36.藍子のドレス



 引っ越したばかりの海辺の平屋。アメリカらしいカウンターがある水色のキッチンで、藍子は珈琲を淹れる。


 カウンター前の椅子に座った戸塚少佐が、綺麗な押し花が施されている封書を藍子に見せた。


「御園隼人准将の誕生日パーティーがあるんだ。毎年、そこの御園家で行われている。最近は娘の杏奈とサラマンダーで一緒の鈴木少佐が主催だ。制服は禁止、平服でとあるが、皆それなりにドレスアップしてくる」


「そのために私も? あの、その前に別れることも出来るはずです」


「隼人さんのパーティーで俺は一人でいて『あいつ、もう別れたんだってさ』と後ろ指さされるわけか。いい見せ物だ」


「そ、そういうふうにしたいわけでは……」


「つい最近だぞ。大ボスに彼女がいると勤務中に伝えることになってしまったのは」


 それを言われると藍子はなにも言い返せなくなる。


「私の事情に巻き込んでしまったせいで……、申し訳ないです」


 神妙に詫びたのに、また目の前でエミリオ少佐はにんまり勝ち誇った笑み。


「申し訳なく思うなら、このドレスを着て俺の隣に並べ」


 またいつもの上官口調で言われ、藍子は唸る。


「そんな大勢が来るパーティーで、恋人のふりを続けてしまったら、後に引けなくなるんですよ。もう少佐は自由になれるんですよ」


「じゃあ、はっきり言う。藍子、今度は俺を助けてくれ」


 え? 助ける? 藍子は眉をひそめる。

 少佐が思わぬことを告げた。


「若い頃、付き合っていた女が来る。いまは横須賀にいる准将の人妻だ」


 初めて知った少佐の過去だった。


「若い頃……、ですか」


 あって当たり前の過去なのに、その女性が来るから恋人が必要だといわんばかり。つまりまだ意識をしていると藍子は感じた。


 それは藍子に急激なショックを与えた。ショックを受けたこともショックだった。


 恋人のふりとわかっていて、でもそうではなくなっていた自分のことを突きつけられた瞬間だった。


 そんな自分より若い藍子のことがわかるのか、エミリオ少佐が慌てた。


「勘違いするな。俺は二度とこの女には会いたくないんだ。酷い目にあったもんでね」


「酷い目……?」


「彼女は男喰いだ。若い俺はその毒牙にかかったんだよ。思い出したくもない」


 男喰い、毒牙!? ますます藍子は呆然とした。

 それに、少佐も初めて気後れをした顔でうつむいている。


「その女性とはもうなんともないのですよね」


「向こうがなにかあるみたいだな」


「なにかされたのですか」


 少佐が黙ってしまった。


「悪い、藍子。やっぱりいい。ドレスまで用意して調子に乗った」


 急に。あんなに余裕の笑みで藍子にドレスを持ってきてくれたのに、申し訳なさそうに、まだリボンもといていない箱を少佐がひっこめた。


 しかも珈琲も飲んでいないのに、帰ろうとしている。


「また改めて来る……」


 椅子から降りた彼が背を向けた。


「待って、少佐。私、大丈夫ですから。やらせてください」


 去ろうとしていた彼が立ち止まり振り返る。


「嫌な思いはさせない。その下準備はきちんとしてある」


 下準備? なんか奇妙な準備だと不信に思う。でも藍子は信じる、クインを。この人はプライド気高い人だから。


「ドレス、見てもいいですか」


 彼がいつもの美しい笑顔になって、椅子に戻ってきた。


 彼が箱を改めて、カウンターで珈琲を淹れている藍子へと差し出してくれる。


「ドレスぐらいあると思ったんだが」


「岩国を出る時に全部、捨てました」


「捨てた? どうして」


「馬鹿みたいにコンカツやコンパをしていた時のもので、もう無理に必死になる必要もないことに気がつきましたので、そんならしくない自分を切り捨ててここに来たかったからです」


「それは良かった。他の男の手垢が付いているドレスは俺も嫌だと思ったんだ」


「手垢てなんですか。ついていないかもしれないじゃないですか、着ただけで終わったのがほとんどですよ」


「ほとんど、ね。どれかは手垢がついていたわけか」


 何食わぬ顔で藍子が差し出した珈琲を当たり前のように飲み始めた。その時の、俺はおまえより大人の男という気取った顔がまた憎たらしい。


「やっぱり新品のドレスで良かった」


「そうですね! 手垢がついていて申し訳ありませんでした!」


 そっちから頼んできたくせに、訳ありで申し訳なさそうに帰ろうとしたくせに。もういつもの意地悪クインになっていて藍子はむくれる。


 それでも藍子も紺の包みに黄色のリボンがついている箱を開けてみる。


「ご準備してくださって助かりますけど、サイズが合うかどうかありますでしょう。大丈夫なんですか」


「ああ。藍子のヌードスタイルはもう見ているし、触り心地も覚えているからきっと大丈夫だ」


 一瞬で藍子の顔が熱くなる。ヌードスタイルって! 確かにあの日あの夜、藍子のありのままの身体を見られているけれど!


