21.男を出せ!
背後から珈琲の香りが漂ってきた。戸塚少佐がひとりで淹れている香りがここまで届く。
「里奈から聞いた。藍子を訪ねてきた男がいると、ついさっき。朝飯を食べている時に」
昨夜言わなかったのはどうしてなのか。藍子にはわかる。ひと晩過ごせる相手かどうか彼女は朝になって見極めようと思ったのだろう。
昨日は藍子も迷っていたが、これはエミリオ少佐の言うとおりにして正解だったと思えた。
「その男に脅されたと里奈が言っている。その男、誰なんだ。小笠原から来た日本人ではない男なんだろ。小笠原のどこ部隊だ」
「誰でもいいでしょ」
「本当に男と一緒なのか。この前、小笠原で会った男か? どこの誰だ。里奈を脅したのはどういうことなんだ! 藍子もどうしてだ、小笠原の先輩に相談していたと聞いたぞ」
祐也がいつにない形相で、開けろと迫ってきた。その後ろ、階段の薄暗いそこに里奈の影も見えた。
「その男、ペアで行かないと小笠原の話がなくなるから夫とよく話し合えとか、必死に円満にまとめようとしているのに、俺に判断間違いをするなとか偉そうに言ったそうじゃないか。出せ、その男を!!」
激高する夫の後ろで里奈が冷めた目つきでこちらを見ているが、藍子と目が合うとニヤリと笑ったのが見えた。
相棒の夫が嫌いな女に激高して、このペアにヒビがはいればいいと思っているのか。そのヒビが入っている瞬間を楽しんでいるのか。とにかく、こんな祐也は祐也ではない。妻に操られているんだと心底思いたくなってくる変貌だった。
もう帰ってと藍子が叫んで、ドアノブを強く握りしめた時。藍子の背中にいつのまにかぴったりと戸塚少佐がいて立っていた。
「うるさいな」
そういって昨日着ていた濃紺のシャツをさらっと羽織っただけの姿で、藍子の頭の上から伸ばした手でチェーンロックを外してしまう。
「おはよう、カープ。おまえがいま出せと言ったのは俺のことか」
戸塚少佐からドアを大きく開けた。藍子をすぐそばに置いて、訪ねてきた祐也を凝視している。もう少佐の目だった。
「え、……と、戸塚……少佐、ど、どうして」
目を見開いたまま絶句した祐也が藍子を見て、後ろにいた妻にも振り返った。
「里奈、昨日、おまえが見たというのはこの人か」
彼女はまた戸塚少佐を睨んだまま『うん、そう』と頷いた。
そして藍子を見た。
「藍子、いつの間に。あの最後の夜、まさか」
藍子は祐也から目を逸らす。別に認めてもいいけれど、祐也の目を見たら言えなくなった。
なのにそばにいる戸塚少佐が、急に藍子の肩をその胸に抱き寄せながら、祐也に言った。
「せっかく藍子とゆっくり休日の朝を過ごしていたんだ。帰ってくれ」
そんな祐也の目の前で、戸塚少佐は藍子をそっと抱きしめ、また黒髪にキスをするのを見せた。
祐也が青ざめた顔になる。藍子に男がいてそんな顔をするだなんて予想外で、うっかり胸に痛みが襲った。
「わかりました……、失礼しました」
祐也が呆然としたまま踵を返し、ここを去ろうとした時だった。薄暗い階段からパシャリとした音と同時にこちらにフラッシュが光った。
里奈が携帯カメラをこちらに向けて、藍子と戸塚少佐を撮影していた。
「里奈、なにをしているんだ」
祐也も驚いて、妻が持っている携帯を取り上げようとした。
「この人が私を脅したって、河原田隊長に持っていってよ! 絶対にあの人より隊長のほうが偉いんだから!」
「中佐が偉くても、あの人は、俺より上官で、アグレッサーだぞ」
その里奈がアグレッサーてなにと首を傾げた。
その言葉を聞いて、藍子も少佐も顔を見合わせる。どうやら里奈はアグレッサーがなにであって、夫にとってどのような上官になるかも知らなかったということになる。
「いいな、それ。面白いから、俺と藍子のその画像を河原田中佐に見せたらいい。脅したと言ってもいい。もしそうなったら、」
そこで戸塚少佐が祐也を睨んだ。
「カープ、おまえなら自分がどうなるかわかるよな」
妻の無知に妻の所行が正しいと判断されるかどうか。妻が自分が正しい正しいということを、夫もそうだなおまえが正しいよと同調しても、上官は社会はどう判断するのか。戸塚少佐はそれを突きつけている。
「でもあなたと藍子の関係が知れますよ」
祐也も、ようやく口答えをしてきた。
「それが? 俺と藍子がプライベートで付き合っていることなど、仕事とは関係ない。上官や同僚に知られたところでなんの支障もない」
ごもっともな返答だった。戸塚少佐がほんとう真に迫った恋人のふりをしてくれている。藍子も覚悟を決めた。
「帰って、斉藤君。河原田中佐にその画像を見せてもいいわよ」
藍子から戸塚少佐に抱きついた。戸塚少佐もにこりと微笑みながら藍子を抱き返してくれる。
「そういうことだカープ。今日はやっと俺の口説きに落ちてくれた藍子と初デートなんだ。じゃあな」
戸塚少佐からドアを閉めようとしてくれた。
「なによ、いやらしい! そうやってすぐに男を変えられるんだから! せっかく祐也が紹介したのに、その男性に気に入られなかったからって、すぐにその人に身を委ねちゃったんだ。最低!!」
里奈の叫びが、実は真実だから……。藍子は戸塚少佐に抱きつきながらも、ぐっと唇を噛んで目を閉じる。そんな藍子に気がついたのか、戸塚少佐が黒髪の頭をさらに胸元に抱き寄せてくれる。
「勘違いするな。相棒に紹介する男のことを良く知りもしないで適当に選んだだろ。その男とうまく行かなかったのは藍子のせいではない。他人任せに安易に男を探したカープの責任だ」
