少佐が向けていたわけでもないし、感じていたわけでもない。エミリオも決して女性として完全に意識していたわけではない。


 でも。お互いに気になっていたのは確か。意識はしていた。


「私は、パパのことが心配。また来月、行っちゃうでしょう」


 またエミリオが航海に出て行く。それでも出産には立ち合えそうだった。


「父と母がまた来ると言っている。なんでも甘えてくれ」


 急に戸塚少佐の顔になった。つまりいま真剣にものを言っているということ。


 でも途端に、呆れた顔になった。


「ああ、でもなあ。父さんと母さん、すごくはしゃいでいたからなあ。藍子が振りまわされないか心配している」


「大丈夫だよ。そんな加減を知らないパパとママじゃないもの」


「わかっているけれどな、なにせ初孫だからな。あの人達の孫は俺からしかできないからな」


 ひとりっ子のエミリオだから、エミリオが結婚して妻が出産しないと藤沢のパパとママには孫ができないことになるので、それはもう、エミリオが藍子の妊娠を伝えたらとんでもない喜びようで、翌々日に小笠原にすっ飛んできたほどだった。


「逆に私は、弦パパとエレンママを頼りにしたいんだけれど。美瑛の両親もそう思っているから」


「そうだな。藍子のお母さんもすぐにすっ飛んではこれない仕事だもんな。そこはうちの両親も心得ている、安心してくれ」


 それよりな、藍子――と、抱きついていたエミリオにさらに抱き寄せられ、ついには椅子に座っている彼の膝の上に藍子は座らされた。


 また後ろから藍子を抱きしめ、そして机の上にある本を藍子に見せる。


「面白いな。お父さんが送ってきてくれた日本の色図鑑」


「これ、私も覚えているわよ。お父さんの本棚にあって、時々眺めていたもの。綺麗なパレットみたいだものね」


「ここから、藍子と瑠璃ちゃんの名前を見つけたんだよな。初めて美瑛の家を訪ねた時、お父さんがこれを見せてくれて、藍色と瑠璃色を見せてくれたんだ」


 結婚を申し込むご挨拶に出向いたあの夏。打ち解けた男二人が本棚で語り合っていたあの時。父はこの日本の色図鑑を開いて、エミリオに藍子と瑠璃の名を決めたのはこの図鑑だと見せてくれたらしい。


 それを覚えていたエミリオが、藍子の妊娠を機に『自分もお父さんのように、色図鑑から子供の名前を決めたいので貸して欲しい』とお願いしたところ、その図鑑が送られてきた。だからエミリオは出航する前に、その図鑑を眺めてあらかたの目星を付けておきたいようだった。


「藍子はどの色が気になる? 男の子と女の子ではまた違うだろうし。いろんな色や名前で迷う」


「エミルのような翠色の目みたいな名前もいいかも」


「翠の目が出る確率は恐らく低いと思う。優性劣性でいうと、藍子の黒髪と褐色の目が出やすくなると思うな」


「だったら。私とおなじ目の色だったら、やっぱり名前で翠色をもらってもいいと思うの」


「じゃあ、女の子は翠みどりが候補のひとつな」


 あ、いいかも――と藍子も嬉しくなる。


「でもな。俺はやっぱり女の子だったらママと叔母さんとおなじ、青系がいいと思っているんだ」


 そんな拘らなくてもと藍子は思ってしまう。


 でもエミリオは真剣で、そして美瑛の父の感性に敬意を感じているようで、自分も同じようにしたいと考えてくれているようだった。


 そうして美瑛の家族と繋がろうとして真剣になってくれるエミリオの横顔。やっぱり愛情深くて、藍子も彼が愛おしくなる。


 そんな彼が膝の上にお腹が膨らみ始めた藍子をのっけたまま、優しくその膨らみを撫でて、また色図鑑のページをめくっている。


 やがて、青系紫系とページが移っていくのをエミルと一緒に眺めていた藍子はふと思う色を指さした。


「こうして青から紫に移ると、日の入りとか夜明けの空みたいね」


「ああ、そうだな」


「シフトで夜間飛行をするでしょう。こういう色合い、よく見るの。ウィングのナビゲーションライト(航行灯)が光ってね」


 青と赤が混ざる時間帯、いろいろな色があっという間に移りゆく。夜間飛行をしたことがある者ならば何度か目にする色合いだった。


「これから暗がりを飛ぶ時は気構えるけれど、夜明けにこの色を見るとほっとするの。でもね、この色、最近は夜に見てもほっとするの。これからエミルと一緒にふたりだけで過ごす時間がやってくる、ただの私になってひっそりと包んでくれる……、そんな色」


 そして藍子はその色を指さしたまま、呟く。


「ああ、この色だなあと、空でお父さんの色図鑑を何度も思い出していた時。この色が浮かんだの」


「紫苑、か。夜明けの色、家族を包む色か。いいな」


 エミリオがお腹の膨らみごと藍子を抱きしめ、微笑んでいる。


「いいな、紫苑しおんか」


 そう静かに呟いて、ずっとその色を見つめていた翠の瞳を藍子は忘れない。


「パレットみたいね、パレットの色、増えるといいね」


 家族が増えるといいね。藍子のその喩えを、エミリオは気に入ってくれたようだった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る