61.海を往く夫


 演習で仮想敵を担うパイロットは、技巧も認められた上で選ばれる。


 サラマンダーと名付けられたチーム名は、それまでトップパイロット集団と呼ばれた『雷神』よりも強いという意味で、『雷が落ちても、火の中でも平気な火蜥蜴』というのが由来。


 ただし演習やコーチを請け負うのが彼らの現場であって、防衛最前線が雷神の現場ということになる。


 つまりここ三年間のエミリオの職務は、任務に出るのではなく、全国からやってくる現場パイロットのコーチ、演習指導。


 だからいまは、シフト勤務といっても地上には一日のうちに短時間で帰宅できる藍子と同じ時間を過ごすことが出来ている。


 それがなくなる。しかも雷神は航海回数も多く、最も最前線へ配置される。地上にいる時は広報活動で土日はどこかの基地の広報活動で駆り出され、アクロバット飛行の活動も加わる。


「藍子はどう思う」


 いまから結婚を予定しているふたり。これからはいままでのように、同じ朝を迎えたり、ずっと一緒にいられる週末を過ごすことがなくなる。


 藍子も防衛パイロット、仕事を続けながら、もし母親になるようなことがあっても、夫がいない留守をしている間はひとりきりで子育てをしていかなければならない。


「藍子の負担は大きいと思う」


 結婚前に、いまなら、まだ……結婚を前提にしたつきあいに留めていくことも出来るとエミリオが暗に含めているのが藍子にもわかる。


 でも、藍子の答は決まっている。


「エミル、私がもし異動になって。では、夫と一緒にいたいからパイロットを辞めると言ったらどんな気分?」


 エミリオの表情が憤りに変わる。


「なにを言っているんだ。なんのためにここまで頑張ってきたんだ。藍子のキャリアだぞ。俺のことひとつで辞めたりするんじゃない」


 そう感情的になって、エミリオも気がついた顔になってくれた。


 気がついたことが藍子の気持ちだとも気がついてくれ、とても申し訳なさそうな顔で藍子を見た。


「やめて、そんな戸塚少佐の顔、見たくない。私もいまエミルが感じた気持ちと一緒。ここで雷神に行く話を断るなんて言ったら、私、哀しい。あなたの足枷になりたくない」


「しかし藍子、俺たちは結婚するんだ。これからパイロットをこなしながら、家庭を妻が一人で守っていくんだぞ。専業主婦とは違う、地上勤務の事務官とも藍子は違う」


 藍子もそれはわかっているし躊躇っている。でもだから辞めるのは違うこと。


「そんな欲張らない。その時に自分が出来ることを選んで私、生きていく。エミルさえいれば私はそれで幸せだし、空も飛べる」


 それ以上の女の幸せについては、これから考えていく。藍子にとってはいま結んでおきたいのはエミリオという男性だけ。


 エミリオがしばし黙った。


「俺は、藍子との子供が欲しい」


 そんなエミリオの願いも藍子はよくわかっている。あんな小さな心美ちゃんをだっこした彼の姿も、元気いっぱいのキッズが大人達を待ちきれずに騒いでいた時もエミリオは子供達に真摯に接していた。


 愛情いっぱいのご両親に育てられたエミリオが、自分も温かくて賑やかな家庭が欲しいというのは、持って当たり前の希望。


「私もそう思っているよ。でも結婚しないと始まらない。だからこれからその準備と話し合いをしていけばいいじゃない」


 またエミリオが黙った。


 藍子が言っていることは良く解っているはず。しかしあくまで一般論に過ぎない。それだけで安心できない顔をしているのは、彼が最前線に行ってしまう戦闘機パイロットだから。


「三年と言われている」


「三年? 三年で雷神からまたどこかに異動するの?」


「三年勤めたら、またアグレッサーに戻されて、今度は銀次さんと一緒にリーダーエレメントの候補に挙げると約束された」


「凄いじゃない!」


 藍子は喜んだが、エミリオはまだ神妙にうつむいている。


「最前線に三年だ。一年の半分はおそらく海の上だ。藍子との通信もままならず、……きっと朱雀の飛行隊と激戦になる」


 朱雀! そう聞いただけで、藍子はなにもかもを察する。


「もしかして……。朱雀のために、柳田さんとエミルが選ばれたの?」


「そうだ。それから。城戸准将から許可をもらっているから、藍子には話しておく」


 上官から許可をもらわねば話せないこと? それだけで藍子は何事かと怯える。


「俺たちアグレッサーも日々、国内上空で起きたことはチェックした上で、どのような仮想敵を演習で行うかを話し合っている」


 それがサラマンダーの仕事だと藍子もわかっている。


「藍子が作製した日誌もよく俺たちのところに上がってくる」


 シフト勤務をした後に、どのような対処があったか、気になることがあったかを報告するために提出しているもの。それをいまは先輩である藍子がつけて、時々、海人に指導しながらつけさせることもある。


「岩国105に搭乗していた時、藍子は朱雀3によくサインを送られていたよな」


 藍子もはっとする。朱雀とは五島列島沖でよく遭遇していた。藍子と祐也の105を確認すると、朱雀3のパイロットはいつも藍子に向けてサムズアップサインの挨拶をするほど、識別されていたのはわかっていた。そしてそれもきちんと日誌に付けて報告していた。


