72.あと十日


 その日のシフトが完了し、藍子は夫の愛車ジープを運転して海辺の住宅地へ帰宅する。


 南の島が常春といえども、二月の日の入りはまだ早い。もう空は藍色でほんの少し茜が残って星が瞬き始めている。


 独身専用の平屋が並ぶ区画から、ファミリー用の二階建てが並ぶ区画へと引っ越した。


 藍子がシンプルに整える家の空気も馴染んできて、エミリオはとても気に入ってくれ、夏から秋のほんの少しの間だけ新婚気分を味わった。


 そしてまた冬が来るころに彼は城戸准将が艦長を務める防衛航海に出て行ってしまった。


 藍子の年末年始は島で過ごした。実家も客商売で休業ではないため、帰省してもゆっくり出来る状態ではないことを知っていたため、藍子は島でフライトシフトに入った。海人も元々、実家はすぐそこの小笠原在住のため帰省はなし、藍子と一緒に業務シフトに入ってくれた。


 島の正月は、国に帰れなかったアメリカ人たちがキャンプでパーティーを開いて、わいわいするのも恒例。


 そこに藍子も誘われるので、まったく寂しい年末年始でもないし……。海人が言ったとおり。一般民間人とは異なる仕事をする者たちは、一般的な暮らしができない分、そうして皆が補っていく。特にこの島はそうだった。


 知り合いが増え、近所の奥様たちとも親しくなり、支え合って暮らしている。アメリカキャンプでのお誘い、御園家や城戸家の隊員達の気遣いに、藍子もとけ込んで助けられていた。


 そして、吉岡少佐が言ったように家族愛も。


「ただいま帰りました」


 新居の玄関の鍵を開けて、ドアを開ける。


 リビングの向こうからどかどかとした足音が響いてきて、藍子は思わず頬が緩む。


「オー、藍子。お帰り!」


 真っ黒髭面、がっしりとした体型の男性が玄関に駆けつけてきた。


「お父さん、ただいま」


「疲れただろう、今日も飛んだんだろ。さあさあ、エレーヌとお好み焼きを作っていたんだ。お腹、空いていないかな。まだかな」


 既にその匂いが玄関まで漂ってきていて、藍子もにっこり微笑む。


「美味しそう。お腹すいていますよ。早く食べたくなる匂いですね!」


「だろ、だろ。父さん特製だからな。キャベツたっぷりなんだ。ほら、美瑛のお父さんが越冬キャベツというのを送ってきてくれただろう。藍子がなんでも使っていいというから、それをたっぷり入れてみたんだ」


「わー、ますます美味しそう! 着替えてきますね」


 顔が真っ黒な不精ヒゲだらけ、大きな黒い瞳が爛々と輝くのでとても濃い顔の戸塚のお父さん。


 いつも元気いっぱいで声が大きくて、確かに……熊……ぽいんだけれど。がっしり体型なのは息子のエミリオぐらいのことで、それほど大男という感じでもなかった。


 でもなにもかもが豪快なので、確かに、大きくは見える。髭のせいで厳つく見える。でもエミリオが言うほどの『熊みたいな大男』とは藍子は思わなかった。


 エミリオと同じ体格だし、年齢のわりに筋肉があって鍛えていて(バイクにずっと乗っていたい&マリンスポーツをしたい)、髪も黒々しているし、顔の骨格はエミリオに似ているし。


 エミリオが子供の頃からずうっとお父さんが大きく見えていた心理が熊男にしたのでは、と藍子は思っている。


「エレーヌ、藍子が帰ってきたよ」


 もう待ちきれなかったと嬉しそうに駆けつけてきたお父さんが、またにこにこ顔でリビングに戻ったかと思うと、綺麗なブロンドの美しい女性の隣にすぐさま寄って、その女性をぐっと自分の身体に抱き寄せた。


「もう弦士ゲンジたら、はしゃぎすぎ」


 エミリオの母親、エレーヌだった。本当にエミリオが女性だったらこんなはずというほどそっくりで、長いブロンドは綺麗で同じ翠色の瞳。その女性がダイニングテーブルにセットしたホットプレートでお好み焼きを焼いているそのそばに、義父の弦士が抱きついてきてずうっとそのまま。


「だってなあ、楽しんだよ。海は綺麗だし、息子とお嫁ちゃんの新居は快適だし、マリンスポーツも冬でも温暖でし放題、お嫁ちゃんとエレンの飯は美味いし、こーんな楽しい毎日はなかなかないぞ!」


