58.クイン、誇りを取り戻す
御園准将が階段を下りていく。その後ろにあの黒スーツのエドが控え、さらに黒髪のエリーに、数名の黒スーツがついてく。
「戸塚少佐。ご苦労様。やはりミミルに喰いついてきたな」
エミリオが御園准将に会釈をした。
「夫が必死になっているこの日に、男漁りか。少しは危機感を持って大人しくするなら考えたが、もう終わった。君にはもうチャンスはない」
なんのことだろうかと藍子も様子を見守っていると、御園准将が声を張った。
「烏丸メイ、本日より連合軍関連の施設などへの出入りと、隊員との接触を禁止する」
唐突な通告に、さすがの彼女も表情を変えた。
「お待ちください。私は烏丸の夫人ですよ」
「だから?」
冷めた眼鏡の眼差しは凍っていて、それはアイスドールと言われる妻の御園少将以上のもの。藍子は恐ろしくて震えた。息子の海人もゾッとした顔になって、父親の後ろへと階段を上がって退いていく。それだけ父親の本気を感じ取ったということらしい。
「もう手遅れだ。これは横須賀司令本部、総司令の海東中将からの通達だ。これから基地に一歩でも入ろうとしたら、君は警備員に捕獲され追い出される。守らなければ罰則を受けることになる」
「理不尽です。私は隊員の家族ですよ。しかも、艦長を務める夫の!」
「その夫、烏丸君はここ一年、艦には乗っていない。任命さえされない。妻の君が楽しそうに好き勝手に夫の部下を利用している間に、君の夫は閑職に追いやられていたんだよ。気がつかなかったのかな、奥様」
「夫は……、空母に乗るのは一年に一回ぐらいだと」
「私の妻が現役の時は、一年に多くて三回乗っていた。それが期待される艦長というものだ。一年に一回、しかも烏丸君はここ三年、准将になってから二度しか就任していない」
つまり、烏丸准将は望まれている男ではないらしいと藍子も初めて知る。
「随分と長い間、影で好き勝手をしてくれたようだね。それを感じ取った海東総司令が少しずつ調査を始めていたことも知らずに。だから君の夫は総司令に嫌われてしまい近頃は実績も作れないから、准将クラスの経歴争いから脱落寸前。もう君の夫に隠れた職権乱用は通用しないんだよ」
しかし女は怯まない。
「そんな嫌われるだけの心証や感情だけで人の職務を左右するのはパワハラではありませんか。訴えるところに訴えられますよ」
「都合良く言い換えるな。隊員、及びその家族に危害をくわえる者を排除する、上官の責務だ。それを海東司令は実行している。訴えるならどうぞ。こちらは痛いことはなにもない。嫌われたのが何故かもわからない者と話が通じないのならばそれが早い。手続きは早いほうがいい。そうだな、エド」
後ろに控えていた栗毛の男性が静かに答える。
「全て揃っております。万全でございます」
「ということだ。待っている。訴える準備をするがいい。隊員を脅した数々の事実も突き止めている。慰謝料を請求したいという退官した男性もいた。その男性のサポートもこちらから願い出ている。戦う姿勢は整っている」
彼女がそれでも御園准将を睨んだ。
「いい目だな。しかし魅力はない」
「ふん。なによ。こんな家。生意気な坊ちゃんと、地味な旦那が怪しい男を囲んで威張っているだけ」
やっと彼女がエミリオから離れ、渚の階段を上がろうとする。
だが狭い階段は御園准将が立ちはだかっているので、彼がどかないと通り抜けることができない。
