20.サニーサイドアップの朝
突然、恋人のふりを始めてしまった戸塚少佐を官舎の自宅に泊めることになった。
さて、今夜はどうしたらいいかと藍子は唸る。
彼が珈琲のおかわりを望んだので、くつろいでいる少佐のカップにもう一度注いだ。
「アグレッサーのお仕事は大丈夫なのですか」
「うん。有休も溜まっていたからな。宮島に行ってみたいと思っていたんだ。明日は一緒に行こう。非番だろ」
「すっごい強引ですね。非番までつきとめて来られたんですか」
「この珈琲、美味いな。藍子、上手に淹れるんだな。美味い」
藍子を強引に振りまわすので諫めようとしたら、そうして誤魔化される。
「わかりました。明日、案内しますから」
「助かる。それに女の子と一緒の散策のほうが楽しいからな」
「私でなくてもよろしいでしょ。もっとかわいい女性、少佐がその気になればすぐに捕まりますよ」
「俺の見た目だけでそう思われること言われることが、俺は大嫌いだ。藍子はこっちから誘った。それは俺にとっては特別という意味だ。軽くはない」
うわー、またそうやって。綺麗な顔で、大人の低い声で、少佐の威厳で、さらっと言う!
いやいや、ひっかかるものか。ただの恋人のふり――。あの時限りの関係。そう、『暇つぶしにひっかけただけ』なのだから。
「この豆、あとで教えてくれよ」
「そんなに気に入りました? 実家の父が送ってくれるんです。仕事で使っているんです」
少佐が『ん?』と藍子を見た。
「藍子の親父さんはなにをしている人なんだ」
「元は料理人ですが、いまは実家でオーベルジュのペンションを経営しています。レストランも併設しているので、そこで出している食材をよく送ってくれるんです」
「なんだって。オーベルジュのペンションだと? 凄いじゃないか。実家はどこだ」
「北海道の美瑛です」
「めちゃくちゃいいところじゃないか!」
「父は札幌で料理人をしていたので、私も生まれも育ちも札幌だったんですけれど、父が独立する時に自分が料理をするペンション経営をすることになったんです。美瑛は農作物が豊富ですから、いま実家はそこに移っています。母と妹夫妻が一緒に手伝って営んでいます」
藍子もああそうだと思い出して、キッチンに戻る。
「そうそう。先日、また美瑛から北あかりのじゃがいもと、玉ねぎに人参、それから富良野のソーセージが届いたんです。父お手製のベーコンもあるんですよ。ポトフでも作りましょうか」
「なんだって! 料理人の親父さんが作ってくれたプロのベーコンに、藍子が手料理をしてくれるのか!」
飲んでいたカップを手放して、もの凄い勢いで少佐がダイニングテーブルにやってきた。
「うわ、なんだよ。やっぱ来て良かった。女の子の手料理なんてずっと食ってない」
「その前があったんですね」
「一応な。藍子より歳も上の中年だしな」
「やめてくださいよ。同じ三十代なんですから」
「なったばかりの三十代と、アラサーとか言えなくなってきた三十代は違うからな」
五歳も離れていなかったはず、そんなに年上だったかなと藍子はついブロンドの少佐を見つめた。そんなおじさんとは言い難い風貌で、少しだけ兄貴という感覚だった。
「なのに。もういい歳の男になるのに、美しすぎるパイロットとして出てくれと言われて、本当に嫌だったんだ。そういうのはまだ初々しい二十代の隊員の中から探せと言ったんだけれど『アグレッサー』を紹介したいから俺を選んだと言われてさ。アグレッサーの広報とか言われたら断れないだろ」
あら、クインさんがこんな愚痴っぽいの珍しいし、こんなに喋るんだと藍子はクインさんの意外な姿を垣間見る。
「嫌だったんですか? 広報に推薦されるって凄いと思いますけれど」
