62.空を往く妻


 夫になる約束をしたばかりの彼が、最前線へいく部隊への異動を決意する。


「柳田さんも? 行くつもりなの?」


「現場を知らないまま、アグレッサーを続けるのは難しいと言っている。銀次さんの奥さんは、元は横須賀司令本部の秘書官だった女性だ。何事にも肝が据わっている。既に行ってこいと言われたそうだ。それに三年の任期が終われば、おそらく銀次さんが次期アグレッサーのリーダー候補になるはずだ」


「エミルは? エミルもリーダー候補なんでしょう」


「俺は銀次さんについていきたいだけだ。銀次さんがリーダーになるなら、俺はその下でサブでもいい。俺には銀次さんが必要なんだ」


 藍子に相棒が必要なように。エミリオにも大事な相棒の柳田少佐。先輩の彼と一緒にステップアップをしていきたいということらしい。


「それを……。藍子の家族にまず説明しなくてはならない。きっと、お父さんは、娘の夫も防衛最前線ではいい顔をしないかもな」


 それをまた案じているらしい。藍子も父がどう受け止めるかわからない。でもわかることがひとつ。


「父は私のことも案じてると思うけれど応援してくれている。たとえ夫になるエミリオが最前線に行くファイターパイロットでも同じよ。それよりも、父は戸塚エミリオという男性のことを知ったら安心してくれると思う。大事なのはきっとそこだもの」


 危険な任務を背負う夫よりも、娘が選んだ男性がどのような人間かということ。


 それなら藍子も胸を張って紹介できる。娘としての藍子の言葉に、エミリオも幾分かほっとしてくれたようだった。


「藍子も。待っている間、大変だと思う」


「でも私、ひとりでも産むからね。いつにする? ピルやめなくちゃ」


 けろっと答えた藍子に、エミリオは唖然としている。


「そりゃ、いますぐ欲しいけれど。絶対に結婚式が先だ」


 お堅いエミルらしいと藍子は思ってしまう。

 そのエミリオがまた唐突に言いだした。


「美瑛で式を挙げたい」


「え! なんで」


「藍子の実家は人気があるオーベルジュだ。お父さんもお母さんも妹さんも義弟さんも、なかなか休めないんだろ。うちの両親なら喜んで北海道までバイクですっ飛んでくる。考えておいてくれ」


 美しすぎるクインと婚約しようとしているだけでも藍子はふわふわしていたのに。


 やっぱり生真面目なエミリオは現実的なプランを既に頭に思い描いていた。


 藍子ももっとしっかりとこれからのことを考えなくては――と心得た。





 ―◆・◆・◆・◆・◆―




 そして藍子も結婚へ向けて、今まで以上に真剣に考えるようになる。


 自分は女性だということを、まざまざと突きつけられる現実と向きあうことになる。




 子供を望むなら、コックピットはそのつもりで早めに飛行を休むために降りなくてはいけない。


 そうすると海人の相棒はどうなるの? 一時でも離れてしまったら、もう二度と海人とは組めなくなっちゃう? 


 もし子供が出来なかったら、いつ諦めて、コックピットに戻ればいい?


 コックピットに乗り込んだまま、妊娠をするのは危険すぎる。




 それにエミリオが長い航海で留守になってしまったら、シフト勤務をしながら一人で子育てはきっと無理。


 両親に家族は自営業だから頼りにできない。エミリオの両親がこれからどう協力してくれるかにもなるだろうが、こちらも自営業。負担になりたくない。


 多くは望まないと藍子はエミリオに告げた。妻の自分がパイロットを続けるなら、子供を持とうと望むのは二の次。


 でもあの子煩悩で、家庭を愛するエミリオが欲しくないわけがない。藍子だって女、子供を産みたいと思っている。


 そうすると。業務のほうをどうにかしなくてはならなくなる。




 藍子は初めて思う。女性がパイロットとして勤めるのは非常に大変だということ。


 男女平等にしてほしいという次元の話ではない。女性の身体はどうあっても男性と同じには出来ないし、女性を望むなら男性と同じように生きられるわけがないということだった。




