73.おかえりなさい
十日後――。
その日、藍子と海人のシフトは午後から夜間。業務を終え、藍子がジープで帰宅したのは、夜の23時だった。
正午前に藤沢の両親を、基地の飛行場から見送った。新島行きの小型機は帰還する隊員を迎えに行く家族でごったかえし、臨時便も出ていた。
そのプロペラの小型機に乗り、弦士パパとエレーヌママが相も変わらずくっついて藍子に手を振って、息子を迎えに行った。
船の帰港は正午、隊員が下船するお迎えセレモニーが行われるのが14時。
その時、藍子はたまたま新島の上空を飛んでいた。小さな小さな空母が新島の港に見えた。
生物が活発な夏とは異なり、冬は静かな島の夜。
ジープを降りると、家には灯りがついている。
結婚したのに、もう妻なのに。藍子はドキドキしている。
玄関を開けるその時、藍子は夏にしたばかりの結婚式の色を急に思い出す。
美瑛の緑の丘、ラベンダーの花、白と薄紅のハマナス、そして濃いブロンドに白い海軍正装をしてくれた夫、彼の翠の瞳。
ごく僅かな招待客、そして新婦の父親なのに忙しく料理に勤しんでくれた父の料理で賑わった。
誰もが父・青地の料理を楽しみしてくれて、そして父も娘の結婚式の料理は俺以外の料理人にはさせないと張りきってくれた。
ロサ・ルゴサで行われた結婚パーティー。藍子のウェディングドレス姿を見たエミリオが、笑顔ではなくてちょっとだけ怖い顔をしていたのが気になっていた。
あとで聞けば、いままで自分一人のことだと海に出ることになにも思わなかったけれど、初めて怖くなったと言ってくれた。
藍子を一人にしないか。お互いに見送ったその時が最後にならないか。もし家族が増えて、その子達を不幸にしないか。
その『白』に、改めて、藍子とエミリオは結婚の『白』がなにであるのかを知った。
玄関を開ける。
静かだった。なんの音もない。テレビを見るよりかは読書をするエミリオだからかもしれない。
「ただいま。エミル?」
制服姿のまま、彼を探す。二階のベッドルーム。そこに彼がいた。
灯りもついていない部屋、少しだけ空かしている窓からは潮騒と夜風。外の海灯りがほのかに部屋を照らしているそこに、ふたりの大きなベッドがある。
上着は藍子が使っているドレッサーの椅子に置かれ、シャツと白いスラックスのままエミリオが眠っている。
文庫本片手に……。夜の灯りにブロンドが綺麗に映えていた。
ふたりのベッドルームに、藍子は静かにそっと入った。エミリオが眠っているベッドのふちに腰をかける。
やっと帰ってきた。私の旦那さん。私の夫。
会いたかった。
いつのまにか見慣れた綺麗な顔も美しいブロンドも、藍子にとってはあたりまえのものになった。
あとはその目が開いて、深い翠の瞳を見せて。藍子はそっと彼の顔を覗き込む。
そして気がついた。エミリオのシャツからラベンダーの香りがする。
空母に乗っている間、エミリオは富良野のラベンダーを持っていくのが習慣になったようで、持ち物と一緒に入れているせいで、この香りがするようになった。
周辺の同僚達にもそれが知られてしまい、特に銀次は『それがあると眠くなってしまうから俺のそばに置くな』と言われたり、『俺もその匂いを貸してくれ~、ぐっすり眠りたい~』と言われるとか。
そして還ってくると、彼のシャツに髪にほのかにこの香りがついている。
その唇に、藍子から静かにキスをした。
でも彼はすやすや眠っている。きっと艦を降りた後も、パパとママと食事ぐらいはしたはず。こちらの島に帰宅した頃にはお腹もいっぱいになって、気も安まって眠ってしまったのだろう。
先にシャワーでも浴びようと――。
「やっと帰ってきたな、藍子」
立ち上がろうとしたら手首を掴まれていた。
翠の目がこちらを見ている。
藍子は微笑んで、もう一度、ベッドの縁に座っているまま身をかがめ、目を覚ました彼にキスをする。