 いつもハイテンションのお父さんでとっても賑やか。そして『楽しい、楽しい』が口癖だった。それを美しいお母さんが『そうねそうね』と優しい笑顔でにこにこしている。


 そしてお父さんがやっぱりお母さんを抱き寄せて離さない。いつもどこかがくっついているという感じで、エミリオ以上に奥様にくっつきまくりの旦那さん。


「ゲン、これ食べてよ。藍子が作ったピクルス美味しいの」


 藍子がお父さんとお母さんが来るからと漬け置きしていたピクルスを食卓に準備してくれていた。


 それをお母さんがあーんと差し出すと、お父さんもお母さんを抱き寄せたままあーんと大きな口を開けてパクリ。


「美味いなあ、藍子のピクルス。美瑛のシェフパパ譲りだもんなー。あー美味い。なあ、エレン」


「ほんとうね、私もレシピを教わったから、藤沢に帰ったらやってみる」


「いいねいいね、待ち遠しいねえ」


 まだ帰ってきたばかりの藍子の目の前で、ついに藤沢の父と母がちゅっちゅとキスを交わし合う。


「んー、ゲン、酸っぱい」


「俺もだよ、エレン」


 長い、長い、時折ちょっと会話を呟きながらまたキス。長い、長いったら長い。


「あ、やだ。ここ藍子の家よ、パパったら」


「あー、くつろぎすぎて忘れていた。藍子ー、ごめんな」


「いえいえ。もう我が家のように感じてくれて嬉しいです。それに……、寂しくないから」


 エミリオが航海に出てしまうことは想像以上に寂しさを誘うものだった。藤沢の両親が気にしてこうして賑やかにしてくれるのは本当に助かっている。


「着替えてきますね。早く、ママのお好み焼き食べたいから」


 藍子はベッドルームへと向かう。そうするとまたくっついてあれこれ囁きあっている舅と姑を見て、藍子は思う。本当にエミリオが言ったとおりにいつもいちゃいちゃ、これを見て育ったのだからそりゃあ熱烈な愛を注ぐ男性に育つわと納得だった。


 なのに。舅の弦士お父さんは、エミリオと一緒で家の中では奥さんにいちゃいちゃしていても、ひとたび外に出ると厳つい男らしさを発揮しつつも社交的、あっという間に島でマリンスポーツ仲間を作ってしまった。


 一緒にいるとエミリオの片鱗をお父さんから感じる。そしておおらかなママの優しさに包まれて育ってきたのもわかる。




 そんなエミリオの両親と賑やかな食卓を囲む。


 食べ終わったらエレンママとキッチンで並んで、藍子も一緒にお片づけ。


「藍子、疲れているのだから甘えてくれていいのよ。私がやっておくから」


 少しだけ英語のアクセントが残っている日本語。でも流暢で達者だった。


「いいんです。私がママとこうしていたいから」


「まあ、嬉しいわ。藍子」


 そしてブロンドのスリムなママが藍子に抱きついてくる。


「なんだなんだ。俺も仲間に入れてくれ」


 今度はパパがママと藍子ごと抱きしめてきた。


「もう、弦はお嫁ちゃんに触っちゃダメでしょ」


「さわってない。藍子を抱いているエレンを抱いている」


 確かに触っていないけれど、お父さんの熱さが伝わってくる。


「私も嬉しいからぎゅっとしちゃおう」


 藍子からママと向こうにいるパパを抱きしめると、舅と姑が嬉しそうに笑い声をたてた。


 ああ、こうしてエミリオが育ってきたんだと感じることができる日々。


 藍子が寂しくしていないかとご機嫌伺いにさりげなくやってくるパパとママだった。


「もうすぐエミリオが帰ってくるわね。どうしているかしら。いまはどこかしら」


 今日、上空で会いましたよと案じているママに言いたいけれど、業務上機密事項なので言えないこんな時、藍子は辛くなる。


「藍子はエミリオの艦が帰港する時はまだ業務中なんだよな」


「はい、彼が帰還してから地上勤務に移行するんです。それまではシフトでフライト業務でその日も上空にいると思います」


「そっか。妻なのに残念だな」


「でも、それが私とエミルですから」


 そんなパパとママが、息子が帰港する時は新島基地までお迎えに行ってくれるとのことだった。


 しかもその時に新島を観光してそのまま藤沢に帰るとのこと。


「新島のジャングル探索ドライブコース、楽しみね」


「噴火した後に出来た自然そのままが見られるんだよな。海鳥や溶岩の跡など見所がいっぱいだ」


「私たちは私たちで楽しんで帰るから、あとはエミルのことよろしくね、藍子」


 新婚夫妻が二人きりになれるように、さっと帰宅する父と母。これもさりげない配慮だと藍子は気がついていた。


 こんなフランクに接してくれる夫の両親だから、美瑛にいる父と母もかえって安心して任せられると言ってくれている。




 あと十日。エミリオが帰還する。


 あと十日。藍子は一度コックピットを降りて地上勤務になる。


 あと十日。私とエミリオは約束した。


 子供が欲しいね――と、約束した。


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