「そのために、わざわざ休暇の日に横浜まで行ったんだからな。あ、そのついでに、宮島で買った土産を藤沢の両親に届けにも行った」


「ご両親、お元気でしたか」


「心配しなくても、いつだって元気だ。相変わらずいちゃついていたよ」


 エミリオ少佐からはいつも家族愛を感じられ、藍子は微笑ましく思う。……じゃない! ヌードスタイルのことを突っ込みたかったのに、ずるい、良い雰囲気の家族話に流されてしまった。


 でも箱を開けて見て、藍子は感嘆する。


 するりとした柔らかいシルクのような、ひんやりとした紺色の生地のシンプルドレスだった。


「大人っぽいですね。素敵」


 さっそく広げて胸に当ててみた。ひざ丈の落ち着いた、でも上質なドレスだった。


「アクセサリーはあるか」


「冠婚葬祭用の真珠を社会人になった時に揃えましたけど。フォーマルすぎて」


「充分だ。きっと似合う」


 クインさんが確信するように言ってくれるから、藍子も心が強くなる。


「着てみますね。あ、覗かないでくださいよ」


「別にもう全部見ているんだけどな」


「ダメですからね!」


 まだ整っていない奥のベッドルームへ一人で向かう。

 少佐の自宅と同じ造り、同じ場所をベッドルームにした。同じように窓からは潮騒が聞こえる。


 官舎とは違う、瀬戸内とは違う、新しい空気と雰囲気のその部屋で、藍子はそっとドレスに着替える。


 ベッドルームのクローゼットには既に姿見が取り付けてあったので、そこに立ってみる。立ってみて、藍子は一人で打ち震える。


「すごい、ぴったり」


 胸元も開きすぎず、程よい開き具合。丈も短くなくエレガント。彼のイメージなのか、ふわっとしたフレアではなく、裾はタイトなデザイン。


 それに鏡に映った自分を見て藍子は初めて思う。こんなふうにドレスを着た自分を素敵とか綺麗と思ったことはなかった。


クールなアメリカ人女性がよく着ているような……、そんな初めて見る自分。


『藍子、どうだ』


 ドアの向こうからそんな声。『どうぞ』と声をかけると戸塚少佐がドアを開けた。


 静かに振り返った藍子を見て、彼が嬉しそうに微笑んで部屋に入ってきた。


「ほら、みろ。ぴったりじゃないか。しかも似合っている」


「そ、そうですか」


 鏡の前に立つ藍子の後ろに、背が高い彼が立つ。背中から彼の腕がまわってきて、藍子の肩を抱いた。


「凄くセクシーだ」


 鏡の中で目が合う。彼が藍子を抱き寄せたまま、背後から黒髪にキスをしてくれる。


「か、髪は、おろしているとちょっと老けているかも……」


 髪を下ろしていたせいで、きっと大人っぽく見えるんだとも思った。


「そうだな。少しアップにしたほうがパーティーらしくなる」


 藍子のうなじに彼の手が触れる。ぞくっとしたけれど藍子は我慢する。彼の手が藍子の黒髪をすくい上げ、ゆるくアップにする。


「いや、いつもみたいに後ろで縛るだけでいい。それもコックピットに乗る時のようにきっちり結ばず、こう……、ゆるくルーズにだ」


 大人の男の手が、藍子の髪をふわっとまとめる。


「藍子はきっちりしすぎる。ゆるく隙を作った方が良い」


 横髪もはらりと落とされる。泣きぼくろが見え隠れするように彼が指先で揺らした。


 そこにいる大人の女に見える自分に藍子はまた震えていた。身体も熱くなってくる。彼の手が、大人の男の指先が藍子を変えていく、肌に触れそうで触れない危うさにも胸の鼓動が止まない。


