59.アイアイは凶暴なまでに噛みついて


 美味しいお茶と気兼ねのない会話を楽しんで、藍子とエミリオはそこで御園家を後にした。


 そろそろ小さな子供をシッターに預けている夫妻もちらほらと帰り始めている。


 まだまだ賑やかに楽しみたい隊員も妻も残ってはいたが、二人はおいとますることにした。




 賑やかな御園家を後に、独身向けの平屋が並ぶ区画へとエミリオと歩いた。


 夜空には初夏の星座、そして柔らかな潮騒と海風。彼のブロンドの毛先がそっとそよいで静かに黙って歩いている。


 藍子の肩を片時も離さず歩くエミリオの足は、藍子の家へと向かっている。


「エミル、今夜はエミルの家に行きたい」


 ここのところ、エミリオは藍子の家にばかり来るようになってしまった。


 食材が揃っていること、父譲りの本格的な道具が揃っていて、満たされた生活感に癒されると言って、藍子が行く前に彼が来てしまうからだった。


「しかし。最近、藍子のところに入り浸っていて、あまり冷蔵庫に食材がない」


 そういうことを言いたいのではない。藍子はすぐそばにいるエミリオに横からぎゅっと抱きついた。


「あのエミリオの匂い、ベッドに染みついていたあの匂いに抱かれたいの。もう一晩中、エミリオに包まれていたいの」


「藍子……」


 あの家。彼の男らしい家が始まりだった。意地悪な少佐の大人の魅惑を感じ取りながらも、藍子は決して男として感じるものかと蓋をしていた。


 その匂いに染まったら……。藍子はあっという間に、大人の女のなにかを開放された気がしていた。女の芯も熱く疼いて、いままで気後れして恥ずかしがっていた子供っぽいこともなにもかもなくなって、ありのままの今の自分を彼に晒せるようになった。


 今夜はそんな素肌の自分を、あの男の匂いがする部屋で晒して、なにもかもを彼にあげてしまいたい。そんな気持ち。





 エミリオの自宅、彼のベッドルームで藍子はドレスを脱ぐ。


 いつもどおりにエミリオが背中に抱きついてくる。


「藍子、」


 慣れてきた耳元のキスに、藍子もそっと微笑む。


 ゆるく結んでいた髪をほどいて、耳に付けていたパールも取り払う。


 ふわりと肩に柔らかな黒髪が降りると、エミリオがそれをのけてまた藍子の耳を探している。


 藍子の耳に、頬に、そして首筋にキスをしながら、エミリオもネクタイをほどいて、シャツのボタンを外していく。


 お互いに素肌になって、そのまま向き合いそっと抱き合う。頬を寄せた逞しい肉体の胸元、そこから聞こえる彼の鼓動に藍子はうっとり目を伏せる。


「もう。私なんて……と言わないから」


 そして、藍子からエミリオの胸元にキスをする。


「エミルは私だけのもの。私にはエミルだけ。誰にも渡さないし、離さないから」


 もう一度、男の匂いがたちこめる皮膚にキスをして、藍子は彼の翠の目を見上げる。


 美しすぎる男、アグレッサーの気高きクイン。そう思って遠くに感じていたけれど、もう違う。


 彼は私じゃないとだめ。私が彼を支えていく。空に飛ばしていく。それは私じゃないと出来ない。今夜、藍子はそう思えるようになった。


 だからこれは藍子の誓い。もう一度、今度はエミリオの顎先にキスをした。


「私、あなたを遠くまで飛ばす。ずっと遠くまで」


 そんな藍子の愛。エミリオも通じてくれたのか、優しく目元をゆるめて微笑んでくれている。


 藍子の頬にそっと触れ、そして藍子の肩にかかる黒髪をそっとのけてまた耳元にキスをしてくれる。


「藍子、愛している。これからもずっとだ。俺はどこを飛んでいても必ず藍子のところに還ってくる」


 遠く空の向こうに行ってしまっても。藍子が飛べない遠くに行ってしまっても。彼は藍子という家に還ってきてくれる。それがエミリオの愛。


 藍子もそっと微笑んで頷いた。


 そんなエミリオが藍子の手をそっと握る。そして細い指をひとつそっと撫でて言った。


「ここに印をつけてもいいか。いや付けさせてくれ」


 左手の薬指だった。その意味がわかって、藍子は目を瞠る。まだ恋人になって日も浅い。だけれど藍子ももう彼以外考えられない。


「うん。お願いします」


 このうえなく微笑むエミリオに抱きしめられる。


「俺の両親に会いに行こう」


「エミルも美瑛に一緒に来て」


 見つめ合って深い口づけをする。お互いの肌を撫でながら、ふたり一緒にベッドの上に重なった。


 初めての夜。あんなに戸惑っていた藍子も、いまは自分の呼吸に合わせて、肌を愛してもらっている。そして藍子も彼の呼吸に合わせて、彼の肌を愛している。


「藍子……、そういうことも、俺、だけにだ、わかったか」


 他の男を意識するような女だと思われたのかと、ちょっとムッとした藍子は、いつも彼がするような甘噛みをしてやる。


「っ、藍子……、怒ったのか」


 信頼できる女って言ってくれたのに。でもエミリオのその不安もとてもわかる。夢中になった女に裏切られたり、海にいる間に他の男に獲られたり。だから藍子だけはどうしてもという気持ちも伝わってきたから、今度は優しいキスを送る。


