48.あの日、ロックオン


 相棒の自宅から帰ってくると、気持ちよさそうに眠っていたエミリオもシャワーを浴びて起きていた。


 彼も今日はストライプのシャツにデニムパンツという気取らない普段着になり、キッチンで遅い朝食を準備している藍子のそばにやってくる。


「春の食材の後に届いたベーコンや根菜を海人に分けたでしょう。その食材で作ったんだって、味見したらすごく美味しいの」


 ミネストローネを温めている藍子の後ろに彼が立って、藍子の腰を後ろから抱きしめ、鍋を覗き込む。


「いい匂いだ」


「ねえ、本当にお父様によく仕込まれていること」


 海人を褒めたら、エミリオが藍子の耳に後ろからキスをしてくれる。


「藍子もだ。お父さんの愛情を感じる」


 父のことをいいながら、その娘にキスをするの……、藍子はちょっと気になるけれど、彼はむしろ藍子も美瑛の父も敬った上での愛情のキスに感じるからいやらしくなくて、なにも言えなくなる。


「こんな休日、こんなに満たされた朝は藍子のおかげだ」


 また後ろからきつく抱きしめられ、そのうえ、彼のほうがどこか哀愁のある声を含ませ藍子の黒髪に頬を埋めて離してくれない。


 最近、藍子はこんな彼を垣間見るようになった。


「それは……、私も一緒。でも、私は、初めてなの。恋人とこうして休日に朝を迎える日常というのはね」


 恋人にまで至らない、走り出しの交際ならいくつも。それは藍子にも原因があった。結局、祐也しか見えていなくて煮え切らなかった藍子の気持ちを男たちも見透かしていたのだろう。


「だから、なにもかも。エミルが初めて。私の官舎の自宅に泊まった男性もエミルが初めてだったんだからね」


 藍子を抱きしめたまま、藍子の黒髪に頬を寄せているままのエミリオは黙っている。


 どうしたのと藍子もちょっとだけ振り返ったが、彼は藍子の黒髪にひっついたままなにかを考えて黙っている。


「エミル?」


「でも。男は俺が初めてではなかったな」


 そこ、今更気にしているのかと藍子は眉をひそめた。


「それをエミルに説明するとしたら、エミルも教えてくれないと」


「俺は教えた」


 スープを温めていた藍子の手が止まる。彼の女性関係で知っていることはひとつだけ……。


「准将の、奥さん……ってこと?」


 彼がふっと藍子から離れてしまった。


「悪い。変な答え方したし、藍子に変なことを聞いた。ふざけすぎた。俺が珈琲の準備をする」


 藍子の自宅の道具を当たり前のように扱うようになった彼が、コーヒーメーカーの準備を始めた。横顔が、藍子がよく見てきた少佐の顔だった。


 でも藍子は、こんな時、彼は生真面目とかえって安心してしまう。


「私の初体験なんか聞いても聞かなくても一緒よ。なんか、素敵なものじゃなかったから」


「なんとか抜け出そうと、気持ちもないのに身体を投げ出した――だろ」


 藍子のいままでを良く見抜いていた大人の男だからこその予測に、藍子はぐうの音も出なかった。


「セックスが素敵だなんて嘘だと思ってたの」


 エミリオがメーカーをセットしながらお湯を沸かし始める。


「エミルが、初めて。セックスが素敵と思えたの……、だから初めて」


「知ってる」


 わかってるなら、なんでそんな女の初体験に触れるの、しかもいまの返答の仕方、意地悪な少佐だった時そのもので、藍子はちょっとむくれる。


 でも珈琲の粉を計量スプーンですくっているエミリオの表情が堅い。


「藍子の過去の男はどうでもいい。藍子がいままで独りで頑張ってきたことはよく知っている。その分、プライベートが質素で独りだったこともわかっている」


「なんで、そんな怖い顔をしているの」


「いや……、」


 気後れした顔になった。


 ああ、自分が藍子より大人で上官で男なのに、彼女に気遣わせるような変な話題運びをした失敗を悔いているのかなとやっと気がついた。


 藍子に昔の女のことを少しでも気にさせたこと、馬鹿だったと彼は思っている? そういうところ、本当に男らしいというか生真面目というか。


「エミルのお父さんて、きっとすっごく男らしい人なのね。岩国で言っていたじゃない。熊のDNAも何処かにあるはずだって。私も感じるよ、エミルのお父さんの愛情。歴史小説とかバイクとか、お父さんが理想でしょう」


 彼も、コーヒーフィルターに粉をいれていた手が止まった。


 きっとバイク屋を経営している大柄の熊お父さんも、男武士みたいな人に違いない。なんとなくエミリオからはそういう武士道的なものを感じる時がある。


 歴史小説とか男の経済小説という趣味を知って、初めてしっくりしてくるクインの日常。


「私、パーティーの前に。エミリオが警戒しているその女性のこと知っておきたいけれどダメ? 女として知りたいんじゃなくて、その、エミルの力にちょっとでもなれたらと思ってるの……」