「いままでのコンカツ用のドレスも、どうせきっちりしすぎていたんだろ。せっかくのスタイルだ、恥ずかしがらずに見せたらいい」


 確かに柔らかい生地は藍子の身体のラインをさりげなく象っていた。


「思った通り。背中が綺麗だ」


「少し開いていますよね」


 ちょっと不安、髪を束ねたら余計に背中が開くでしょう……、そう彼に言おうと思ったのに。その背に熱い感触。少佐がそこにキスを落としていた。


「しょ、少佐……」


 後ろから回された腕で抱きしめられて、そして背中にキスをされている。一度だけじゃない。二度三度、違う箇所に変えて彼が繰り返している。


 これも、恋人のふりのうち? それぐらいは彼には当たり前? 藍子はふり以外の気持ちを彼が持っているはずないと言い聞かせる。


「あとは藍子に合うトワレがあればパーフェクトだ」


 漏れそうな吐息を抑えるのに必死になってしまう。


「それも……、慣れなくて、捨ててきてしまって」


 背伸びしたトワレはどれも藍子自身を不安にさせてきた。そんならしくない自分ばかり。そんな思い出。


 今日もこの人はシャボンと紅茶のような香りを漂わせている。


「でも、私、あなたの香りが好き。それなら……」


 やっと彼の唇が背中から離れた。


「そうか。いいな、それ。俺とお揃いでいくか。開けていないものが一瓶ある。藍子用にしたらいい」


 お揃いの香り。ユニセックスな香りだから藍子でも大丈夫そうな香りをこれからまとって、そうして彼の隣でこのドレスを着て……。


 夕暮れで翳ってきたベッドルーム、彼の香りに包まれて、彼の熱に抱かれて、藍子はついうっとりしていた。


 そんな藍子が写っているのを鏡で確信したのか。戸塚少佐がまたきつく藍子を後ろから抱きしめ、黒髪にキスをする。


「藍子……。俺の隣に立って助けてくれなんて言ったが」


 鏡に映る翠の瞳が、鏡の中の藍子の黒目を捉えている。


「本物になること、真剣に考えてくれないか」


 藍子の目が鏡の中で見開く。


 『本物になる』、それは恋人のふりではなくて、『恋人になってほしい』という申し出だった。


「わ、私なんか」


 鏡の中で口ごもる自分がいる。でも背後にいる少佐はじっと藍子の目を射抜く。


「やめろ。藍子は男の選び方を間違っている」


 間違っている? 初めてそんなことを言われたし、なによりも鏡の中の彼の目が怒っている。


「いままで、私なんか――と思わせるような弱い男としか出会っていない」


 弱い男? 意味がわからなくて藍子はそのまま鏡の中にあるクインの目を見つめるだけ。


「どうせ、藍子のほうがしっかり自立していて怖じ気づいた男ばかりだったんだろう」


「そう思ったことは……」


 少しだけ心当たりがある。防衛に務める藍子がジェット機のパイロットで最前線に出ていることも、軍隊という公務員のような職業で収入も安定していることを気にする男はけっこういた。それでも男の包容力でそんなことは関係ないですよと言ってくれた男もいたが、結局は男の虚勢であって、最後には藍子はちょっと違うと退いた男だったり……。


 それが弱いということ?


「藍子はもっと強い男を望むべきだ。この小笠原にはたくさんいる。そうだろう」


 それもそうだった。この小笠原には自分よりレベルが高いパイロットも事務官もたくさんいる。


「そして、俺もだ」


 鏡の中で藍子を腕に抱いてにやりと余裕げに笑う男、気高いクインがいる。


 それがもう本当に彼らしくて、美しすぎるパイロットそのもの。


 俺も強い男だなんて、なかなか言えないはずなのに。彼には似合っている。藍子は笑っていた。


「少佐らしい、強気ですね」


「全力で落とさないと落ちないだろ、藍子は」


 鏡の中、彼がまた藍子を抱いたまま、目をつむって耳元にキスをした。


 もう藍子の胸の奥から、堰をきって熱いものが溢れてきそう。夕の陽射しのなか、胸焦がれるこの切なさはもう止められそうもない。


「俺が誘っている」


 前も聞いた言葉。


「俺が藍子を誘っている。軽くはない」


 それももう聞かせてくれた言葉。


 いつからか、きっと。


 藍子も目をつむる。男の熱い息が唇に近づく。


「俺はもうとっくに藍子に墜ちてる」


 彼の唇が熱く、藍子の唇を塞いだ。


「少佐……」


 彼に愛されるまま任せていたのに。最後は藍子もそのキスの甘さをゆっくりと愛し始めていた。







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