60.遠い空にいても
岩国で、姿を見ることもなく、言葉を交わすこともなく別れた、同期生が飛行勤務に復帰していた!
「今度はあの若い奥さんも文句が言えないでしょう。相手はベテランの少佐ですよ。余計な口出ししたら怒られるし、少佐の奥様も転勤も官舎住まいもベテラン。大きな顔はできませんって。というか、ご実家にいるようですから大人しくしているみたいですよー」
それでも、相棒夫妻が新たに生活を建て直している様子を聞けて藍子は安堵する。あの後味の悪さが少しは軽減する気がした。
「ついでに。烏丸さん、奥さんと離婚した上で、退官されたみたいです」
こっちも。それなりの結論が出されていた。
「出入り禁止になった奥さんがいたんじゃ、准将としても威厳が保てないし、異動先もご不満だったようで、それならと退官したようです。奥さんのこと、妻が悪いとめちゃくちゃ文句を言っていたみたいですけど、海東さんは『なにもかも目をつむっていたくせに、保身のために、こんな時だけ妻を悪し様にするのか』と、もう激怒されたみたいで。それもあって辞めたみたいです。隊員と隊員の家族が傷ついた事実があるんだから懲戒免職でも良かったのにと俺は思っていたんで自業自得ですよねー」
発覚するまでに傷ついた者がどれぐらいいて、まだ苦しんでいるのではないかと、藍子もこちらは後味もなにも嫌な気分にしかならない。
「エドがしつこくマークしているんで、彼女のほうが逃げまくっているらしいですよ。もう悪さはしないから、追いかけてこないでと泣いているらしいです」
うわ、黒スーツさんたち怖いと藍子は絶句する。あのエドとかいう男性、すっごく穏やかな笑顔を見せいていたのに。
「すごい実家だね、海人のおうちは……」
そこの跡取りになるんだよねと言いたくても藍子は黙って、生意気サングラス男を気取っているお日様君をみつめてしまう。
そのうちにこの子が、あのお父さん並の権力を手に入れる日がくるのだろう。
「あ、そうだった。あのね、海人。今度の夏の休暇、エミルと一緒に美瑛に帰るんだけれど、海人も一緒に来る?」
海人が驚いた顔を見せた。
「いや、約束はしましたけれど! だって結婚のご挨拶なんでしょう。お邪魔じゃないですか」
「エミルは海人も一緒に連れていこうと言ってくれているんだけれど。相棒なんだから早めに紹介しておくべきとエミルも言っているんだよ」
エミリオの寛大な誘いに、海人は戸惑っていた。だけれど藍子もそう思っている。お互いの命を預け合って空を飛ぶ相棒。大事な存在だった。
「いいんですか、本当に」
「じゃあ、冬にする? 来年にする? エミリオがラベンダーを見たいと言うから、その頃に早めの休暇を申請するの。相棒だから海人も取りやすいよね」
「ラベンダー……」
海人が黙ったがまたハンドルを握りながら震えていた。
「行きます! ラベンダーの季節も俺、大好き! 一緒に行きます!!」
そうこなくっちゃと藍子も笑った。
「そうだ。また今週末はビーフカレーを作るんですよ。ユキナオが押しかけてくると思いますけど、良かったらエミルさんと一緒に来てください」
「うん。楽しみ」
「あいつらまた海に出て行くから。その前に食べたいって言うんですよ」
空母艦乗りのパイロットである彼らが、また航海任務に出て行く。その前に悪友同士で励まし合うようだった。
「じゃあ、私も手伝ってなにか作ろうかな」
「お願いします。あいつら藍子さんの料理もすっかり気に入って。誘ってこい誘ってこいってうるさくて。出掛ける前に藍子さんにも会っておきたいんですよきっと」
小笠原に来て数ヶ月。藍子の生活はとても充実したものになっていた。
美しすぎるパイロットのクインと婚約する予定、二人で愛しあう日々。相性抜群の頼りがいある相棒に、小笠原で親しくなった後輩に、先輩に同僚達。そして理解ある上官も。
こんなに楽しくて幸せでいいのかなと怖くなってくる。
海人に送ってもらい、藍子は自宅へと戻る。
鍵を開けて入ると、もうコーヒーの匂いがする。
「ただいま」
リビングに入ると、藍子の自宅なのに部屋着で砕けたスタイルのエミリオがいる。