「何度も断っていたのに、ミセス御園の秘書室室長をやっている広報畑出身の駒沢中佐に口説き落とされたんだよ。あの人、いい人だからさ……、断り切れなくなったんだよ」
広報畑出身の中佐なら、口説くのはお手の物なのでは? それが仕事なのでは。案外、人が好いんだと藍子はちょっとクインさんらしくない一面を見つけて笑いたくなった。
「あ、やっとアイアイが笑った」
「泊まるための着替えはありますか」
「急に冷たいんだな」
「ただの恋人のふりですから。部下としての節度を守っているつもりです」
「ああ、そうか。わかったよ。馴れ馴れしくしない。着替えは持ってきた。俺も夕食の支度、手伝うな」
ちょっと気を許して頬を緩めてしまった。つい素っ気なく切り返していたけれど、恋人のふりだから。近づきすぎたらいけない。
―◆・◆・◆・◆・◆―
まさかの美しすぎるクインさんが、ラフな私服姿になって、エプロンまでしちゃっている。
これまた私服が白いパンツに紺のシャツというだけでもオシャレにきまっていて、料理の手際もテキパキしていた。
「助かります。少佐もお料理するんですね」
「そりゃな。ずっと独り暮らしだ」
じゃがいもの皮も包丁で綺麗にむいてくれた。
冷蔵庫から父親が作ったベーコンの塊を出すと、戸塚少佐がとても感激の顔。
「おお、いいなあ」
「ポトフにも入れますけれど、ちょっとだけ焼いてさしあげますね。よかったら、冷蔵庫に安いものですけれどワインがありますよ」
いいね、いいねえと、少佐は喜び勇んで自分でワイングラスを出して、自分で注いでいる。藍子もポトフを煮込む準備をしながら片手間に小さなフライパンでスライスしたベーコンをあぶる。
それを小皿に乗せて少佐に差し出すと、彼もそれをワイングラス片手に、おおざっぱに立ったまま抓んで頬ばった。
「ん! 旨い! 最高だ、藍子!」
「そうですか。父が喜びます。今度、会った時に、小笠原の凄腕パイロットの先輩が喜んでいたと伝えますね」
「いや、俺、そのペンションに行きたいな。あとでお父さんの宿の名前、教えてくれ。これは両親にも伝えたい」
そんなに? ベーコンを食べただけで。藍子は不思議に思った。
「ああ、うちの親な。二人ともバイクに乗るんだ」
藍子も『あ』と思い出す。
「そういえば、少佐の海辺のご自宅につれてきてもらう時も、バイクに乗せてくれましたよね」
あの夜は泣きたくて寂しくて惨めで。でも逞しい大人の男の背に掴まって、この人にどうされてもつれていかれてももういいとさえ思っていた。
それでも、軽快なバイクで走行している海岸線、夜の海と星空の色が心の奥に綺麗に残っていた。
「両親がライダーだから、俺もかなり影響を受けてはいるな。本当は陸軍でバイクを乗りこなす特殊部隊に入りたいと思っていたんだが、マリンスワローのアクロバットを見てから気が変わった。陸も空も高速で走ってやると思っていた」
へえ。麗しくてどこか繊細に見えていたけれど、脱ぐと男らしい身体だし、やっぱりアグレッサーパイロット、男らしい闘志を隠し持っていてたことに、藍子はまた意外だと思った。
「だからバイクで遠出のツーリングも両親は好きだ。北海道もよく行くらしい。いい宿があれば行きたがるさ」
「わかりました。私からも父に、ご両親のこと紹介させていただきますね。えっと、少佐もご実家はどこでしたか。いまご両親はどちらに」
「神奈川の藤沢だよ。湘南でバイク屋をやってる」
「ええ! それって、お父様の人生そのものがバイクに注がれているってことじゃないですか。え、少佐、バイク屋さんで育ったということですか」
「そうだ。バイク乗りの親父軍団に、かっ飛ばし姉ちゃんたちを見て育った」
それで、あのハードなアメリカン風の自宅だったのかと藍子もやっと納得!