「それ、私が言いたかったことなんだから、先に言わないで」
やっと帰ってきたのはあなたのほうでしょう。そう囁きながら、藍子からもう一度、寝そべっているままの彼にキスをする。
ちゅっと吸ったのは藍子のほう。……あれかな、お父さんとママの熱いキスを毎日みせつけられちゃって、影響されちゃったかな。そう自分でも思うほどに、濃密に彼の唇を自分から愛していた。
「ん……、藍子……、帰るなり……」
でも、徐々にエミリオの唇も熱く深く藍子に吸いついてきた。大きな彼の手が藍子の黒髪を狂おしそうに撫でてくれる。
「またラベンダーのサシェとシャツを一緒にしまっていたでしょう」
「バッグに入れているんだからそうなってしまうだろう。とうとう銀次さんに、ラベンダークインとか言われてしまった」
その話にせっかくゆったり甘くなってきていたのに、藍子は笑い出してしまう。
藍子が起きあがって離れたので、エミリオがブロンドの前髪をかき上げながら起きあがった。
そしてすぐに藍子の腰に長い腕を回して、抱き寄せてくる。
「逆に、藍子もこのベッドも、俺の匂いだな」
「エミルが留守の時の私の習慣」
藍子はラベンダー、エミルはベルガモットとシャボンのトワレなのに。帰ってきたらお互いにパートナーの匂いに染まっているだなんて。
「ああ、藍子の、ほんとうの藍子の匂いだ」
いつもの通り、藍子を後ろから抱きしめて、綺麗な鼻筋を首元に寄せてきて匂いをかいで、そして耳元のキス。
彼が還ってきたんだと、藍子も熱くなってくる。そのエミリオの手がさっそく、藍子の首元にあるネクタイをほどいて、シャツのボタンを外し始める。
「シャワー、浴びたいんだけれど」
「このままでいい。シャワーもあとで一緒だ」
もう、それでもいいかな。藍子も肩越しにそっと振り返る。彼の翠の目と視線が合う。彼の唇もすぐそこ。
「エミル、おかえりなさい」
「ただいま、藍子」
やっと触れる肌の温かみ。エミリオがそれを急いで探すかのように、藍子のシャツのボタンを外していく。
シャツを開いたそこにエミリオの手が触れていく。今日は少しだけ特別、藍色おそろいのランジェリー。少しくすんだ大人っぽいシックな藍色。エミリオのお気に入りでもあった。
「シャワーに入ってしまったら、これを見られなかったじゃないか」
「藍色の私、空母で夢に見てくれた?」
ちょっとからかったつもりなのに。エミリオが黙った。
黙って、ブラジャーのカップの下から彼の大きな手が静かに入り込んで、素肌の乳房をそっと包む。
「毎晩だ。毎晩、藍子のことを思って眠る」
耳元で、熱い吐息まじりに囁かれ。藍子はもうそれだけで切なくなって泣きそうになる。
背中から抱きしめられていたそこから、藍子はベッドに上がってエミリオに向きあう。そして彼の首に抱きついて、彼の膝の上に乗った。
「私もよ、エミル」
やっと帰ってきた男と向きあって、藍子はボタンだけ外されたシャツを肩から滑らせ、自分から脱いだ。
夜明かりのベッドルームに潮騒と、藍色の藍子。白い肌に藍の色が映える。それをエミリオが膝に妻を乗せて、幸せそうな笑みで見上げている。
「会いたかった、藍子」
藍のブラジャーを彼の手がゆっくりと、藍子の目を見つめながらのけていく。
やわらかな胸の脇に彼がそっとキスをしてくれる。そこも彼の香りをつけている。それにも気がついて彼が微笑む。
お互いに目を見つめたり、キスをしたり、お互いの服のボタン、ベルトを一緒に解いていく。
やっと素肌になって、シーツの上で重なり合う。
藍子の身体の上にのしかかってくる男の身体の重み、皮膚の匂いも彼の匂い。もうそれだけで安心して嬉しくなって、藍子も腕を伸ばして逞しいパイロットの身体を抱きしめる。
「藍子……」