 藍子は黒髪をかき上げ、そして彼の身体の上に乗っかったまま、翠の瞳を今日も見下ろす。


 藍子と彼のお揃いの香りなのに、微妙に違うその香りが混ざりあったそこで、藍子はまたセクシャルな気持ちになってきて、うっとりと彼を見つめる。


「私も空を飛ぶんだから、私もあなたのところにしか還らない」


 満ち足りたエミリオの微笑み、美しいクインの眼差しが藍子に注がれる。彼が藍子の柔らかな腰を掴んで起きあがる。


 素肌の男と女がベッドの上で向きあう。


「俺のプライドは、藍子を愛しぬくことだ」


 気高きクインのプライドにもうひとつ信条が増えたようだった。


 藍子も嬉しくてうっすらと涙が滲んできた。でもそっとそっと堪えて。


「私も、アイアイは凶暴なまでにクインに噛みついて離れないから」


 彼にキスをしたら、エミリオが『なんだよ、それ!!』と笑い出した。


 せっかくのいいムードだったのに。でも、その楽しそうな笑い声。エミルという藍子だけに見せる顔に、そっと微笑んでいる。


 その後はなににも囚われずお互いに肌を貪って、夜遅くまで何度も愛しあった。


 南国の初夏の風は潮と花の匂い、そして私たちの皮膚から漂う香りを混ぜて。





 ―◆・◆・◆・◆・◆―





 それからしばらく、季節が変わる。梅雨の時期が終わり、燦々とした太陽が照りつける夏がやってくる。


 新部隊ジェイブルー900隊の準備研修も終わり、藍子と海人も小笠原の空をシフト業務で飛ぶようになっていた。




《こちらOGW管制、ジェイブルー908 シフト終了、上空に異常がなければ帰投せよ》


「こちらジェイブルー908 飛行経路に異常なし 帰投する」




 その日のシフトは早朝に終わるため、東南の空が白み始め、薄明るい紫苑と臙脂えんじが混ざり合う。星の灯りもちらほらと消えていく中、帰投命令が出て、藍子は海人と一緒にジェイブルー908にて降下をはじめる。


 空がほの明るくなってきても、滑走路の誘導灯は煌々と光り輝き、藍子達を導く。


 無事に着陸をして、夜明けを迎えた滑走路を海人と共に降り、帰投後の事務業務を終えて二人一緒に帰宅する。




 海人は母親に譲ってもらったという赤いトヨタのスポーツカーで出勤している。藍子もこの日は彼の車に乗せてもらった。


「藍子さんも車を持ったほうがいいですよ」


「うん、そうなんだけれど。エミルがジープを持っていて、藍子も乗れるように手続きしたから乗っていっていいよて言ってくれているからそれでいいかなって迷ってるの」


 日が昇りきった夏の眩しい青をきらめかせる海岸沿いを走る赤いスポーツカー。年代物、親の世代の車でも、綺麗に大事に手入れをされているのが良く解るボディの艶とエンジン音だった。


「はー、もう毎日惚気られて、毎日ごっちそうさまでーす。そうそう、お二人が一緒に住みたいという物件、また伯父に聞いておきましたから。エミルさんにも契約相談のための都合のよい日時を聞いておいてくださいね」


「うん。わかった。いつもありがとう、海人」


 素晴らしい親戚筋を持つ海人のおかげで、藍子とエミリオは同居する家を探すのに協力してもらっていた。


「しかし。あっという間に婚約ですかー。でも、なんか自然に見えるっていうのが不思議ですね。お似合いってことなんでしょうね」


「私も信じられない。つい半年前まで、あんなことになっていたのにね……。美瑛の家族もびっくりしている」


 雁字搦めの世界にしがみついていた自分。そして相棒との諍い。藍子はふっと二度と会えないほどになった同期生のことを思い出している。


 美しいエメラルドグリーンの海を見ると、彼とこの空を飛んでいた二月のことも遠い日なのについ最近のような。


「なに考えているのですか」


 サングラスをしている栗毛の相棒が颯爽と運転をしながらも、藍子の心を見透かしているようでハッとする。そしてそれは当たっていた。


「カープさん、新しい相棒を得て空に復帰していますよ」


「え、ほんとうに!」


「今度は超ベテランの元戦闘機パイロットだそうですよ。操縦担当の方は少佐。私生活も含め、ビシバシやられているとのことです。女の子たちから情報が回ってきました~」


 あの時に作った岩国情報網が役に立っているらしい。


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