「すっごく綺麗なお顔をしているのに意外です」
「だから、その顔のことを言われるのは好きではない。ま、俺の母親は確かに美人だし、そっくりに産んでくれたことは感謝しているよ」
ご両親がとても好きなようで、そうして話しているクインさんの表情は柔らかかった。そして満足そうにワインを飲み干し、ベーコンも食べてくれた。
父親に教わったポトフは藍子の得意料理で、今夜も大成功。戸塚少佐も『美味い、美味い』と嬉しそうに食べてくれた。
夜も更けてきて、それぞれに寝る支度をする。
彼がシャワーを浴びて、藍子も浴びて、少佐が使うソファーベッドにシーツを敷いて整えて。夜が深まってきても、男と女の妙な空気になることは一度もなかった。
「それでは、おやすみなさい」
藍子は自分のベッドルームへ。
「おう。お疲れ。いろいろありがとうな。快適だ」
間接照明の明るさに抑えたリビング。もうソファーベッドに寝転がっていた少佐が持参してきたタブレットを眺めながら、藍子に手を振った。
見ている画面が宮島の観光案内だった。厳島神社の赤い大鳥居が海の中に浮かんでいる画像が見えた。
そんな彼を見て、藍子もそっとしてドアを閉める。鍵を閉めようかどうか悩んで……。結局、藍子は閉めた。開けていると期待しているようで、本当に少佐が入ってきてしまうかどうか気にして眠れないのも嫌だったから。
明日はちゃんとつれていってあげよう。その為にもぐっすりと眠らなくちゃ。
深夜からのシフトだったため、いつもより早めに藍子は眠りに落ちた。ドアのむこうで、少佐がどう過ごしていたか気にする間もないほどに……。
目が覚めると、もう部屋は明るく朝だった。
ほんとうになにも起きなかったと、ほっとしたような、やっぱりそんなものかと複雑な思いで藍子は起きあがる。
いつもコックピットでそうしているように黒髪をヘアゴムでひとつに束ね、ナイトウェアのまま部屋を出た。
ソファーベッドの上で、彼は文庫本を持ったまま眠っていた。安らかな寝息でちいさく動いている背中。起こさないよう藍子もそっとバスルームへ向かう。
歯を磨いて顔を洗って少し身だしなみを整えて、キッチンで朝食の準備を始めた。
湯を沸かしてまた珈琲の準備をしていたところで、彼がむっくりと起きあがる。
「うわ、寝過ごした。おはよう、藍子」
「おはようございます。眠れましたか。いまから軽く朝食にしますね。ちょっとお腹を空かせた状態で宮島に行きましょう。あちらに行ったらいっぱいおいしいものがありますから」
「おう、いいな。あ、俺も手伝おう」
昨夜から女性だけにさせないという様子の少佐を見て、藍子はきっとお母様とお父様の仲が良くて、お父様が同じようにお母様と過ごしてきたのではないかと感じられた。
隣に来て冷蔵庫から卵を取り出した少佐に藍子も聞いてみる。
「少佐のお父様もちゃんとキッチンに立つ男性でしょ」
「え、ああ、そうだな。毎朝、母親の隣にいたがって、いっつもいちゃいちゃしていたな」
やっぱりと藍子も微笑んでいた。
「素敵なお父様ですね」
「熊みたいな大男で強面だぞ。藍子も一目みたら逃げると思う」
「なんですか。それ」
「でもなあ。その熊みたいなデカ親父のところに、母のような美人が嫁に来たんだからなあ」
美女と野獣のイメージが藍子のなかに出来てしまう。
「少佐はハーフですよね。ご両親のどちらが、どこの国籍の方なんですか」
「母がアメリカ人だ。髪の色と目の色は母からもらった。熊のDNAもどこかにあると思うんだが、俺は母の兄貴、伯父に似てるらしい」
なんだかその熊パパがどんな方なのか、逆に怖くても会ってみたいなんて藍子は思った。
「藍子はサニーサイドアップとターンオーバー、どっちだ。俺はオーバーイージーだ。それともスクランブルエッグがいいか」
うわ、アメリカンな聞き方してきたと、こんなところで少佐がハーフなんだなあと藍子は思った。
「サニーサイドアップでお願いします」
「任せろ」
キッチンでも狼狽えることなく堂々としているなあと、朝日にきらめくブロンドに藍子はつい見とれていた。
自炊に慣れている者同士の支度はテキパキと進む。少佐が珈琲豆の種類を確認して喜んで、今日は自分が珈琲を淹れてみたいと言いだした。
彼が珈琲フィルターにお湯を注ごうとした時だった。玄関のチャイムが何度も激しく押されたのか、けたたましく聞こえてきた。
「もう朝早いのに」
藍子は顔をしかめる。でも誰だかわかっていた。藍子の自宅を訪ねてくる者は少ない。こんな通常ではない訪ね方をするのは一人しかいない。
だけれど藍子は少佐にはそんなことは一言も言わず、一人で玄関へ向かう。
リビングへのドアをぴっちりと閉め、まだチャイムを連打される玄関のドアをそっと開ける。チェーンロックをしていたため、小さく空いた隙間から『どちらさまですか』と出てみたが、やっぱり祐也だった。
「開けろ、藍子」
「なに朝早くから。今日は非番でしょ。こんなところに来たら里奈さんに怒られるよ」
「里奈も一緒だ」
ああそう。女の相棒の自宅を訪ねるのに監視が必要ってわけねと藍子は溜め息が出る。
「男と一緒にいるというのは本当か」
わざわざ確認しにきた。しかも祐也まで、そして彼の目が怒りに燃えていた。それはどうしてなのか。
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