早くに起きていたのかテーブルには朝食が整っていて、彼も部屋着でも既に綺麗なブロンドに整え、髭もないいつもの麗しさだった。
「おかえり、藍子。夜間のシフトお疲れ」
すぐに彼が制服姿の藍子を抱きしめてくれる。そしてお疲れ様のキスも、ちゅっと音を立てる愛情表現も変わらない。
「ただいまエミル。寝ていてくれて良かったのに」
藍子がそう言っても、恋人が朝方に帰ってくるシフトでも、自分も起きて準備をして待っていてくれる。
「俺も支度をして出勤するから、一緒に食べよう」
「お腹すいていたの。ありがとうエミル」
制服姿のまま、藍子はすぐに食卓についた。できたてのようなので冷めないうちに戴くことに。
部屋着のエミリオと向きあって座って、爽やかな夏の朝食をとる。
「また私の部屋で寝ちゃっていたの」
「ああ、うん。なんか落ち着くんだよ、藍子のベッド。あっちの俺の家で眠ろうとしても落ち着かなくて」
近頃のエミリオは、すっかり藍子の家に入り浸るようになっていた。彼の本が増え、制服まで置いていくようになった。
エミリオが藍子の家に入り浸りなのも、もう基地では有名になってしまって、藍子の家が戸塚少佐の自宅扱いになり始めていた。
結婚を視野に入れた婚約間近であることも既に知れ渡っていて、美しすぎるクインが妻を娶って夫になることも話題になっているし、藍子はいちいち誰かに呼び止められて『おめでとう』と言われてしまう毎日。
「早く家を決めて引っ越したい。もう俺の家は俺の家じゃない」
「でも。エミルの男っぽいかんじがあって私は好きなのに」
でも藍子も彼が入り浸っているので、すっかりあちらの家でくつろぐこともなくなっていた。
パンを囓っていたエミリオが溜め息をついている。
カフェオレボウルには、藍子が作り置きをしておいたポテトポタージュ。いつものようにエミリオは、パンをスープに浸しているが、ちょっと元気がなくなったように見えた。
「どうしたのエミル。そんなに急がなくてもいいじゃない」
早く藍子と広い家に住みたいという彼の思いが、どんどん走り出していることは藍子もよく知っているつもり。藍子だって楽しみにしている。
特に美瑛の父と母、妹夫妻も驚いていたが、制服姿のエミリオの画像を送信したら、あまりのかっこよさと美しさ、さらに素晴らしい経歴に驚いたのか、本当に藍子と結婚する気がある男なのか心配だと騒いでいるらしい。
藍子も早く会わせて安心させたい。会えば絶対に父はエミリオを気に入ってくれると藍子は確信している。
藍子の父が安心していないことを感じ取っているエミリオが、早くとりまとめたいと心が急いていることも、藍子は感じていた。
「うちの実家のこと、気にしているの? エミルがかっこよくてエリートだからびっくりしているだけだって」
だが、エミリオがそこで食べかけのパンを皿の上に手放し、背筋を伸ばして藍子をじっと正面から見据えてきた。
「藍子」
その顔が戸塚少佐の顔だと、藍子は気がつく。嫌な予感が走った。そんな少佐の顔。
「まだ内示なんだが、九月に異動する」
異動!?
さすがに藍子も驚いて、食べる手をとめた。
「え、でも、エミルはアグレッサーでしょう」
それ以上の部署がある? だが藍子もここで初めて気がつく。アグレッサーとしてずっとこの職をしていくと漠然に思っていたが、よく考えたらエミリオは腕はあってもとても若い。
このままずっと同じ部署? 引退するまで? 初めて藍子もその違和感に気がつく。
「現場に戻って欲しいと言われた。城戸准将に」
現場に? しかも打診してきたのは城戸准将。――ということは。藍子が気がついたことをエミリオが告げる。
「銀次さんと一緒に、雷神に来てほしいと言われた」
今度は雷神に。つまり現場に戻って最前線の防衛任務に戻ると言うこと。
そして藍子がすぐに思い浮かべたのは、結婚しようとしている男が海に戻って数ヶ月も留守にする夫になるということだった。
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