22.偽恋人日和


 だいぶ心が軽くなった気がする。


 本日は快晴。春の日和が多くなった三月、うららかな瀬戸内が見える山陽本線にて、厳島へ向かった。


「いいなあ、この古びた海岸沿い。単車で走りたい」


 戸塚少佐もご機嫌だった。コックピットではあんなに険しい眼差しを見せているのに、プライベートではけっこう快活な笑顔を見せるんだなと、藍子も穏やかな気持ちで彼を見つめていた。


「まずな、あなごめし。これ食いたいな。それとな『揚げもみじ』な」


「宮島にしかないんですよね。あれ、私も大好きです。私はあんことクリーム、チーズもお勧めかな」


「あと、水族館でスナメリを見るんだ」


「あそこのスナメリちゃん、すっごく人懐っこいんですよ。とってもかわいいんです」


 なんだよ、藍子は先にいっぱい知っていて、ああ、俺も早く食べたい見たいと子供みたいに落ち着きがないので、つい藍子も笑っていた。


 宮島の駅を降りて、目の前にある連絡船乗り場まで。


 青空と春風の中、船は軽快に海を往く。そのうちに、赤い大鳥居が見えてきて、戸塚少佐が大興奮。もっているスマートフォンでいっぱい撮影を始めた。


「もう、アグレッサーパイロットに見えなくなっちゃいましたよ」


「俺だって、制服もフライトスーツも脱いだら、ただのエミリオだ」


「ただのエミリオ。ぜんぜんただに聞こえませんけど、ほんとうに、ただの男性には見えてきましたよ」


 つい藍子は気を許してクスクスと笑う。


 連絡船、乗船席、同じシートに肩を並べて座っていたせいか、そんな藍子を戸塚少佐が間近でみつめていた。


「一度も、そう呼んでくれなかったな」


 いつのことを言っているのか、それとも今回のことを言っているのか。


「呼べませんよ。私にとっては、クインさんは上官です」


「クインなら呼びやすいのか? いい加減、少佐はやめてくれ」


 だって……。藍子も困ってしまう。そんないきなり、呼び捨てなんて。しかも『さん付け』するには言いにくい名前だった。


「それから。一応、連絡先を交換しておこう。『ふり』を始めた以上、連絡が取れたほうが合わせやすいだろう」


 また別れて、一切連絡ができないのは、この関係になった以上、藍子もいざというとき困ると思った。


 だから初めて、お互いのスマートフォンを向きあわせて、連絡先を交換した。


「俺はアイと入れておくな」


「じゃあ、私はクインと入れておきますね」


 いろいろ訳があってやっていることでも、本当に恋人同士がやるようなことをやっていた。


 もうすぐ到着のアナウンスが流れ、また戸塚少佐がそわそわしはじめる。


「潮が引いて鳥居まで歩ける時間はいつだろうな。絶対にそばまで歩いていくからな。いやー、ずっと来たいと思っていたんだー。いつもさ、岩国に出張アグレッサーで来た時も、ずうっと下に赤い鳥居が青い海の中に、こーんな小さく見えることがあって、ああ、このままそばを飛べたらなあと思っていたんだよ」


「あの戦闘機から厳島神社を見下ろせるほうが貴重じゃないですか。そんなのパイロットにしか出来ませんよ」


「藍子だって見えることあるだろ」


 それはもちろん。岩国基地と厳島は目と鼻の先だから帰投する時に見えることもある。


「毎日、厳島の神様が護ってくれているはずだ。俺もお祈りしておこう」


 連絡船が島に到着し、ついに少佐は厳島に上陸。もう張りきって張りきって、藍子はその後をついていくだけ。でも藍子も笑っていた。いつのまにか。


 神社参拝と島内を散策して、お昼ご飯に少佐ご希望の『あなごめし』を食べる。お土産屋さんも散策して、潮が引いて大鳥居のまわりから海水が消えると、人々が渚に降りて鳥居に向かう。


 そうして藍子と戸塚少佐は厳島散策を堪能した。


 帰りの電車の中で、藍子はさっそく彼のスマートフォンへと、こっそりと撮影しておいた少佐お楽しみのショットを送信しておく。


 彼も気がついて、藍子が送った画像を確認する。藍子が知らなかった彼がそこにいっぱい写っていた。もうアグレッサーのクイン少佐ではない、ほんとうにただのエミリオがそこにいる。


 藍子のスマートフォンにも着信音。まったく同じ事を彼がしてくれていた。藍子も驚いて、いつのまにか取られていたショットを急いで眺める。


 今日の藍子は、スポーティな黒いワンピースに白いウィンドブレーカーとスニーカー、いつもコックピットでそうしているように黒髪は束ねてきた。その姿で宮島でみつけたかわいい雑貨を、ひとりでじっと眺めていた時の横顔を撮られていた。


「だいぶ楽になった顔だと、俺は思ったな」


 その泣きぼくろがある自分の横顔を見て、藍子もそう思った。


「これ。その時、藍子が見ていたやつな」


 かわいい雑貨店の袋が出てきて、藍子はびっくりする。


「え、でも!」


「いや、その、いい箸があったもんだから両親に買った、ついで。ついでだから気にするな。俺も自分のものを買った」


 そこで見ていた箸置きが入っていた。


「女の子とデートなんだから、それぐらい兄貴で上官の俺にやらせてくれ」


「あの、ありがとうございます」


 白いパンツに濃紺のシャツ、そしてさらっと春のハーフコートを羽織っている少佐が微笑む。


 自分もこっそりとエミリオ少佐を撮影していたと思ったのに、彼も藍子をだいぶ撮ってくれていた。


 紅葉まんじゅうを揚げた『揚げもみじ』を頬張る藍子まで、大口を開けたところをわざと撮ったのかと、藍子はむくれる。でも、藍子のスマホにも、スナメリに水槽越しに振り向いて欲しくて相手をして欲しくて、一生懸命手振りをしている少佐のショットがあって、それを見たらどうしても笑みが込みあげてくる。


「楽しかったよ、藍子。こちらこそ、ありがとうな」


「いいえ。私も楽しかったですよ。もううじうじ考えるのはやめます」


 帰り道の海岸線も青い瀬戸内が輝いている。


「あと少し様子を見よう。それまでは、俺たちは恋人どうしだ。いいな」


 いちおう藍子も頷いた。


「藍子に恋人ができたとわかって、カープや河原田中佐がどう対応してくるのか。連絡してくれよ。俺もこっちから確認はしておくから」


 恋人のふりは、仕事のため。そう、これからの仕事を見極めるため。


 それにも藍子は頷いて、今度は心にも言い聞かせておいた。




 その日の夕の遅い便で、戸塚少佐は制服に着替えると小笠原に帰っていった。


 気に入ってくれた珈琲豆と父のベーコンを持たせて。ほんとうに『恋人のふり』、今回は藍子の肌を求めることもなく、重ねることもなく……。


 それで安心したはずなのに、それでいいはずなのに。熱く愛しあったわけではないのに。もうリビングのそこに彼の影が残っていた。そしてシャボンとベルガモットのあの匂い。


 藍子はいま、夕陽の寂しさと切なさを久しぶりに感じている。



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