34.いつか笑顔で話せるまで
賑やかな自宅でのホームパーティー中、いつの間にか姿を見なくなってしまった元相棒が突然訪ねてきて、そのやつれた様子の彼に、藍子は口を開く。
「里奈さんのご実家に帰っていると聞いていたんだけれど。私に会いに来ていいの」
「それもあって。今しか会えない。だから開けてくれ」
「ごめん。お客様なの」
リビングの奥から賑やかな声が聞こえてきた。女の子と海人がわいわい言いながら、あつあつのグラタンをオーブンから出している声が、背後から聞こえてくる。
いままでそんなことが一度もなかった藍子の自宅の賑わいを、祐也が信じられない様子で奥を見つめている。
「賑やかだな」
「海人と少佐と、事務室の女の子が来てる」
「少佐まで……。ずいぶん気に入られたんだな」
藍子は受け流すように黙った。
「俺だって。おまえとこんなふうにやりたかったよ」
それにも藍子は答えない。なにもかもが遅すぎる。
新しい相棒の新人君を喜んで連れていったという祐也の話を聞いて、彼にもその気持ちがあったことは藍子にもわかっている。
妻に相棒を受け入れてもらって、相棒とも末永く付き合っていく。そういう祐也と藍子の理想の未来はもう取り戻せない。得られない。
「謝りたかったんだ。里奈よりおまえが大人だと甘えていたことも、俺も同期生だとなんでも許してくれると思っていた甘えに」
「同じだよ。私も祐也によりかかって甘えていた。パイロットという職業が一緒だから、女でも許してもらえると思っていた。それに祐也以外のパイロットと組むのが怖かった」
「俺もだ。初めて他のパイロットと飛んで、ものすごくイライラした。藍子ならこうしてくれる、藍子なら出来ることを何故出来ないと。わかっている。上官で先輩の俺が、彼をリードしていく実力がなかったんだ。これからは、そうして新人を育てていく力をつけなくてはいけないのかもしれない」
『そうだね』、藍子もそう思う。ただ、祐也と違うのは、しっかり仕込まれた勘の良いジュニアと縁があったことだった。藍子は海人にイライラしたことはない。すんなりと他のパイロットを受け入れられた。その違いが今回は余計に浮き彫りにされていく。
「里奈は、心療内科に母親と通わせることにしたよ。精神的にすごく疲れている。もっともっと、あの人にもこの人よりも、いい女で妻で母でなくちゃいけないという考えに縛られているらしい」
「私のせいだね……」
「いや、里奈が敵視していたのは藍子だけじゃなかったさ。仲の良い奥さんに、俺と同じ階級の夫がいるママ友さん。全部だ。家に帰ったらそんな話ばかりだった。聞いてやるのが俺には精一杯で、俺が守っているようで、守っていなかった。社会で生きていくことをもっと本気で伝えるべきだった。社会経験もないまま結婚してしまったからな」
「まだ若いじゃない、里奈さんはこれからだよ」
祐也がそこで黙った。
藍子は彼の言葉をじっと待つ。
「官舎を出て、里奈の実家で同居することになった。しかも相棒もいないため、当分は地上勤務だってさ」
それにも藍子は驚いて、目を見開く。
「マスオさんてやつだよ。そういう家族での話し合いに、すごくごたごたしてな。それで休んでいた」
「里奈さんはそれで納得しているの?」
「里奈。父親にすごく怒られてな。滅多に怒らないご両親が、自分の思い通りにならないからと人に迷惑をかけるもんじゃないとね。パイロットの俺が地上勤務になったこと、親父さんもショックを受けたみたいでさ。すげえ自慢してくれていたんだよ、婿が防衛パイロットだって。まさか娘が夫を助けるつもりでやったことが仇になったと知って、これも二重にショックだったみたいだ。そこまでやった娘の心を落ち着けるために心療内科に行って、里奈の家でやり直すことにしたよ。しばらくはお母さんのお目付でな」
「そう……。二人でもう一度進む気持ちになれたのなら安心した」
「うちの両親も俺のキャリアアップの道がなくなったこと、藍子だけが選ばれたことを知って、どうして一緒に行けなかったのかと訝しんでいる」
祐也のおおらかなご両親の笑顔を藍子も思い出してしまう。
「父も母も、藍子に、気をつけて任務に励むよう伝えてくれと言われた」
それを聞いて藍子はやっと涙が滲んできた。腐れ縁の相棒のご両親とも親しくしていた時期があったから。
祐也の母親のほうは、そのうちに藍子と結婚できたらいいのにと仄めかすこともあった。でも息子はまったくその気がなくて、女性とのご縁がないと嘆いていたら、女子大生とのコンパで出会った若い子を、突然連れてきたので驚いたと言っていたことを思い出す。
「お父様とお母様にもよろしく伝えて。優しくしてくれて嬉しかったって」
「おまえも、美瑛の親父さんにお母さん、ルリちゃんにもよろしく伝えてくれよな。藍子の父ちゃんの手料理。もう一度、食べたかったよ」
ベーコンあるよ。そう言いそうになって藍子は言葉を飲む。もう藍子の存在がわかるものを持って帰らせてはいけない。これから祐也は里奈と二人で生きていくのだから。
きっとこれが最後の別れだ。きっと二度と会わない。任務で共になる以外はきっと。
そうしてお互いに黙っていると、背後からリビングへの扉が開いた音が聞こえた。
「藍子さん、冷めちゃいますよ」
海人だった。制服姿で出てきた。
『こら、海人。そっとしておきなさい』
岩長少佐の声も。それを聞いて、海人が素直に扉を閉めて消えてしまった。
それをほんのちょっとの隙間から見た祐也が笑った。
「俺にとられそうな顔していたじゃないか。あんなに生意気な顔で基地にいるくせに。あんな心配そうな顔」
藍子もそう思った。いつも余裕のお坊っちゃんが垣間見せた、若い素顔だと感じてしまった。
その途端だった。祐也が開かないとわかっているのに、急にドアノブを掴んでガンとひっぱった。
「藍子、断れ。いまなら間に合う。やっぱり俺じゃなければ飛べないと言え!」
「ゆ、祐也……!」
びっくりして藍子も内側のドアノブを掴んで思わず閉めようとする。
「戸塚少佐とは離れてもつき合えるだろ。でもパイロットは俺だけだろ。そうだろ。まだ間に合う!!」
チェーンが伸びたり縮んだり、ガチャガチャと激しく音がした。
「やめて、もう決まったことじゃない。里奈さんのことをいちばんに考えてあげて!」
チェーンがガチンと伸びきって男の力で引きちぎられそうに見えて藍子は怯えた。
でも藍子は意を決して言い放つ。
「私の相棒はもう海人なの。海人がいい。海人以外とはもう飛びたくない!」
もう戻れない。新しい相棒から新しい空を見てしまったから。心が淀んで澱が舞い上がるばかりだった祐也との空はもう透き通らない。
「なんで、あいつなんだ! 御園のジュニアだからだろう! まだジェイブルーは二年ほどのガキだろ!」
「違う! 海人には勘がある。感性もある。私は安心して飛んでいる」
「やめなさい! なにをしている」
はっとして振り返ると、制服姿の岩長少佐が恐ろしい形相で立っていた。
「藍子、どきなさい」
「いえ、私と斉藤の問題です」
「どきなさい!」
それは少佐の威厳だった。既に藍子のボスにもなっている彼の高圧的な目線には勝てず、藍子は玄関先を譲ってしまう。
「斉藤。妻とやり直すと決めたのではなかったのか。河原田中佐からそう聞いている」
ドアの向こう、祐也の声が聞こえなくなった。
岩長少佐がドアノブを握って隙間を覗いた。祐也になにを言うのか。
しかしなにも聞こえず、少佐がそっと藍子へと振り返る。
「行ってしまった」
少佐に叱責され、そのまま身を引くようにいなくなってしまったらしい。
藍子も最後の別れがこんな形で愕然とする。
ふと、涙が浮かんでしまった。
ぼとぼとと涙を落とす藍子のそばに、父親のように岩長少佐が来てくれて、背中を撫でてくれる。
「仕方がない。いつかまた、時が経って語れる日もくるだろう、それを祈ろう」
藍子は無言で頷いた。
わかっているだろうに、海人も女の子たちが気を使って沈まないように、わざとはしゃいで盛り立ててくれるのがわかる。
「藍子、今日はもう私たちも帰ってもいいんだよ」
藍子は首を振る。
「大丈夫です。ちょっとここで泣かせてください。でも……。ひとりだったらもっと辛い。一緒にいてください……」
「わかった。落ち着いたらおいで」
頷いて、藍子は奥にある和室にひとりで籠もる。暗がりの中、ひとしきり泣いた。
泣いて泣いて全部出して、小笠原に行く。
そう、時が経って笑って話せる日を祈って。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます