57.喰えない男
人目を避け、御園家庭の磯辺で、ひっそりと彼女とエミリオが寄り添っていた。
「あの女っ」
実家の庭、子供の頃に遊んだ磯辺。そこで相棒の大事な恋人に他の女がくっついているのを見た海人が飛び出そうとしていた。
「待って、海人」
年下相棒の肩を掴んで藍子は必死に止めた。
「でも藍子さん」
『しっ』と口元に藍子は指を立てて、海人の声を静めた。
そうして二人でもう一度、渚にいる二人を窺う。
「大人の男になった匂いね」
抱きついている彼女がエミリオの首元に鼻先と唇を近づける。いまにもキスをしそうだった。
なのに、そこでエミリオが眉間に皺を刻みながら、手で払って彼女を押しのける。
「俺に近づくな」
「あら、私をこんなところに連れ込んでおいて? 照れなくていいじゃない」
どうやらエミリオが人目がつかない場所に連れてきたことで、彼女は自分のことを忘れていないと確信したようだった。
「なに勘違いをしているんだ。彼女に近づこうとしていたから、触って欲しくないから遠ざけただけだ。彼女に近づくな」
「あんな地味な子でいいの」
地味な子。藍子は本当のことだからなにも反論できない。それでもあんな美女に、エミリオが傷心を味わうほどに好きになったことがある女性に言われると胸が痛む。
「藍子さん、大丈夫、ですか」
「大丈夫、平気」
海人が心配そうにしてくれるが、だからって自信がなくて傷ついている顔をしたら負けていることになる。藍子は微笑んでみせる。エミリオもそう、果敢に彼女に向かっていく。
「あんたが派手なだけだろ。それに。あんたは性格悪いから、自分の敵にならない女のことは逆にかわいいとか綺麗とかいうんだよ。自分より上にいそうな女のことは悪く言う。つまりあんたは、藍子が綺麗に見えているんだよな。悔しいからそういって落としているんだよ。それもそうだろうな。藍子は泣きぼくろがあるセクシーな表情を、空を飛ぶ前に見せるから、小笠原のパイロットたちはいつも気にしていた。しかもガードが堅くて身持ちがいい。信頼できる女だ。あちこちの男を跨いでいつも濡れて汚れている女とは違う」
海人並みのきついエミリオの言葉選びに藍子は絶句。海人ですら『うわ、少佐ったらきっつぅ』と驚きながらもくすっと笑った顔を見せたほど。
そして彼女も余裕の笑みを見せていたのに、悔しそうに顔を歪めた。
「私を怒らせていいと思っているの。あの子、パイロットなんですってね。続けていくなら異動も常。私の夫の配下にきたら酷い目に遭うわよ」
「脅すのか」
「脅し? 軍人の常じゃないの。男の中で頑張る女は餌食にされやすいのよ」
エミリオが黙った。そして藍子はゾッとする。彼女がいうとおり、いつどこへ異動になるかわからない。烏丸准将はどうやら妻のいいなりのようだから、ほんとうに彼の配下に行くことになったら、妻に目を付けられた女はひとたまりもないかもしれない。
「これでもねえ、私のいうことを聞いてくれる夫の部下はいっぱいいるのよ。男を使うことができるって意味」
その男を使って藍子をどうにかしてやるとも聞こえ、藍子は震える。そういう考えを持っているということは、いままでそれらしいことも絶対にやってきたに決まっている。
「それが嫌なら、彼女を守りたいなら、エミル、准将夫人の私の言うことを聞くことだって軍人としても損はないと思うわよ」
恐ろしい女の提案。もしかして、藍子は気がつく。それは海人も。
「あいつ、まさか……。隊員の家族を人質にして脅して関係を迫っていたのか」
いつもはおおらかなお日様君の顔が。いつか同世代の隊員を守ろうとした時の男らしい鋭い目つきになる。そんな海人の顔は父親に似ていると藍子は思えてくる。
そして藍子もおなじことを思った。誰もが彼女に絆されるように吸い寄せられたわけではない。隊員という立場と、妻のいうことはなんでも聞いてしまう上官の部下になった不遇、そして家族のために?
だとしたら妻だけではない。やはり放置している烏丸准将にも大いなる責任がある! だから? だからエミルに柳田少佐も、ここにいる小笠原の隊員達が彼女と烏丸准将を警戒して怒っていた?
そして今度はエミリオが藍子を守るためならと脅されている!
