46.雨の休日
しとしとと優しい雨の音。
こなれたベルガモットの香りも。
ふと藍子が目を覚ますと、いつもより薄暗い朝で、その日は雨降りだと気がつく。
すぐ隣に熱い皮膚の感触、そっと横へと寝返ると、目の前には逞しい男の背中。
すやすやと眠り、安らかそうに寝息でうごく背中に、藍子はそっとキスをする。
小笠原基地に転属してきて半月が経った。
演習も順調、来月にはシフト業務に移行。
新しい業務が落ち着いてからと、距離を保とうとしたのに。
肌を合わせてしまうと、愛しあってしまうと、離れがたい。
藍子とエミリオは、夜はどちらかの家に通うことが増えた。
休日だからと、彼が泊まりに来た。
昨夜も一緒に食事を作って、ふたりで穏やかな食卓を楽しんだ。
彼は静かで、空いた時間はタブレットを眺めているか、持ち込んできた文庫本を読んでいることが多い。
藍子のベッド、彼のために用意した枕のそばにその読みかけの文庫がある。
背中にキスをしても目覚めなかったので、藍子だけそっと起きあがる。
藍子もなにも身につけていない裸のままだった。少しべたついているのは、小笠原が湿気の多い初夏で、雨模様のせい……、だけじゃなくて、昨夜も彼と夜遅くまで睦み合っていたから。
睦み合っていたなんて、優しい表現かな。藍子はふとべたついた身体を見下ろして思い返す。
アグレッサーパイロットの逞しい男の身体、彼の身体の上にいた藍子は、彼の緑の目を見下ろしていた。
藍子、凄いな。
言葉が続かない彼を見下ろして、藍子は生意気にも、ここでこのうえなく満たされる。
空ではいつも彼にやられっぱなし、彼は遠くに行ってしまう。いま私は彼を捕まえている、そんな彼の、藍子だけの顔。藍子だけに夢中になってくれるこのひととき。
藍子をこんなにするのには『媚薬』の匂いがそうもさせていた。
彼と愛し合う時、いつも彼がそれが始まりとばかりに、藍子の臍のあたりと、脈打つ乳房の横にトワレをつけるようになった。
フレッシュなトップノートは、キスをしている間にミドルノートに変わる。彼は『俺の匂いとすこし違う』という。その香りを追うように、彼が、藍子の身体にキスをするのもお決まりになってきた。
その香りがベッドに充満すると、藍子は妙にセクシャルな気持ちになる。きっと愛している男の、ずっと前から惹かれていた匂いにつつまれて、まるで男に抱かれている気持ちになってしまうからだ。
大人の愛し合い方ができるようになった気がする。やわらかい雨音の中、藍子はふとそう感じている。
彼の隣で、ひとり起きあがった藍子は、まだ眠っている彼を見下ろして微笑む。
枕元に置いてあったスマートフォンから通知音。確認すると海人だった。
【おはようございます。まだお休み中ですか。ミネストローネを作りました。いっぱい作ったので、よろしかったらいかがですか。お持ち帰りで準備できますよ。すぐにではなくて大丈夫です。お時間が出来た時にでも】
休日の朝からきちんと自分で食事の準備をしていた。
きっと海人もエミリオが泊まりに来ていることを、なんとなく察して『分けるつもりでいっぱい作った』気がしてしまった。
一時間後に取りに行きます――と返信をする。
「誰だ。俺と藍子の朝を邪魔するのは。男か」
隣でひとり起きあがって、裸でスマートフォンを触っていた藍子の腰に、エミリオが抱きついていた。
「もう、海人だから。ミネストローネを作ったから分けてくれるって」
「へえ、美味そうだな」
「シャワー浴びて、取りに行ってくるね。私たちの朝ご飯にいただきましょう」
ベッドの香りも変わっている。トワレの残り香は柔らかく、ラストノートの香りが立ちこめていた。
シャワーを浴びて、休日のスタイルでデニムパンツに白いシャツを羽織ったシンプルな出で立ちに整える。
リビングで鍵を手にとって出掛けようとする時、自分のベッドルームを覗くと、エミリオはまた裸のまますやすやと眠っている。
休日の彼は普段のきちんとしたクインとは異なって、本当に勝手気ままなエミルといったふうでのんびりしている。
近頃では、藍子の部屋に彼の部屋着に下着に文庫本が増えた。
雨の朝は特にのんびりした空気、藍子も彼をそっとして傘をさして、相棒の自宅へ向かう。
彼は読書家だった。エミルの自宅、ベッドルームではないもう一つの部屋の大きく広い本棚には本がびっしり収納されていた。
お互いの自宅に通うのが始まった頃、彼が文庫本を持ち込んできた時に、藍子は聞いてみたことがある。
『それ、岩国の官舎でも読んでいたものでしょう』
『ああ、読みかけだ。もう何ヶ月も、なかなか進まない」
どんなタイトルなのとカバーを外してもらうと、経済社会の中で互いの業界を生き抜き、己の業界をなんとか他の業種とバランスを取って保とうとする男の世界を描いた物語だった。
『え、少佐らしい』
どんな世界でも男は自分を駆使して生きていくものだ。彼ならそう言いそうなイメージであって、彼の空を飛ぶ仕事にもアグレッサーの使命にも通ずる気がした。
『そういえば、エミルの家、奥の部屋に本棚があったわね』
『ああ、あれな。小学生の頃から読んできたものは全てそこにとっておいてある』
『すごい、読書家だったのね』
『父が歴史小説が好きなんだよ。難しくて良くわからなかったけれど、男の世界はドキドキしたもんだよ』
すっごく凄くいまの彼に通ずると思ってしまった。
日常の彼を知るたびに、彼が近くになる。
遠く感じているクインはそのままで、でもエミルは私のそばにいるという実感が少しずつ増えてきている。
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