35.さよなら、岩国


《こちらIWK管制。ジェイブルー556 上空障害なし、離陸許可》


「こちらジェイブルー556、ラジャー」



 海人との調整も最終段階、既に通常業務のシフトに入ってフライトをこなしていた。


 ついに来週、藍子は小笠原総合基地 空部隊内にあるジェイブルー900隊へと異動する。


 桜も散り、葉桜になりはじめ春本番。


「うわ、瀬戸内が真っ白だ」


 後部座席にいる海人が上空から見下ろす瀬戸内海を見て驚いている。


「この時期、瀬戸内は霧がよく発生するのよ」


「なんだよ。そろそろ見納めだろうから、上空から見える宮島としまなみ海道を目に焼き付けておこうと思ったのに」


 外から来た者はやっぱり宮島のこと言うんだなあと藍子は酸素マスクをしている状態でふと頬を緩めてしまう。


 その日はあまり良い天候ではなく、それは対国も同じなのか、管制から早々に帰投する指令が出た。


 予定より早く藍子は機体の降下をはじめた。




 地上に戻って、少し遅いランチタイムとなる。


 海人と一緒に昼食を取ることも恒例となってきた。


「ほうら、またスマホ。休憩時間はまずスマホ。ほんとにもう見せつけてくれるなあ」


 海人が呆れるのをわかっていても、藍子は休憩になるとすぐにスマートフォンを確認してしまう。


 あるある。今日の彼も空き時間にメッセージを送信してくれている。


【 そっちも天気が悪そうだな。こっちは演習がひとつ中止になった 】


 くすんだ珊瑚礁の海の画像が貼られていた。


 天気が悪いとこんな色になるんだと藍子も眺める。


「あ~、その海の色は二、三日は雨風で荒れそうですね」


「え、わかるの。さすが島出身」


「それより藍子さん。少佐との馴れ初めをそろそろ教えてくださいよー」


 そこ突っ込まれるとすごく困る部分だった。


 藍子は『ナイショ』と背を向けて、こっそりとスマートフォンを確認する。


【 もうすぐだな。待ち遠しいよ。藍子が住む家も確認した。わりと近かった。またポトフを食べさせてくれ。俺もなにか作ってご馳走しよう 】


 えー、少佐の手料理ってなんだろう。思わず心が浮かれてしまう。


 そしてその後に必ずやってくる痛み。どんなに浮かれたってこの関係もいつか終わるのだということ。


 やめよう。気にしないでおこう。ただの先輩後輩でもいいじゃない。小笠原に行ったら嘘の関係を清算して、戸塚少佐をフリーに戻して、また彼のためのお付き合いができるようにして。すぐに別れたんだと囁かれる噂を多少は我慢して、パイロットの先輩後輩として距離あるお付き合いを続ければいいんだから。藍子は言い聞かせる。


「なんでそんな泣きそうな顔になるんですか」


 しっかり海人に見られていて、藍子はどきりとする。


「え、ちょっと寂しかっただけ」


「もうすぐ毎日一緒でしょ。ご近所だしお互いの家に通えるじゃないですか」


 そうだけど……。藍子は口ごもる。


 まずい。海人と一緒にいるとそのうちばれると藍子は案じる。この子、感が良さそうで、大人のやること見透かしていることも多々あるから。


「准尉、海曹、ご一緒にいいですか」


「お疲れ様です」


 先日、藍子の家に来てくれた彼女たちだった。


 彼女たちもランチタイムでカフェテリアにきたばかりのようで、ちょうど藍子と海人がいるのを見つけたようだった。


 海人も快くどうぞと彼女たちを促す。藍子も招き入れた。


「藍子さん、先日は楽しかったです」


「お二人のお料理もほんっとうにおいしかった。ありがとうございました」


 食事が出来あがったところで祐也が尋ねてきて、いざこざしたままの別離になってしまい、その後の雰囲気を藍子も心配した。しかし、なんとか楽しい食事会で締めくくることが出来てほっとしていた。


 それもこれも、涙に濡れたままリビングに藍子が戻ってきても、彼女たちや海人の若い三人の明るさと、岩長少佐が大人として上手に皆が夢中になる話題を提供してくれたからだった。


 藍子も最後はハイボールを飲みながら笑っていた。嘘みたいに。


 そんな彼女たちを見て、藍子は改めて伝える。


「あの日は本当にありがとう。あなたたちが居てくれてほんとに良かった」


 しみじみと伝えると、彼女たちが海人と目を合わせちょっとうつむいた。


「あの、藍子さん。大変でしたね。いままで」


 やっぱり若い女の子たちも薄々わかっていたことだったのかなと、藍子は苦笑いをこぼしてしまう。


「いいの。斉藤とは浜松の航空訓練生の時から一緒だったから、余計にこじれただけ。だいたいの任期が三年単位なのに、五年も一緒に乗っていたからね。おたがいの生活環境も変わってくる年代だったから、これが潮時だったの」


「そうですね。斉藤准尉が結婚してから少しずつ変わってきた印象があります」


 きっと、いままでは女の子同士の雑談として水面下で噂はされてきたのだろう。


 誰もがなんとなく知っていて、遠巻きにしていて、話題にするけど知らぬふり、大袈裟な騒ぎにしないよう気を払って内輪の話題に留めていたのだと藍子は感じている。


「でも。私の同期生がここの基地の隊員と結婚して、あの官舎に一年前まで住んでいたんですけれど、やっぱりそういう……口悪い井戸端会議が酷かったらしいですよ。年配の奥様たちが注意しても、煙たがるだけで直らなくて。彼女はまだ子供がいなかったので、それとなく避けて通れていたようなんですけれど、あの官舎で子供が出来て一緒にママ友として付き合うようになっていたら気が気じゃなかった。離れて良かったと常々言っていたんです。その彼女が、藍子さんのことも心配していたんですけれど……。私たちから河原田中佐にこんな私生活のこと言えなくて……」


「早く言えば良くなったんでしょうか」


 女の子ふたり、わかっていたけれどなにも出来なかったと藍子の目の前で悔いている。


「そんなことないから。気にしないで。たぶん他の誰かが、それも複数人、河原田中佐に少しずつ伝えていたみたいだから、きっと誰の目にもそう見えていたんだと思う」


「そうだよ。気にするな。いつかはこうなっていたはずで、それが今回、ついに表面化したんだから」


「斉藤准尉、官舎を引っ越されるみたいですね」


「奥様のご実家から通勤されるとか」


 広島市内から少し時間がかかるが遠いわけでもない。祐也はしばらく車か交通機関で通勤して地上勤務をするらしい。


「もう飛べないのではないかと聞いているんです」


 それは藍子も他のジェイブルーパイロットから聞かされていた。


 妻が落ち着くまではもう相棒と組むような任務はさせてもらえないとか。落ち着いてもブランクが出来てもう飛べないのではないかとか。


 最高だと信頼していた男がそうなるのは、藍子も辛い。後味も悪い。


「来週から事務室に復帰するみたいですよ」


「藍子さんたちが、この岩国基地から小笠原に異動した後になるみたいです」


 つまり。もう顔を合わせない方向性でスケジュールが組まれているということらしい。


 藍子が黙ってしまい、食も進まなくなったことに気がついた海人が口火を切った。


「そりゃそうだ。あんな藍子さんを脅すみたいに押しかけてきてさ。ガンさんが上官として叱責しても逃げちゃったんだから。上官にあんな態度をとったら会えないでしょう。ガンさんが許しても」


 その通りで、その空気をそばに感じていた彼女たちもうつむいてしまった。


「せっかく仲良くなったから連絡先、教えて。小笠原にも遊びにきて。マリンスポーツもできるから」


 海人が彼女たちにスマートフォンをちらつかせて連絡交換を持ちかける。


 若いっていいなあ、それともそれもお日様君の成せるワザか、藍子は目を瞠る。海人がさらっと言いだしたので、彼女たちもちょっと戸惑っている。


「え、でも、私たちはただの事務官だし」


「ねえ……」


 誘ってくれたのもたまたま、これから司令少将と准将の息子となにが起きるわけでもない。彼女たちはジュニアに期待しても、きっとこの場限りの関係を悟っている顔だと藍子は感じる。


「でもさ、俺と繋がっていて損はないと思うよ~。それに俺もね、ずっと島にいて両親の人間関係だけに囲まれた生活をしてきたから、自分で出会ったものは小さなことでも持っておきたいんだよね」


 彼女たちが顔を見合わせる。そして自分たちのスマートフォンを笑顔で海人に差し向けて、イマドキの連絡先交換。


 岩国で勤務した記念。その程度でも後にどんな関係になるかはわからない。海人のそんなオープンな性格にフランクなところは彼の持ち味で、きっとこれからもこうして愛されていくのだろうなと藍子もそっと微笑んだ。