 やっと彼がいつもの気品あるクインの佇まいになって、でも少佐の顔で藍子を見据えた。


「ありがとう藍子」


 エミルの顔で言われるより、少佐の顔で言われた違和感はあったものの。藍子もなんとなく察している。エミルがその女性に会うのは『少佐として重要』だと構えている気がしている。そうでなければ、御園准将がわざわざ夜遅くに訪ねてくるわけがない。


 あのあと、エミリオは御園准将がいる管理長室へ出向いたはず。そこでなにを話し合ったのか。


 湯が沸くとエミリオがコンロに戻ってくる。藍子もミネストローネをカフェオレボウルに注いだり、ロールパンを温めたり。


 いそいそとしていたら、またエミリオが藍子に抱きついてきた。


 ほんとうに藍子より背が高い彼はよく後ろから抱きしめてくれる。そして必ず黒髪にキスをしてくれる。


「俺も初めてだ。こんな幸せな朝は……。恋人と迎えるだけのことじゃない。こうして、温かいという意味だ。俺が藍子を気にしていただけじゃない、抱いただけじゃない。本当に藍子を気に入って、どうしても手に入れたいと思ったのは、岩国の藍子の自宅で過ごしてからだ」


 耳元でそう聞いて、藍子は驚いてそこから後ろにいる彼を見上げる。


「帰りの輸送機で、恋人のふりのまま終わるものかと決めていた」


「ほんとうに……、でも……」


 また自信のなさそう顔をしていたのか、後ろからそのまま彼が身をかがめて、藍子の唇を塞いだ。


「ん、エミル……」


 いつものちゅっと音がする、ついばむようなキスを数回。彼が離れると切なそうに藍子を見つめている。


「なにもないのに、抱き合っていないのに。あんなに明るくて温かくて幸せな朝は本当に初めてだった」


 岩国の官舎に泊まった翌朝のことをそう言ってくれる。


 ほんとうに恋人のふりで泊まった少佐だったから、ほんとうに男と女としてなにもなかった朝だったのに。


「無駄のないシンプルな部屋はきちんと片付いていて、キッチンには藍子の趣味がわかる食器が目についた。ほら、このカフェオレボウルもそうだ」


「これは、父が朝食でそうしていたから真似しただけで」


「そういうところに温かく育てられた生い立ちを感じるものなんだよ。それはとても安心させるものなんだ。あとコーヒーメーカーも本格的で、シーツは洗い立てだった。そういう生活から感じる安らぎを藍子は俺に与えていた」


「コーヒーメーカーは父の、お古で……。ベッドだって……少佐なのに、ソファーベッドだったのに?」


「快適だ充分だと俺は言ったはずだ。あそこで俺が初めて来た家で住んだこともない瀬戸内の官舎で、どれだけリラックスして、いつものような読書をしながら眠りを迎える夜を過ごせたと思っているんだ」


 そんな彼の習慣なんて、あの時、藍子は知らなかった。


「しかも翌朝、寝過ごした。瀬戸内の春の朝は優しくて、目が覚めたら藍子がキッチンに立っていた。ま、その間にちょっとしたハプニングはあったが。朝飯を一緒に作るリズムも、一緒に出掛けた時のペースも楽しみ方も、すごく好かったんだよ」


 だから、藍子。そういって彼が翠の目で藍子をじっと見つめている。


「そのあと、俺が恋人のふりをなかなかやめさせない方向にしたり、恋仲と言えと伝えたり、小笠原に来てすぐに会いに来たのも。藍子を思ってドレスを選んだのも、パートナーとしてパーティに誘ったのも本気だ。俺にも藍子にも過去はある。でも、俺の初めて満たされる気持ち、どうかわかってほしい」


 恋人のふりから始まったけれど、ふりで終わったかもしれないけれど。あの岩国での過ごしたひと晩と朝と宮島散策。それだけで藍子をこんなに愛してくれるようになったのだと、やっと通じた。


 あの時、男と女だからと安易に抱き合うような夜でなかったからこそ……。


 後ろから抱きしめてくれている彼の腕をそっとのけて、今度は藍子が彼に向きあう。そして藍子からエミリオに抱きついた。


「私も……、あの後、恋人のふりをやめなくちゃと覚悟していたのに。それが哀しくて寂しくて……」


「俺もだった。岩国で過ごしたあの時間を、これからもと思っていた。だからいま、俺は満たされている。もう離したくない」


 私も。また彼を見上げる。翠の瞳が熱く潤んで藍子を見つめてくれている。そっと目をつむると、彼にも通じて、また深くて熱いキスを繰り返してくれる。




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