裸になった妻にやっと触れて愛して、匂いを嗅いで、柔らかさと自分より儚い頼りなさを知って、彼も帰還したことを確かめている。
ああ、こんな時の。男の、武士のような顔をしている彼が素敵、こんな時もクインの目で狙い定めたものはきっちり撃ち落としていくの。
藍子はいつもそう思って、恋い焦がれる。
でもそこで彼がちょっと躊躇っていた。
だけれど藍子もどうして彼がそこで躊躇ったのかわかったので、小さく呟く――。
「ちゃんと準備出来ているよ……」
「わかってる」
「約束でしょう」
「ああ」
先程まで雄々しく女を撃ち落とそうとしていたくせに。またエミリオが優しく藍子の黒髪を撫でながら真上に重なってきた。
「藍子……、ほんとうにいいんだな」
柔らかに黒髪をかき上げて、藍子の目をじっと覗き込んでくる。
「いまさら? 私、もう明日から地上勤務だよ。しばらくフライトはお休み」
「どうして、藍子だけに……、」
エミリオが気にしていることだった。あんなに話し合ったじゃない。あなたが空母に乗って航海に出る前に。つぎに帰還した時にはそのつもりで暮らそうって。
帰ってくるまでに準備をしているよって。だからピルも先月分でやめた。だからエミルだっていま……、その気になっていたのだと思っていたのに……。
それでも『話し合い』をしたその時、欲しいといいながらも、やっぱりどうして藍子だけ……とずっと最後までエミリオが悩んでいたのもほんとうのこと。
帰還したら、藍子がほんとうにコックピットを降りて、地上勤務をする準備を終えていた。
そんな苛む夫のブロンドを、今度は藍子が撫でる。
「エミル。子供を産むのは女性にしかできない素晴らしいことだと思うの」
「ああ、そうだな」
「そんな女性だからこそ、生命の仕事を終えたら、また男性と同じ場所に戻して欲しいの。それがなかなか出来ない世の中だって私もわかってる。でも、出来るように二人でやって行こうと決めたじゃない」
「もちろんだ。藍子がコックピットに戻れるようにしてやる、俺が、絶対に」
「いままでそうなるように頑張ってくれた先輩がいるから、私も決意することができたし……。少佐、戸塚少佐なら、これからの女性パイロットにもサポートがしっかりしている組織にしてくれるよね」
一瞬、彼が驚いた顔をした。こんな夫妻の甘いその時に、藍子が上官として呼んだから。でもそれが藍子が愛する戸塚少佐だということも通じてくれるはず。そして通じる。エミリオが優しく微笑んでくれる。
「もちろんだ。でもそれには朝田少尉の力も必要だ」
二人で切り開いていく。なにもかも守っていく。その覚悟をいまから。
彼の翠の目に欲情の色が灯る。男の皮膚の匂いが急に立ち上るかのよう、きっと彼の体温が急に上がったに違いない、藍子がそう思うほどの。
決意する彼の武士の眼差しが注がれる。
やっと夫が帰ってきた、私のところに……。
「いままで藍子とこうしていると、熱かった。でも……、なんでだろうな。やっと藍子に触れているのに……、温かいんだ」
熱いじゃなくて温かい。彼がそう喩えて、藍子は微笑む。繊細な彼らしい感じ方。男の欲望に飲まれて熱さを貪るような人じゃない、そういう優しい人だと知っているから。
「私も。優しいの。今日のエミルの体温……」
そこは優しく溶けあう温かさだった。やっとなににも邪魔されずに触れたそこは、それでもやっぱりとろけるように甘い感覚。
「エミル、きっと素敵なパパになるわよ」
彼も微笑む。
「生まれた子は、色の名前にする」
藍子のように。自然の中にあたりまえに存在する自分だけの色の子。
激しい睦み合いじゃない、温かくて優しくてふわりとする睦み合い。
いつも帰還した時の男と女の渇望を埋め合うものではなくて。優しいものを迎え入れるための……。
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