29.嘘なのに、恋人
これはもうクインさんも後には引けない立場に追い込まれたのだろうと、やっと理解できた。
「そこには、この少佐に隊員の家族が脅されていた、夫も侮辱されていた。れっきとしたパワーハラスメント。官舎で淫らな男女交際が透けて見えるのは不愉快だ――とのクレームだったようだな」
それを聞いたからなのか、控えていた海人がまた藍子の前に出てきてしまう。
「クレームとはなんですか! 官舎に住んでいれば誰だってプライベートがあるし、生活の場ではありませんか。結婚している家庭でも異性関係ありますよね。独身の男女関係だから目立つというなら暴論です。しかも見せびらかしていたわけでもなく、玄関を開けさせたところを向こうから撮影したように見えます。家族からのクレームとして軍が、小笠原の本部が受け取ったのですか! うちの母親、いえ、御園連隊長はなんと言っているんですか!」
ええ!? お日様君、けっこう余裕綽々の雰囲気を保っていたのに、こんな感情的になるのと藍子は呆気にとられた。岩長少佐も『こら、海人。落ち着け』と前に出て宥めようとしている。
この子、こんなふうに熱くなれることもあるんだと、藍子にとっては意外だった。
「だからこそ。事実を確認するように小笠原から伝達が来た。朝田准尉本人に問うよう本部から言われている。戸塚少佐にはもう本日午前に確認済みとのことだ」
だからメッセージを送ってきたのかと頷けた。
「小笠原では査問済みだが、朝田にも問う。この画像は事実であって、戸塚が官舎の家族を脅したというのは本当か」
もうクインさんに合わせるしかないと覚悟をした。
「画像は事実です。少佐と過ごしていたことは認めます。ですが脅しについては、お相手の思いこみです。あの、そのクレームを届けてきた送信者については確認済みなのですか」
「いや匿名だった」
なんだ名前を伏せたのかと藍子は呆れた。
「なんだよ。堂々と名乗れないクレームなのかよ。あ、そっか。カープさんの立場を一応、考慮したわけだ」
まだ斉藤の妻がやったことと判明していないのに、海人はそう判断が出来てしまっている。藍子は目の前の中佐と少佐の表情を確かめる。二人も海人のはっきりした予測になにも注意をしない。上官側も斉藤の妻がしたことと判断しているようだった。
「藍子。この送信者が言うところの、脅しとはなんだ」
「送信者不明の状態で、言ってもよろしいのですか」
「藍子側の心当たりを聞いている。戸塚と証言が一致するか、事細かに聞きたい」
クインさんもきちんと返答したようだった。藍子と証言が一致するか確認の為の問い、藍子も答える。
「斉藤の奥様が訪ねてこられて、私に小笠原への転属を夫のために断って欲しいと伝えに来ました。そこに戸塚少佐がたまたま訪ねてきていて、最初は口を挟まず話が終わるまで控えてくれていました。ですが奥様が独身である私のほうが身を引くべきだと発言をしたことで、少佐が間に入ってきました。その奥様に夫である斉藤准尉とよく話し合うよう伝えていました。その言い方が、その、戸塚少佐らしいといいましょうか……。そこが一般の方にはきつく聞こえたかもしれません」
『うん、なるほど』と河原田中佐は淡々と聞いている。『それで』と続きも聞かれる。
「不服ならば、夫の仕事相手の私ではなく、夫と話し合うべき。このままでこの転属自体がなくなる。斉藤に判断を間違えるな――という戸塚少佐の言葉を、彼女が『脅した。夫の上官に訴える。パワハラだ』と言いました。そのことだと思います」
「この画像はどうして撮られた」
「翌朝、奥様から侮辱されたと聞いた斉藤准尉が、その男性に会わせるようにと訪ねてきました。斉藤が私を思って良かれとやったことでしたが、私にとってはそうではない出来事があったんです。その時も私と斉藤の間であった諍いについて、戸塚少佐が私側の立ち位置で斉藤がしたことを責めました。そのことについても奥様は戸塚少佐からのパワハラだと言っていました。その時に、上官に訴えると二人で一緒にいるところを撮影されました。フラッシュを浴びたので確かです」
河原田中佐がふうと息を吐いて額を抱えた。
「戸塚の証言と一致している。彼も上官という権威できつい言い方になっていたところは認める、ただし、転属について夫の仕事相手にキャリアアップになるかもしれないのに断るよう強要するのは、業務に疎い家族感情から来ているものであっても上官として見過ごせないと言っていたそうだ」
彼が……、クインさんが藍子との恋仲を嘘でも認めたのは、きっとそこが少佐としてパイロットとして譲れなかったからではないか、藍子にはそう通じてきた。
ついにこの問題に直に触れてしまった岩長少佐も渋い面持ち。海人はもう怒り顔だった。
「どうされますか。河原田中佐。105ペアの事情は聞いていましたが、このままでは斉藤にとってもよろしくない方向へ行きますよ。この奥さんはこうすれば、藍子と戸塚君が咎められ印象が悪くなり評判が落ち、キャリアも落ちる。藍子に至っては小笠原から転属を断られる事態になるかもしれない。逆に夫の小笠原転属話が戻ってくると思ってやっているのでしょう」
「逆効果だ。小笠原になんと説明すればいい。藍子を守ると斉藤の立場が悪くなる。しかし斉藤をかばえば、藍子と戸塚が非を認めたことになってしまう。しかも匿名、斉藤が否定すればそれまでだ」
「ですが。あちらは御園少将が創設したアグレッサーの次期リーダー候補と言われているパイロットですよ。広報戦略でも重宝されている隊員です。広報で推している以上、戸塚君のイメージを落としたくもないでしょう。しかも戸塚君が斉藤の妻とやりとりがあった経緯をきちんと説明している以上、斉藤にも確認をされたほうがよろしいと思います」
岩長少佐のアドバイスに、同年代だろう河原田中佐も『そうだな』と頷いた。
海人も鋭い目つきになっていた。お日様サニーが男になった目。
「こんなこと、いつまで続いて、藍子さんの負担になるんですか。これからは相棒になった私の負担にもなりますし、戸塚少佐の負担にもなっていきますよ。いまは朝田准尉が標的ですが、やがてその奥さんが行く先々で人が巻き込まれていくと思います。いい加減、断ち切ってほしいです」
うわ、また海人が上官に遠慮もなく意見しているので、藍子はヒヤヒヤしてしまう。でも河原田中佐も、どうしてか海人の言うことに『そのとおりだ』なんて頷いちゃってる。どうやらお坊っちゃんの特権らしい。
「この事態に至ったのは、朝田と斉藤のペアにある問題を見過ごしてきた自分にも責任がある。わかった。藍子、もういいぞ。午後のフライトの準備をしてくれ」
「イエッサー、部隊長」
海人と共に敬礼をする。
共に部隊長室を去ろうとすると、河原田中佐に言われる。
「小笠原に行ったら戸塚と会えるようになるわけか。良かったな藍子。幸せにな」
岩国のお父さんからの言葉に藍子は泣きそうになる。女性隊員としてパイロットとして大事にしてくれた上官であって、そのお父さんから幸せを祝福してくれる気持ちも。
それは嘘だという罪悪感も占めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます