41.空より遠くて


 相棒と恋人と楽しいひとときを過ごす。


 すっかり暗くなった夜空の下、海人の家をエミリオ少佐と一緒に出た。


 帰り道も同じ方向で、でもすぐそこにある藍子の自宅へと彼が一緒に歩いてくれる。


「美味かったし、楽しかった。あの紅茶も美味かったな」


「ほんと。あんな美味しい紅茶を飲んじゃったら、あれしか飲めなくなっちゃう」


 高級茶葉の香りは素晴らしいものだった。


「じゃあ、今度は俺の家にも置いておくことにしよう。あ、藍子の家にもな」


 これからお互いの自宅に通うことになるだろうから、そういう意味だとわかって、藍子もつい嬉しくて微笑んでいた。


 藍子の自宅には、すぐに辿り着いてしまう。


「じゃあ、またな」


「はい。お疲れ様でした」


 あっさりと帰ろうとしている彼を、藍子も笑顔で見送ろうとした。


 なのに、そこで戸塚少佐は、寂しそうに藍子を見ている。そんな顔は初めてだった。


「少佐?」


「いや、なんでもない」


 それでも藍子を見ている。そんな顔を見せられると藍子も切なくなる。


「珈琲を淹れましょうか」


「いや……」


 彼が葛藤しているのだとわかった。


「一杯ぐらい、いいじゃないですか。デカフェもありますよ。明日の訓練に差し支えません」


 そして藍子も言ってみる。


「誘うの、エミリオさんだからですよ」


「エミリオ、さんって。エミリオと言えよ」


「まだ、言えない。まだ、しっくりしなくて信じられなくて。でも、もう言い聞かせなくていいんですよね」


 そんなことを言う藍子を見て、帰ろうとしていた彼がそっと抱きしめてくれる。


 いつもの彼の匂いを藍子も吸い込む。いままでは『恋人のふり』で抱きしめてくれていたのだろうけれど、いまはきっとそうではない、藍子のことを思って抱いてくれている。


 そう思うと藍子もその胸に素直に頬を寄せたくなる。この匂いに包まれていたいと思う。


 いつものように彼が静かに藍子の黒髪を撫でてくれる。


「これでもな、我慢しているんだ」


 その意味が藍子には通じる。


「藍子の道の邪魔をしたくない」


 やっとの思いで新部隊に配属されたばかり。色恋で藍子のペースを乱したくないという気持ちもわかっている。


「私も怖い。だって……、あなたは、私には本当に遠い人だったの。私も空を飛んでいるのに、あなたはもっともっと上に飛んでいくの。追いつかないところにすぐに行ってしまう。地上でもあなたは大人でサラマンダーで近づけない人だったんだもの」


 空より遠い人。遠くて愛するなんて想像も出来ない人だった。藍子がそういうと、彼がそれを否定するように藍子をもっと抱き寄せた。


「そんな人とわかっていたけど、そんな素敵な人に愛されたら、私……、どうなるかわからない。そんなに愛されたことも愛したいと思ったこともないから」


「俺を、そんなに愛したいと思ってくれているのか」


 初めてだからわからないと藍子は小さく呟いて首を振る。


 その藍子の黒髪の頭を、彼はもっと強く抱き寄せてくれる。


「藍子は知らないからな」


 なにを? 男の胸元から藍子は彼を見上げた。翠の目が藍子をじっと見つめてくれる。


「私がなにを知らないのですか」


 彼がふっと静かに笑った。何かを思い出すようにそっと眼差しを伏せて。


「俺に嘘なんかひとつもない。藍子を抱いた夜から全部、本気だ」


 そういって彼が藍子の黒髪をまた撫でる。藍子は驚きで固まっていた。そして急に身体が熱くなってくる感覚もある。


「俺が、いままで藍子に伝えた『嘘だと思っていた』言葉を思い出してくれ。いつ本気になってもいい気持ちでいた」


 彼の胸元で藍子はあの夜からのエミリオをずっと思い返す。もの凄い速さで思い出している。そして思いついた言葉もいっぱいあって、そのどれもきちんと覚えている。


 そのどれもが。恋人のふりといいながら、藍子はそれを囁く彼にどきりとしたものばかり。


 私なんか……。そう言おうとして、藍子はその言葉を飲み込んだ。藍子はもっと強い男を望むべき。彼の真剣な眼差しも藍子に刻まれている。


「ほら。そうしてまた自信のない顔をして、藍子こそ、遠くに行ってしまう。藍子は俺にも誰にも近づかせない独りきりの世界にいる。俺は入れなかった、いままで。意地悪いことを言って、やっと藍子が俺の顔を見る。睨んだ顔だったけどな」