だがエミリオはふっと笑っていた。
「やれるもんならやってみろ」
まったく動じていない。
「俺は、あんたみたいな汚らしい女はもう抱けない。可哀想に脅して致し方なく抱いた男たちはさぞや吐き気がしただろうな」
「なにいってるの。けっきょく、最後はどの男も喜んでいたわよ。妻よりも恋人よりも婚約者よりもって!」
「その程度の男だろ。或いは嘘でも言わなければ酷い目に遭わされた、守るための嘘。おまえはその嘘を本気にしているだけ。おもちゃの宝石をもらって嬉しそうにしているだけだ」
なんですってと彼女の目つきが鋭くなる。
「エミリオだって、私に夢中になってくれたじゃない」
「若くて馬鹿だったからな。おまえは馬鹿な男じゃないと抱いてもらえない女だ」
「そうやって怒っているのは、綺麗な私のことを忘れられないからでしょ。私が烏丸を選んで結婚してしまったから致し方なく諦めてくれたのでしょう。それにいうほどあなたは女性とつきあっていない。私のことが忘れられないからでしょう」
「そうやって自分の都合の良いように書き替えて生きてきたから、こんなことになっている」
こんなこと? 彼女が首を傾げる。
「おまえが俺や俺の先輩に同僚、友人を弄んだあと、俺は決めた。絶対におまえも烏丸さんも敵わない場所に行ってやると。その後、航海任務が多い飛行隊へ異動願いを出した。その念願叶って、俺の二十代は海の上がほとんど。女なんて作ってる暇はない。航海任務での飛行実績を認められてマリンスワロー部隊に配属された。その後も技巧が認められ、ついにアグレッサーのサラマンダーに選ばれた」
「だから、それが私を忘れたい反動でしょ。素敵なエリートパイロットになれたじゃない。女だっていい女を選ぶべきよ」
「冗談じゃない。俺はいまや広報もされるアグレッサーのパイロットだ。おまえみたいな安い女に、アグレッサーまで上りつめた俺の上等のプライドを喰わせてやるもんか。俺の武器はクインというプライドだ。烏丸さんは俺から見たらなんの旨みもないただの准将だ。俺はあんたたちより格上の上官から必要とされるアグレッサーのパイロット、美しすぎるクインだ。それほどの俺は、もうおまえたちの自由にならない」
そこに気高いクインが現れて、そっと見守っていた藍子はじんと感動ししている。そう、エミリオの堂々とした強気、そして気高さ。それこそが彼が誰にも負けないプライド。たとえ准将であっても、その美しい妻であっても。彼以上に気高く美しいものはいない。凛々しいスーツ姿で海風にブロンドをそよがすその男は今夜はとても神々しい。
「随分な自信ね。でも上官に逆らうことなどできないくせに。だから私が協力してあげると言っているのよ。そのうえで、美しい男と女同士楽しめばいいじゃない」
「でも俺には、あんたは化け物みたいに醜く見えるから対象外だ」
また容赦ないエミリオの言葉に、ついに彼女の表情がほんとうに醜く歪んだ。
「あの女と、私と! どうみたって私の方が綺麗でしょ!!」
「どこが? 俺はおまえが綺麗とか素敵とかいうのものが全部醜く見える。おまえが欲しいとか言うものもまったく欲しいと思わない」
「あー、そうよね。エミリオは顔が綺麗なわりに、頭が堅くて、子供っぽい愛情がお好きだものね。そうそう、パパとママも大好き。いい大人がいつまでもパパママを気にしているなんてそっちが気持ち悪いわよ!」
それを聞いて、藍子は初めて腹が立った。そういう素朴な愛情を大事にしているから生真面目な彼であって、いつまでも両親を大事にしているから愛情深い男性なのに。
これで藍子もまったく彼女のことが気にならなくなる。あんな女性、結局エミリオには合わなかった女性。そしてエミルもわかっているから、もう忘れたい過去。決して気にしていたわけじゃない。彼にはもう必要のない存在になっているとわかったから。
それはエミリオも同じ。
「やっぱりおまえとは合わない。居られない。どこにもおまえの中で欲しいと思うものがひとつも見当たらない。俺の美しいと、おまえの美しいは違う」
「あっそう。いつまでもそこらへんの女で満足していたらいいのよ。レベル低いままね、あのパイロットの女みたいに!」
「焦ってんのか。俺の彼女が美しく清純で、女の力ひとつで自立しているから。ああ、しかも若い。引き締まった身体に綺麗な肌をしている」
それにも女が憤った。
「容姿でいつまで男を釣れるかだな。ずうっとそれだけがおまえの武器か。そろそろ考えた方がいいぞ」
パシリと乾いた音が渚に響いた。エミリオの頬を女が手のひらでひっぱたいていた。
「後で、後で、女性軽視だと訴えてやる!」
それでもエミリオは叩かれた頬を指先でなぞって、ますます瞳を輝かせにやりと笑っている。
「いいぞ。出るところ出ても。全部暴こうじゃないか」
「あんただってね。部署変えになって夫の部下になったら酷い目に遭うからね」
「そうやって隊員を脅してきたんだな」
「彼女だっていつも小笠原じゃないでしょう。気をつけなさいよ。いうことを聞く男はいっぱいいるの」
『あの女、許さねえ!』 海人が突然憤り立ち上がったので、藍子はびっくりしてまた引き留めようとした。
だけれど海人が柵の扉を開けて、階段を下りていく。さすがにエミリオと彼女が驚いて、会話を止めてしまった。
「海人。そこまでだ。戻ってこい」
藍子の後ろから低い声が響いた。
振り向くと、ライトベージュのスーツに水色のシャツ、眼鏡の男性が立っていた。
「御園、准将……」
藍子が驚いていると、御園准将は藍子にはにこりと優しい目を見せてくれる。
そのまま潮風にライトベージュのジャケットの裾をひるがえしながら、御園准将は渚に降りる階段の上に立った。
「海人、こっちに戻ってこい」
「でも、父さん、こいつ……」
「俺の仕事だ。邪魔をするな」
いつもは笑顔ばかりの御園准将が、海人にはちょっととぼけていたお父様だった御園准将が。凄味をきかせた声で息子を諫める。
その低い声が渚に響き、藍子も恐ろしくてそこに立ちつくすことしか出来なくなる。
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