祐也が『は?』と顔をしかめた。藍子が竹原氏の事情を汲んで祐也に言わなかったこと、でも少佐には告げていたことをついに言おうとしている。
「待って、少佐。その男性のことは……、まだ」
「大丈夫だ。竹原なら先日、結婚と婚約の報告を城戸准将のところへ、彼女と一緒に来て知らせていた。藍子と会ってから決心も固まったそうだ。藍子には悪いことをしたと竹原が気にしていると、元雷神だった先輩たちから聞かされている」
『え、そうなの』と、あの竹原氏が自分に会ったことで彼女とのことをさらに話を進めて結婚に至ったと知り、藍子は嬉しくなる。
だが祐也はなにも知らないようだった。
「おまえが相棒に紹介した男はな。内密につきあっている恋人がいたんだよ。同じ雷神の整備士だったから、付き合い始めた時から周りに気遣わせないよう交際をしていたそうだ。藍子と会うように先輩に言われ、断れなかったから会った。でも決まった相手がいるから、藍子には真摯に真実を告げて断った。藍子が断ったわけでも、竹原が藍子を気に入らなかったわけじゃない。そもそも成立しないことをカープが二人にやらせていたんだぞ」
「そうなのか、藍子……、どうして言わなかった!」
「誰にも公表していないと竹原さんが言っていたことを、私が先に他人様に言えないでしょう」
「それでも俺には……」
そして藍子はこの時にやっとわかった。もう……、あの時点で祐也を信用していなかったことに。
「そういうことだ。藍子はいやらしくない。口説いたのも俺だ。元々、藍子を気にしていたことは、そばにいたカープも知っているよな。ガードがきつくてやっと近寄れたのだから、これから藍子とじっくり過ごすんだ」
それは祐也も肌で感じていたこと。研修に行く度に、クインさんは藍子を気にしている、手を振る、目線を送ってくる。だからやっと信じられたようで、なにもいわなくなった。
「藍子に男ができるのを望んでいたんだろ。これで望み通りだ。文句をいわれる筋合いはない。俺も藍子もだ。相棒の妻が、相棒の男のことを訴えたりしても、ジェイブルー105のペアが不仲だと知れて、ペアを解体され、小笠原行きはなくなるだろうな。よく妻に言っておけ」
戸塚少佐がドアをさっと閉めた。ふたたびチェーンロックをかけ鍵もかけてくれた。
だがドアの向こうでは夫妻の言い合いが聞こえてきた。
『なんなの、あれ! 横暴よ! 祐也が小笠原に行けないよう阻止して、彼女だけ行かせるんじゃないの。絶対にそんなこと私がさせないから。この画像を持って河原田中佐のところへ今すぐ行こう、ね!』
『やめろ。あの人は俺より上官で、パイロットとしても格上だ』
『格上てなに? なんでそんなパイロットが藍子さんと出会えたのよ』
『訓練で何度も会っていたよ。小笠原に行けばあの人たちにコーチしてもらっているんだから』
『それで、このまえの小笠原で恋人になっちゃったの? だってこっちが整備士を紹介してやっていたんだよ! 祐也もどうしてまたすぐに後輩の人を探してくれなかったのよ』
その言い合いを聞いていた少佐が苦い表情を刻み、呆れた顔になった。
「おいおい。まさか、あの女、夫より後輩を紹介して、藍子を部下の女にしとうとしていたのか」
いまの会話を聞いていると凄い思いこみの上に、本当に彼女ならそう思って祐也を操りそうで藍子も溜め息しかでない。
『でもただの少佐なんでしょ! 私と祐也を脅したからパワハラ! 隊長に言いに行こうよ!』
『あの人はな。アグレッサーという俺たちをコーチする側のパイロットなんだよ! この前、あの人から受けた研修と演習の結果で小笠原行きの話がやってきたんだ。あの人を訴えるなんてことをしたら、この夫妻は小笠原にいる上官とは仕事ができないと思われて、来た話が消し飛ぶ。それでもいいのか』
少しはわかったのか、里奈の声が聞こえてこなくなった。
『帰るぞ』
『ああん、待って』
やっと二人の気配が消えた。
「はあ、これでは藍子も気に病むわけだ。しかし若そうだからどうしようもないのか」
藍子より先に戸塚少佐が大きな溜め息を落とした。
「学生の時に斉藤と出会ったそうで、彼女の卒業と同時に結婚したんです」
「なるほど。まだ子供みたいなものか。それでカープもあんなに過保護になっているのか。相手するのが大変だな」
でも……。藍子はほっとして、ずっと玄関先で藍子を抱き寄せたままの胸元で泣き始めていた。
「少佐、ありがとうございました」
またあの夜のようにとめどもなく涙が溢れてきた。ずっと心に溜まった澱が涙になって外に出ていくようだった。
「大変だったな」
彼もまた、藍子の黒髪を撫でながらそっと抱きしめてくれる。
その胸元からそっと、ブロンドの彼を涙目で見上げると、じっと目が合った。彼も少し翳った眼差しで藍子を見つめている。
「ああ、まずい! 珈琲そのままだったじゃないか」
「あ、私も! 昨夜のポトフに火を入れたまま!」
せっかく二人で準備をしていた朝食のことを思い出し、藍子は涙がとまり、少佐は駆けていく。
でも藍子の胸がどきどきしていた。ふたりで見つめ合っていた時、なにか引っ張られるようなものがあった。
それは少佐も? だからかき消すように彼は藍子から離れていった。そうやっぱり『恋人のふり』だから。
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