 彼が笑う。でも、その通りだった。そうでなければ、藍子は美しすぎるアグレッサーパイロットなんて遠い人とかえって最初から諦めて見ることもなかったはず。


 祐也という男とふたりの世界にしがみついていたのは、藍子が勝手に自分を孤独にしていた。初めてそう感じた。


 自分から強く外のなにもかもを遮断していた? 遠いのはお互い様。見えるのに違う世界にいるふたり。


 でもいま目の前には、その異なる空と世界を結ぶ接点が生まれている。


 またそうしてうつむいている藍子にエミリオが耳元で囁く。


「やはり愛しあわないといけないな」


 再度、あの言葉を彼が言う。


「俺の家だ」


 藍子の手を握って、彼が藍子の自宅前から引っ張り出す。


「少佐」


「藍子の家はまた今度な。愛しあう準備が出来てからだ」


 その意味がわかって、だから俺の家は既にその準備が出来ているということらしい。


「でも。私……、ピル飲んでるから」


 藍子の手を握ってひっぱっていた彼も驚いた顔で立ち止まった。


「だからなんだ。そんなことで女性の身体に甘えたくない。藍子の身体は空を護るためのパイロットとしての使命を負っている」


 だからきちんと男として責任は持つと言いたいらしい。


「それに男に容易く服用していることを言うな。安心して甘える男は絶対にいる」


「誰にも言ったことありません。私のお守りだから。だからこの前の夜も言わなかったでしょう」


 少佐もやっと気がついた顔をした。


「だから、俺に……、ついてきたのか」


「少佐はちゃんとしてくれた。それに……、男の人に伝えるのはエミリオが初めて。誰にも言ったことはないから」


 気後れして伝えると、それにも少佐が一瞬、茫然としていた。


 それがあなたを、エミリオを信じているから伝えたこと。


「なおさら、俺の家だ。あの夜は俺たちはまだ恋人ではなかった」


 俺の家から始める。そういって、彼に連れて行かれる。




 ―◆・◆・◆・◆・◆―




 恥じらいがなくなると、本物の男と女になれる。

 藍子は初めてそう思えた。


 二度目の彼の家。玄関に入るなり、エミリオが抱きついてきて藍子の唇を塞いだ。


 でも、もう藍子もされるだけじゃない。彼の背に抱きついて、一緒にそのキスを貪った。


「しょ、少佐――」

「エミリオだ。少佐と呼ぶな」


 でも――とキスをされながら、藍子は戸惑う。

 それでも、彼が藍子の耳元で囁く。


「エミルかミミルだ、両親に友人、仕事仲間もそう呼ぶ」


 彼の手が藍子の黒いネクタイをほどく、藍子も彼の夏制服のシャツのボタンを外す。


 お互いの素肌をさぐって、脱いで、すぐそこにあるシャワー室へと向かった。

 熱い湯を一緒に被りながら、シャワーの飛沫の中でもずっとキスをしていた。



 潮騒が聞こえるベッドルームに入ると、すぐにベッドの上で身体を重ねる。


 濡れ髪のまま寝そべった藍子の身体を、このまえのように上からひとつひとつキスをして愛してくれても、今夜の少佐の息づかいが荒くて、ゆっくりではない。


「エミル……」


 ふとそう呟いていた。自分でも自然に出てびっくりして覆い被さってきた彼を見つめると、とても嬉しそうに微笑んでいる。


「そっちを選んでくれたんだな」


 濡れた黒髪をかき分けた額に彼が優しいキスをしてくれる。


「エミル、キスして」


 私の唇に、そう望んだのに、キスをしたのは藍子からだった。


「藍子、アイ……」


 彼女からの熱愛に彼の身体の力が抜けて、藍子に重くのしかかっていた。その逞しいパイロットの肩を藍子も両手いっぱいに抱き寄せる。


 藍子のなにもかもをひとつにして、なにもかもがとけていく。



 サラマンダーの男に抱きついても、藍子の身体は白くて細く見える。自分がしなやかで綺麗な女性に思えてくる。


 自分の欲しいまま、自身を認めて、なにもかもを開放して。彼のためだけに。


 心も身体の奥も、彼を愛する気持ちも、なにもかもが熱く溶けていく。


 今日の彼を感じて思う。この前の彼も熱く愛してくれたけれど、今夜は違う。こんな男の余裕をなくして荒々しくなるなんて、でも、そのほうがとても男らしいだなんて。これが本当の彼。クインじゃなくて、エミルという男。藍子だけが知る男。


 トワレは彼をクインという上品な男にしていたカモフラージュ。香りを飛ばした彼の匂いはつんとした生々しい体臭だった。


 その体臭が嫌じゃないなんて。きっと藍子はこれからも女として男を欲する時、きっとこの匂いを欲しがる。そしてきっと一人しかいない。この人しか。

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