「帰ってやるわよ。どいてよ」
御園准将がいつもの笑顔を見せる。しかしその笑みは藍子から見たら空恐ろしい底知れぬ笑み。
「仕返しをしようなどと考えずに、軍隊から遠く離れろ」
御園准将に上から睨み倒されても、彼女もずっと睨み上げている。そこにはもう美しさも艶もない。刺々しさと禍々しさだけが刻まれている顔しかない。
「綺麗なお嬢さんがいましたね……。気をつけたほうが・・」
「そんなのは娘が生まれた頃から気をつけている。娘を手込めにしようと男を雇っても、後ろにいる黒スーツに綺麗に掃除されるから雇った男もおまえも覚悟しろ」
初めて彼女が顔色を変えた。
「安心しろ。おまえを手込めにしようなんて男はうちには誰もない。おまえが喜ぶようなお仕置き程度の生ぬるいやり方は一切選ばないプロばかりだ。やるなら徹底的に排除する。なにを勘違いしている。こっちは仕事で殺し合いの世界で如何に殺されないかを生業にしている。脅すだの傷つける痛めつける程度のことで勝ち誇るな」
藍子も顔面蒼白だった。御園家の恐ろしさと力を思い知らされている。相棒の父親はそういう権力を持っている男。
「脅されたと訴えてもいいよ」
さらに御園准将が、こんな時なのに優しく笑った。
海人ですら、父親のそんな顔と気迫にしゅんとしたように縮こまっている。エミリオでさえ、落ち着いて佇んでいるが、その表情は上官の威厳に気圧されている顔。
「おそらく君の夫は地方港の小さな監視施設へ異動になる。三年で改善出来なければ、もう出世できることもなく、様々な権限を失っていくだろう。君が夫を出世させてくれる素材を食い尽くし、君の夫はただなにもしなかった男。その結果、君が自由に使っていた権限もなくなっていくだろう。いや、もう今日からはない」
彼女はもうなにも言い返さず、もう早くここから逃げたいという顔で息を荒げている。
「エド、エリー。おかえりだ。彼女の顔と匂い、覚えておけ」
「イエッサー。忘れません」
「イエッサー、准将。決して取り逃がしません」
エドとエリーが彼女を囲んだ。彼女ももう力を無くしていて、囲われるまま黒スーツに連れられていく。それはまるで犯人を逮捕して連行していくような有様だった。
御園准将が渚に佇んでいるエミリオへと歩み寄る。
「お疲れ様、ミミル。どうだ。気が済んだか」
「はい……」
さすがのエミリオも脱力しているように藍子には見えた。
「俺にはミミルが彼女ではない、悔いている若い自分に打ち勝ったように見えたよ」
御園准将の言葉に、あのエミリオがなんとも言えない表情に歪め、そしてうつむいてしまった。
「准将、あの女が悪さをする前に俺が食い止めたい。その思いを遂げるこのような機会をくださってありがとうございました」
「いや、こちらもはっきりした言動を取るのに役立たせてもらったよ。それ以上にクインの気高さを見させてもらった。素晴らしかった。誇りに思うべきだ」
藍子にも縛られた過去がある。でも藍子より大人で頼りがいのある彼にも縛られた過去があった。
彼がそこから抜け出して、今夜、この海風に洗われている気がした。
そこにいるのはやはり気高い男、エミリオ戸塚だった。
「みーつけた」
藍子の後ろからそんな女性の声、ふわっとジャスミンの香りが漂って藍子は振り返る。
そこにエレガントな水色スーツの栗毛の女性。藍子を見つめてにっこり笑っているけれど、藍子はとんでもなく驚き硬直!
