74.わたし、ちょっとおかしい?


 トマトにも旨み成分があって、細かく刻んだものから滴る汁を、ひと晩かけて器に落とす仕掛けをつくって抽出する。


 藍子の父はこれをトマト出汁と呼んでいて、これがトマトジュレの素となる。


 エミリオを初めて連れていった夏、初めてのご挨拶の時に父が出してくれたアミューズ、夏のトマトゼリー寄せにも使われているとのこと。


 藍子も簡単な作り方を父から教えてもらって、少し手間はかけるが簡略的に作ってみる。


 父のトマトゼリー寄せには、その日の父の目に適った食材を入れてジュレで寄せ固める。藍子とエミリオと海人が食べたものには、裏ごししたトマトピューレにホタテとアスパラが入っていた。


 藍子はなにも入れなかった。それを小さな容器に入れて固めたものを、保冷剤を入れた保冷バッグに入れて、出勤用のトートバッグにしまう。


「またそれを持っていくのか」


 夏の制服姿、黒いネクタイを結び終えたエミリオがキッチンにいる藍子のそばにやってくる。


「だって、おいしいんだもの。自分で作って言うのもなんだけれど。お父さんのレシピのおかげかな」


「俺もそれ好きだな。冷たくて喉ごしがいい。本当のトマトよりもトマトを感じる。初めて食べた時も衝撃的だった」


 藍子の夏の白シャツ制服姿で支度を済ませいてたが、そこに夫になったエミリオが寄り添って、いつものように背中から藍子の腰を両腕で囲って抱きしめてくれる。


「ちゃんと食べろよ。地上勤務になって慣れないのはわかっているが……」


「ふう、そうなのよね。空を飛ぶのも大変なことだと思っていたけれど、地上勤務もやることいっぱいで大変。岩長中佐が厳しいわけではないけれど、部隊長の隣で直にサポートするのって本当に大変。ジェイブルーパイロット達のシフトを組む整理も任されちゃったし、これから夏の長期休暇の時期がきて今から面談をして調整をしなくちゃいけなくて……。みんな、お盆には実家に帰りたいじゃない……、GWの調整も大変だったから」


 慣れない地上勤務での数ヶ月間を思い出し、藍子は深い溜め息をつく。


 そうするとエミリオが優しく耳元にキスをして、さらに優しく藍子の黒髪を撫でてくれる。もうそれだけで藍子はほっとして、肩越しに振り返るともうそこにはあの綺麗な翠の瞳があって、気がついたら彼からキスをしてくれる。


「藍子は目の前にあることに全力になってしまうから、ほどほどにな。やれないことは無理といえるのも、優秀な管理が出来る者でこそ。俺はそう思う」


「うん、ありがとう。でもやり終えた時は、滑走路に着地した時とおなじ気持ち」


「そんなところが素晴らしいが……、お父さん直伝のジュレだけのランチはやめておけよ」


 わかったと藍子も微笑んで、もう一度、今度は藍子から彼にキスをする。


 なのに彼が後ろから藍子を抱いたまま、ぴったりくっついて離れてくれない。それに最近、ちょっと彼の匂いが気になる。


「ね、エミル。トワレのつける量を増やしたの?」


「いいや。あ、でも夏だから少し気にしてつける箇所を増やしたりはする」


 それなのかな。いつも以上に匂いがすると藍子はちょっと不思議に思っている。あんなに好きな香りなのに。気になって気になって……。でも言いたくなくて。思い出の香りだから嫌な思いもしたくないしさせたくない。


 それでも彼が藍子の腰を自分にくっつけて胸を触ったり、耳元にキスを何度もしたり、黒髪を撫でてくれたり。彼も藍子の髪の匂いを深く吸って。そうしていつまでも離れてくれない。


 もう出勤の時間だよ。そう言おうとしたら、彼からはっとしたようにして離れてくれた。


「まずい。俺……、父さんと一緒になってきていないか? あんなふうにまでなるものかと思っていたのに」


「え、なっていないよ。でも……、似ているとはよく思うようになったかな」


「嘘だ。俺はあんなに濃厚じゃない」


 濃厚が長い長い長いキスのことを言っているんだろうなと、藍子は思わず頬が緩んだ。


「いいじゃない。すっごく微笑ましいわよ、弦パパとエレンママ。私は嬉しい、エミルがほんとうに大事にしてくれて」


 藍子が微笑むと、またエミリオがぎゅっと抱きついてきた。


「当たり前だ。俺の大事な妻で藍子だ。だから、辛いことがあったら言って欲しい。俺が大人だからとか、少佐で上官だからとかで躊躇うのは困る」


 あ、もしかして。トワレのこと気がつかれている? 藍子はふとそう思ってしまった。エミリオは繊細で洞察力もあるから、藍子の些細な反応でなにかを感じ取っているのかも?