「一度や二度ではない。遭遇するたびにだ。横須賀の中央司令本部でもそうだったが、俺たちサラマンダーの間でも、アイアイは個人として識別されていると判断していた」


「そ、それで……。私が識別されていてどうだったというの?」


「その対策をするべきがどうかという話が上がっていたところに、藍子とカープの仲違い、そしてペア交代だった。あとは中央と上官たちの判断だから俺のところにはもう情報は降りてこなかったが、藍子が識別されることについてはその後なにか対策をされるはずだったに違いない」


「対策とはなに?」


 これからも識別されてしまったらどうなるのか。藍子の胸が騒ぐ。


「わからない。ただ識別されたのは、体格から女性と判断されていたのではという上層部の見解だった」


「……もし、これから小笠原908機でも判別されてしまうと、私はどうなるの」


「それもわからない。結局、小笠原に来たことで、岩国の105機に藍子がいなくなったことを朱雀も知ったのか、もうサインを送ってこなくなったそうだ。これは、カープからの報告。彼の最近の日誌では、以前は識別されていたのではないか、その後のアイアイへの対策を考慮して欲しいと日誌に付けていた」


 復帰している祐也のフライト報告。そこに藍子を案じている一節があったと知って、藍子は思わず、涙を浮かべる。


「ご、ごめんなさい。エミル……」


 彼の前に思いを全力で傾けていた同期生、男性のことで感情を揺さぶられた姿を晒してしまった。


 それでもエミリオは、そんな藍子をいつもの少佐の落ち着いた眼差しで見つめてくれているだけ。


「謝るな。藍子にとってカープは大事な戦友で同期生だ。俺はカープがそう案じてくれたこと、知らせてくれたことに感謝している」


 寛大に受け入れてくれ、藍子は甘えてついに涙をこぼしていた。


「今後も藍子が小笠原908で識別されることも考えられる」


「識別されてしまうと、私はもう防衛をする前線ではリスクがあるから使えなくなるというの」


 これが女性パイロットとして不利になる状況と判断されるのかと、藍子は今後の業務に差し支えが出るとコックピットから降ろされるのではと不安になってくる。


「司令本部が案じているのは、藍子が識別されることではない。識別されることぐらいは、機体に番号がついているから、そんなものは男でも同じだ。そうではなく、女のパイロットだと識別されることで……」


 エミリオが黙った。とても言いにくそうだった。


「教えて、エミル。お願い」


 藍子に聞かせたくないから躊躇っているとわかっている。でも藍子はジェイブルーパイロットとして知りたい。


「研修でやった演習があっただろう。ジェイブルー1機に対して戦闘機が4機で囲む」


 それを聞いただけで藍子も察した。岩国の河原田中佐が言っていたこと。『訓練内容を見ても、岩国よりも対国との接近が過度なのだと思う』と言っていた。


「まさか。あれって。どこかで本当に起きていたの?」


 エミリオが苦しそうにうつむいた。


「沖縄の西南沖であったそうだ。だからだ。あの演習を指示された」


「それって。いま同じ四人チームを組んでいる、沖縄基地にいた菅野大尉と城田中尉は知っていてあの演習をしていたの?」


「知っていたと思う。同じ沖縄基地のジェイブルーがやられたんだ。ただ、あの研修でおなじ状況をつきつけられることは勿論、彼らも知らなかった。そして侵犯を選ぶのかキルコールを選ぶのかという二択になることも彼らは知らなかった。ただし、すぐにその意図を彼らも汲み取っていたと思う。沖縄、東シナ海の最前線で仲間が無事に還ってきたことをどれだけ喜んで安堵して迎えたことか。あの時は侵犯はせずギリギリで帰還したそうだが、危なかったそうだ。あそこは大陸国が勝手にADISを拡大し、こちら日本国と重複していてなかなか線引きが難しい海域になっている。そういう駆け引きが難しいところで起きた。菅野大尉と城田中尉はだからこそ生きて還ることを選べたのだと思う」


 あの演習は既に現実で起きていたこと。藍子は絶句する。


「そして司令本部で案じているのは、アイアイがまた小笠原上空で識別された時、女性パイロットと見下され、また沖縄で起きたことと同じ状況にならないかということだ」


「私、降ろされるの? そうなったら危険要素を持つパイロットとして降ろされるの?」


「だから、男でも識別されるから女性だからということではない。ただ、ジェイブルー908機にはいまその状況を考慮するために注視しているというところだ。そしてなにも、藍子だけが狙われているわけではない。向こうはジェイブルーが戦闘能力がないことを知って、上手く行けば防衛戦略の駆け引きとして上手く使えると思うようになっているのではということだ」


 そこでエミリオがひと息つくために、コーヒーをひとくち飲んだ。


「あの状況を二度と作らないため、或いは、その状況になった場合、それを回避させるのはスクランブルで到着する戦闘機部隊だ」


 エミリオがあの綺麗な翠の目で藍子をまっすぐに見る。


「だから、俺は行く。藍子、俺がすぐに駆けつけてやる。俺が朱雀を追い払ってやる。俺は雷神に行く」


 それがエミリオの決意だった。そして藍子は。


「わかりました。私は大丈夫。私も防衛パイロットよ。そして軍人よ。そして……、軍人の、ファイターパイロットの妻になるのよ」


 それでも今度はエミリオのために藍子は泣いた。


「待っています。貴方がどこを飛んでいても。貴方が還ってこられるよう待っています」


 藍子のところに還ってくる。そう言ってくれたから。そして藍子も。


「貴方を遠く飛ばすと言ったでしょう。貴方の行きたい護りたい空に行って」


 どんなに危険な任務でも、藍子は彼の妻として支え、待つ覚悟。それが戸塚エミリオの妻になる信条であるべき。


「わかった。ありがとう、藍子。返事をしておく」


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