「海人も隼人さんも、久しぶりにそこで遊びたくなっちゃったの? 相棒のお姉さんに大好きだった遊び場を見せたくなったの、カイ君」
海人の母親、御園葉月少将。連隊長だったから、藍子はまたぴんと背筋が伸びて動けなくなる。
「初めまして、藍子さん。海人の母親の御園葉月です」
少将で連隊長で……、女性パイロットの先駆者で。藍子はもう言葉が出なくて、ただただ少将に合わせて頭を下げるだけしかできない。
「初めまして、御園少将。朝田藍子です。もう女性パイロットとしてずっと前から尊敬しております」
「こちらこそ息子がお世話になります。私もジェイブルーで操縦をしている女性隊員のことはいつも気にしていたのよ」
優しい手が藍子の手をそっと包んだ。藍子はもうそれだけで昂揚してしまい頬が熱くなってのぼせそうになる。
「いま、俺のことカイ君って呼んだだろ!」
藍子が緊張のご挨拶をしようとしているのに、階段から上がってきた海人が母親に喰ってかかった。
「え、だって。この渚で遊んでいた頃のこと思い出しちゃって。インターナショナルに上がるまでは、カイ君て呼んでいたし」
「言うな、呼ぶな。藍子さんの前で!」
御園准将も気怠そうに渚の階段から上がってくる。
「ああ、葉月。怖い顔をし続けていたら疲れたよ。紅茶でも飲まないか」
「怖い顔? お父さんになにか怒られたの、海人?」
「怒られてない! もう~、父さん、この少将さんはなにも知らないのかよ?」
「あー、なんていうか。お母さん的なお仕事はもう既に終わっていたから」
終わっていた? まだきちんと挨拶は出来てないのに、藍子は父子の会話に海人と一緒に首を傾げた。
「酷いだろ。怖い顔と脅すみたいな役は部下の俺にやらせてね、園田が情報をかき集めてくれて、母さんは烏丸君の逃げ道をぜーんぶ塞いで、こっちに来るのを待っていたんだから。損だなー、奥さんより部下だと汚れ役させられてさー」
え、あんなにゴッドファーザーみたいに凄んでいたのに、あれは奥さんにやらされた仕事? しかも烏丸准将の逃げ道を全部塞いだ? やはりそこは噂の連隊長。だったらお母様も凄いじゃないと藍子はおののいた。
「だって。女の言うことは全然効果がないみたいだったんだもの。ここは怖いオジサマでしょう」
「はー、やな役。だから紅茶ぐらい淹れろ」
そこでやっと御園少将が藍子を見た。
「チョコレートはお好き?」
ふわりとした雰囲気が意外で、藍子はただ茫然としてしまうが答える。
「はい。大好きです」
「一緒にお茶しましょう。ジェイブルーのお話を聞きたいわ」
挨拶はいらない。でも、息子のお仕事仲間の先輩として一緒にお茶をしたいと誘われている。
「エミリオもいらっしゃい」
優雅な声に誘われ、エミリオも渚から上がってくる。そして藍子の隣に並んだ。
「彼女といただきます」
「まあ、エミル、お似合いね。貴方のそんな顔、見たことがないわ。ね、藍子さん。一緒に行きましょう」
不思議な雰囲気のお母様。でもお嬢様の雰囲気を藍子は感じた。
そういって御園葉月少将は夫と一緒に肩を並べて、勝手口から家の中に戻っていく。
藍子とエミリオもその後へと続く。
「葉月さんはこの家ではあんな感じだよ。気取らないほうがいい。ええっと……、近所のおばちゃん、かな」
「ええ、そんなふうに思えないよ」
藍子が戸惑っていても、海人も隣にやってくる。
「うちの母、家では天然ぽいから適当に流してくださいね。一緒にチョコレートを食べていれば大丈夫ですから。いいですか、お隣のおばちゃんぐらいの気構えで」
「もうやだ。海人まで」
それでもエミリオと海人に取っては『親しいご近所の奥さんとただのお母さん』という感覚らしい。
藍子もそうなれる? でもふんわりしたお嬢様風のお母様に見えるのはきっと、この我が家にいて夫と息子がいるからなのだと藍子は思った。
もう煩わしいことは海の風が持ち去った。
御園家の庭には優雅なチェロの音が流れてくる。
二階のゲストルームに招かれた藍子は、エミリオと一緒に、海人と御園准将と御園連隊長と共に美味しいチョコレートとあの香りがよい紅茶を楽しんだ。
その時はもう。藍子にとっては雲の上だった准将と少将だったが、相棒のご両親という気持ちになれて、和やかなお茶の時間を楽しんだ。
海人が子供の頃の写真まで見せれくれたり、藍子が嬉しかったのは、女性パイロットだった御園少将がご自分がパイロットだったときの写真を見せてくれたこと。
色褪せた写真は何十年も前のもので、長い栗毛に深緑のフライトスーツを着込んだ女性が潮風に吹かれ空母艦の甲板にいるもの。フライトスーツの腕にはスズメバチが編隊を組んでいる黄色のワッペン。ビーストームというチーム名。
同じ女性パイロットとして、滅多に見せない写真を見せてくれたんだと海人が教えてくれる。
藍子には鮮やかな色合いで見えてしまう。おそらく自分の両親が若い頃ぐらいの世代。もう遠い時代。海人に似た琥珀の瞳はその写真の中でも輝いていた。
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