「あの、こうしてくっついている回数が多いせいか、夏のせいなのかもしれないし、私もちょっとつけているせいもあるかもしれないけれど……。トワレ、最近、ちょっと気になって……」


 またエミリオが驚いて離れた。


「そうだったのか……。いや、藍子が少し前から俺がくっつくといつもと違う顔をしていた気がして」


「ごめんね。慣れない地上業務で疲れているのもあるのかも」


「いや、俺、わりと汗かきだからな」


 それがいいんじゃない。男の匂いを放って、そのトワレが立ち上るのがエミリオの色気のひとつなんだから。なのに、それがちょっと気になるなんて?


「ああ、もう時間だ。先に車に乗っている」


 パイロット仕様の腕時計を眺めたエミリオが、最後にもう一度キスをしてくれる。


 パパママみたいに濃密にまで発展はしなくても、ちゅっと優しく吸ってくれるのがエミリオ流かなと藍子は思っていて、やっぱり幸せな瞬間。


 陸にいる間は、雷神パイロットはほぼ規則正しい勤務時間、停泊点検中の空母で訓練をしていて、そこでアクロバットの練習に、雷神特有のコンバット演習をしている。


 藍子も地上勤務のため、定期的な夜間シフトとほんの少しの残業がある以外は定時あがりの今。


 出勤も一緒で、帰宅もそれほど遅くもなく、結婚してからのこの一年、そしてエミリオが二月に帰還して以降、とても幸せな新婚生活を送っていた。


 基地の駐車場で別れる。それぞれの部署がある棟舎へと向かう。


「フライト、気をつけてね」


「もちろんだ。藍子も無理をするな」


 さすがにここではベタベタしてこない。いつもの硬派な戸塚少佐の顔で雷神がある第一中隊まで向かっていく。


 藍子のジェイブルーはまだ新しい部署になるので、訓練校近くの棟舎、最初に出来た中隊棟舎とは逆方向だった。





 午前の業務を終え、藍子は少し疲れを感じながら、ジェイブルー部隊がある比較的新しい棟舎のカフェテリアへと向かう。


 この基地が出来てからある古いカフェテリアは、エミリオがいる中隊棟、或いは、連隊長や空部大隊長室がある高官棟の五階にある。


 藍子が通うカフェテリアは訓練校寄りにあり、訓練校の教官に事務官や学生、そして、ジェイブルー部隊の隊員と、アグレッサーのサラマンダーのパイロットにサポート職員などが利用することが多い。


 溜め息をつきながら、藍子は今日のカフェテリアのデリカを眺めたが、どれも食べたくなかった。


 やっぱり自分で作ったトマトジュレだけでいい。ミルクぐらい取りたいが、なんとなく甘ったるい気がして嫌だった。


 どうしたんだろう、私。フライトをしている時はもの凄く健康で食欲も旺盛だったのに。フライトをしなくなったから? 近頃、事務仕事にかかりきりで筋トレの回数も減らしてしまったから?


 体力が落ちたんだと思うと、コックピットに戻れなくなるのではという焦りも生じた。


 うつむくと、この機会だからと少し伸ばした黒髪が顔を覆う。


 なんとか食べようとトマトジュレを入れた容器の蓋を開けて、食べる準備をする。


 遠くの入口に、濃紺のフライトスーツを着込んだサラマンダーのパイロット達がフライトチームメンバー同士で、賑やかにランチへとやってきた。


 藍子はそれも遠く見つめる。エミリオも二年前はあそこにいたのに。


 いまの雷神の白いフライトスーツのエミリオも貴公子みたいで素敵だった。でも、藍子にとってのクインは、やっぱりあのふてぶてしい火蜥蜴の男。濃紺のフライトスーツに映えるブロンドに、アイアイをからかう意地悪な笑み。……懐かしくなる。


 これで、良かったのかな。


 結婚して幸せな反面、小笠原に来てから二年も経ち、自分があまりにも予想しない状態になっていて、藍子は近頃ふと我に返っていることがある。


 まるで、夢から覚めたかのように。


 この幸せ、ほんとうに、いつまでも続くの?


 欲張るなんて、やっぱりおこがましいことなのでは?


 なにかをひとつは諦めないといけないんじゃないの?


 そこでまた迷っている自分がいた。妻として生きていくのか、アイアイとして生きていくのか。


 ジュレをスプーンで掬ったまま。藍子は止まっていた。


「お疲れー、アイアイ」


「お疲れ、藍子ー」


 はっと気がつくと、藍子が座っていたテーブル向かいの席に、菅野少佐と城田大尉が座っていた。シフトのフライトから一度、空から降りてきてランチタイムとなったようだった。


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