 ランチが終わって、海人がスマートフォンを眺めている。


「人のこと言えないでしょ。海人もずっと見てる」


「岩国でもいっぱい連絡先交換を出来たなーと思って。これで岩国情報網も完備だな」


「なに。そういう目的だったわけ?」


「もちろん、親善もありますよ!」


 ここで親善とかいう堅い言葉使うかと藍子はツッコミながらも、ああやっぱりこの子は侮れない子だったと再確認した。


「さて。俺とガンさんも千歳に帰って移転の準備をしますね。藍子さん、待っていてくださいよ」


「うん。ひと足先に行くけれど、待ってるね」


 藍子と海人の独り暮らし平屋は同じ通りにあって数軒先のご近所同士。


「あ、でも……。やっぱりお父様とお母様にご挨拶は必要だよね。ご自宅にいったほうがいいよね」


 まさか連隊長室まで出向いては、母と父と息子という関係は見せにくいだろうと気遣ってのことだった。


「いやー、挨拶なんてきっと必要ないですよぅ」


「そういうわけにはいかないでしょう。あんまり言いたくないけど、海人は連隊長の息子で、機密データ管理長、准将の息子でもあるんだよ」


「必要ないない。こっちから近づかないほうがいいですよ」


 どういうこと? 藍子が首を捻っても海人は教えてくれない。


「またポトフご馳走してくださいね。今度は俺もご馳走しますから」


 相棒男子までクインさんとおなじことを言ってくれて、藍子はギョッとした。


 でもなんだか。これこそ相棒かなと、藍子もやっと笑顔になれた。






 その数日後、藍子は岩国のジェイブルー部隊の上官、先輩、後輩の面々に見送られる。


 海人と一緒に食事をした彼女たちが率先して女子一同として花束や女性らしい餞別をくれた。


 岩長少佐と海人もいったん千歳に戻り、彼らも移転の支度に取りかかる。


『藍子さんより後に行きますけど、待っていてくださいよ』


『では、藍子。小笠原で』


 コバルトブルーのフライトスーツ姿で二人が敬礼をして、ジェイブルー556に搭乗し、ガンズさんの操縦で千歳基地に帰っていった。


 藍子はひとりで官舎の引っ越しの日を迎える。


 がらんとした岩国基地の日本人官舎、藍子が社会人として初めての独り暮らしをした住まいを振り返る。


 開けている窓の向こうは春の瀬戸内海。うすい水色の水彩画のようなこの景色ともお別れ。




 やはり、祐也の姿を見ることはなかった。



―◆・◆・◆・◆・◆―



 小笠原に到着して数日。荷物が届くまでは寄宿舎で待機、その間に転属の手続きをする。


 ようやく岩国から荷物が島便で届いて、藍子はいよいよ海辺の新居に入った。


 戸塚少佐の自宅と同じ造りで、設計はアメリカ寄り。まるで映画に出てくるような内装だった。


 持ってきた家具も少なかったが、さすがアメリカ式。本棚や戸棚などの収納は最初から設置されていて、点々と移転が多い軍人のための設計のようだった。


 それを海人から聞いていたので、持ってきた家具はダイニングテーブルとソファーセット、ベッドぐらい。後は段ボールの荷物、その荷ほどきを始める。


 新部隊ジェイブルー900隊の集合は四日後、それまでに家の中を整える。


 荷ほどきをしていると、玄関からチャイムの音。藍子が玄関のドアを開けると、そこにはブロンドの男が立っている。


「ようこそ小笠原に」


「戸塚少佐」


「これ引越祝いな」


 ラッピングされた鉢植えのグリーンを渡してくれる。小脇にはリボンがかかった大きめの箱を抱えていたが、それはそのまま彼の手に残った。


「ただの異動なのに。ありがとうございます」


「ただの異動? いろいろ大変だっただろ」


 見慣れた大人の微笑みがそこにあって、藍子は思わずときめいてしまった。


「なにか手伝うことはあるか」


「私の部屋を見ましたでしょう。物は少なくしてありますから」


 そうだったなと彼がまた笑う。


「あの、先日は、気を利かせてくださってありがとうございました」


 【恋仲と言え】なんて高圧的なメッセージだったが、あれが藍子をどれだけ助けてくれたことか。


「斉藤とは修復ができませんでしたが、ここまでこられたのは戸塚少佐のおかげです」


「そう思うなら。あの珈琲をもう一度、飲ませろ。藍子が淹れたほうが美味かった」


 また上官口調で飲ませろなんて威圧的で、藍子は唖然とする。でもその後の美味しかったは『エミリオ』という男性の希望に聞こえて、藍子は思わず微笑んでしまう。


「どうぞ。珈琲ならもう飲めますよ」


「よし。待っていたぞ。同じ豆をもらったのに、どうしてか藍子のが美味かった。淹れ方も教えろ」


「もう、強引なの相変わらずですね」


 海辺の平屋にエミリオ少佐があがる。


 リビングへ向かう板張りの廊下で、藍子が先に行こうとしたら彼が呼び止めた。


「藍子。これも、俺から」


 先ほどのリボンがついた箱だった。それも引越祝いかと藍子はすんなり受け取ってしまう。


「なんでしょう。食器ですか、うん? タオルでしょうか」


 でも軽い? 予想がつかなくて箱を振っていると、戸塚少佐がまた意味深で余裕の笑みを見せている。


「ドレスだ」


「え! ど、どうして!」


「俺とパーティーに行くんだ。パートナーなんだから当たり前だろ」


 え、え。ちょっと待って? 引っ越してきて、久しぶりに会ったらいきなりそれ?


 もう唐突すぎて藍子はたたずむだけ。


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