 そうしてしばらく、思い悩んでいると。それを察したかのように、岩長中佐から声がかかった。


 日中のシフトの日、夕方、空から帰投して900隊の事務室にて、海人と報告日誌を仕上げている時だった。


「藍子、その日誌が終わったら、こちらに来てくれ」


 部隊長になった岩長中佐から声がかかった。藍子だけが呼ばれ、海人は呼ばれなかったので、藍子ではなくて海人がやきもきした顔に。


 なんだろう。やはり女性パイロットとして識別されてしまったことについてだろうか。藍子は不安に思いながら、一人で岩長中佐の部隊長室を訪ねた。


「お疲れ様、藍子。ちょっとそこに座ろうかな」


 少佐から中佐に昇進。部隊長室の主となったガンズさんが、藍子がよく知っている穏和なオジサマの笑顔で応接ソファーに誘ってくれてほっとする。


 向かい合って座ると、一枚の書類を差し出された。


「長期休暇の許可、海人共々、申請OKだよ。ゆっくりしておいで」


 日本人隊員はだいたいはお盆休みのあたりに長期休暇を申請するものが多いが、今回はエミリオが富良野と美瑛のラベンダーを堪能したいというので、一ヶ月早めの七月下旬のラベンダー最盛期の申請を頼んだ。


「この時期の富良野はもの凄く混雑するだろう。頑張って帰れよ」


 同じく北海道にいた岩長中佐が笑った。


 この話だったのかなと藍子もほっとして休暇許可の書類を受け取った。


「ありがとうございます。私はこの時期は避けたかったのですけれど、ラベンダーの最盛期もあっという間ですから」


「そうだな。あの綺麗な紫を保っているのは十日あるかないかだもんな。七月二十日前後、普段はすいすい進む富良野の道路がラベンダーのファームまでのろのろ運転の一時間待ちの渋滞だ」


「それでも見たいと、戸塚少佐が」


「初めて美瑛に行くなら、それは見てみたいだろうしね。そして、藍子、少し気が早いかもしれないが、婚約おめでとう」


 戸塚少佐と婚約、そして結婚へと向かうことをガンズさんが祝福してくれる。藍子もここで初めて、嬉しい微笑みを見せていた。


「そんな女性の優しい顔をするんだね。藍子はいつもクールな面差しで落ち着いていて、いつも空を見ていた。女性パイロットとしてのプライドを俺も感じていたよ」


「部隊長にそういっていただけると、女だてらに空を飛んできて良かったと思えます」


 だけれどそこで急に岩長中佐の眼差しが、いきなり上官としての目になったと藍子は感じ取る。


 その目で、岩長中佐がちょっと溜め息をつきつつ、藍子に尋ねてきた。


「藍子も今度のことは不安に思っていないか」


 ここのところの藍子の揺れる心情を、この信頼している上司、上官はしっかり見抜いてくれていた。


「女性が結婚することで起こりうるすべてのことで、不安に思っていないか」


 戸惑う藍子に、岩長中佐は問う。


「女性に対してこのような話を持ちかけることは男性上官として戸惑いもあったため、女性である御園連隊長の許可を得たうえで、朝田准尉に問う」


 その問いを藍子は聞かされる。


「結婚後、もちろん子供を望んでいるということでいいだろうか」


 男性上官がいきなりつきつけてくるのは、やはり戸惑いがある。だから、岩長中佐はセクハラにならないようにと、女性上官である連隊長、海人の母親に業務として問うという許可付きで藍子に尋ねている。


 そんな真摯な上司としての姿勢、藍子にも伝わった。そして、藍子は一人で悩んでいたからどこかで安堵して泣きたい気持ちになってきた。


「はい。そのつもりです。ですが……、彼が、戸塚少佐が……」


「聞いた。九月に雷神へ異動だそうだな。となると、航海任務が主な業務になる。あと広報活動も今以上にスケジュールに組まれる。家庭にいる日は少ないだろう」


「ですので、まだいつとは彼とは決めていません。私は多くは望まなくてもいいと彼に伝えています。ですが彼は欲しいみたいで……」


「それは夫になる男としても自然な願いだ。藍子も望んだとして、パイロットとして女性としてどうすればいいか迷うことになるだろう。だが」


 岩長中佐が険しく藍子を見た。


「だが。私は藍子には女性の道を選んで欲しいと思う。コックピットよりもだ」


 上司のはっきりした言葉に、藍子は……、初めて、現実的にコックピットを捨てろと言われているのだと思い愕然とする。


 そしてやっぱり自分は、パイロットとしての人生をそう簡単に捨てられないのだと自覚する。


 なのに子供も欲しい……。


 多くは望まないなんて嘘。全部、手に入れようとしている自分が何処かにいたのだと知ってしまう。


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