19.泊まるところはない


 珈琲の粉と紙フィルターやサーバーを準備しながらお湯を沸かし、藍子はやっと、ソファーでくつろいでいる少佐に聞いてみる。


「恋人のふりってなんですか。それもいきなり訪ねてくるなんて、びっくりしました」


「でも。助かっただろう。こんなことじゃないかと思って来たんだ」


 こんなこと……、藍子から尋ねる。


「私と斉藤がこじれると思われていたのですか」


「研修の結果と評価が届いただろ。もうわかっただろう。何の研修だったか。合格おめでとう」


 やっぱり。コーチをする演習をする側のアグレッサーパイロットは知っていた。


「本当に、点数なんて関係がない研修だったのですね。あれ、ほんとうは研修に来ている指導される側の隊員に、あんなこと伝えてはいけなかったのでは?」


「それな。スコーピオンのウィラード部隊長にこってりしぼられた」


 このクールなクインさんが、あのスコーピオン大佐に怒られる? 想像できなくて藍子は目を丸くする。


「どうして私にあんなことを、わざわざ言いに来てしまったんですか」


「だから。言っただろう。自信のない顔をしているのが気になって……だよ」


「そんなこと、アグレッサーのパイロットは気にしてはいけないのでは」


「そうだな。口頭でヒントやアドバイスは後ですること。まずは演習で空でわからせることだ」


 なのに。どうして……。珈琲の粉を紙フィルターにいれていた手を藍子は止める。


「だから、俺は……、いつもモンキーちゃんになってしまうんだ」


「あの、どういう?」


 藍子が珈琲を淹れる手元をみつめていた少佐がそっと顔を背け、日が傾いてきたベランダを見つめている。


「だから、藍子のように、女なのに頑張って飛んでいる子に、ああすればいいこうすればいい、こうして男の飛び方と差別化をしたらいい、こうして身を守れと言いたくなって近寄ってしまう。でもそれを言ったら、俺はアグレッサーから外される。上官にどやされる。だから、いつも言いたくなって近づいて、言えないから……」


「えっ、言えないから、モンキーちゃんと意地悪を言って誤魔化していたんですか!」


 戸塚少佐がそっぽを向けたまま、なにも言わない。どうやら図星らしい! 藍子は喫驚する。


 だがその後に、違うものが襲ってきた。つまり、それって……。私のことをいつも気にして心配してくれていた? だからいつも研修に行くとすぐに目があって、近づいてきてからかわられて?


「この前も、ウィラード大佐に藍子に近づいて話しかけていたところを見られてな。うっかり点数なんか気にするなと言って、危うく研修方法の裏側を悟られるかも知れなかったとめちゃくちゃ怒られた」


「確かに。減点方式がただの心理的に追いつめるためのツールだったとわかれば、あの研修は意味をなくしますものね」


「そのせいもあって。ジェイブルー105にはちょっとムキになって追いつめたところもあるな。スコーピオンのウィラード部隊長に、藍子に特別な感情を抱いて接しているわけではない、どんな時も容赦なく攻め落とせると証明するためだった。なのになあ、そんな力んだ時に限って、かわいいモンキーちゃんにキャノピーの上を掠められて大失態だ。あのこともウィラード大佐にどこかで冷静ではなかったのではと注意をされてさ」


 ああ、それで。あの日の夜、ダイナーにお酒を呑みに来るほどむしゃくしゃしていたのかと藍子も納得した。


「でも、そこで、少佐がそんなミスをする原因になったモンキーに出会ってしまったんですね。だから……? むしゃくしゃしている原因の女を征服したかったとか?」


 湯が沸いて、藍子は紙フィルターに入れた珈琲粉へとゆっくり円を描きながら注ぐ。あたりに珈琲の香りが立ちこめる。


「征服されているように感じたのか。藍子は……」

「いいえ。とても優しかった」


 ひと晩だけの関係だと思っていたから、あの日の夜をこうして話しているのが藍子には不思議な感覚だった。


 藍子の返答にエミリオ戸塚少佐は、そっと微笑んでくれている。


「研修の結果と藍子が合格したと知って……。転属になるとしたら、藍子とカープはどう決断するのか気になった。特にカープだ。藍子からカープの妻との確執を聞いてから、俺なりに少し探りを入れて調べてみたら。そうだな。カープの知り合いは割と妻の性質を知っているようだったな」


「そのようですね。ボスの河原田中佐が斉藤に妻のことで初めて言及されたので、知られていることなのだと自覚していたところです」


「せっかくのキャリアと腕前だ。この話がなくならないようにしろ」


 また……、威厳ある声で言われる。


「だが、いまのまま斉藤と相棒で居続けることは難しいな。時が満ちたんだ。こうなるところまで、もう来てしまったんだ。途中で解決出来ずにここまでな。なるべくしてなった状態じゃないか」


「さきほどの彼女が、私と斉藤が別々になるなら一緒についていくと言っているそうです。斉藤は彼女の希望を叶えようと、ペアを組み替えて欲しいと思うようになり、その希望が叶うかどうか部隊長に打診しています。私は……」


 藍子はうつむく、フィルターから抽出される一滴一滴の珈琲を見つめながら。


「小笠原の話がなければ、もうペアを解消してもいいと思っていました。でも今回の話はペアで受けないと意味がありません。だから今度は反対するという……、一貫性のないことを斉藤に言ってしまいます」


「ペア解消まで来てしまったのに、最高の呼吸でキャリアアップのチャンスを掴んでしまったということか。なかなか皮肉なことだな」


「もしペアを組み替えてくれる希望が通っても、新部隊で望まれたペアになれるはずがありません。あの結果は斉藤と私のペアだったからこそなんです」


「そう思うなら。藍子に恋人がいれば、あの妻も気が済むのだろう。斉藤と一緒に転属することを受け入れられるんじゃないのか」


 だから、恋人のふり? 藍子はまた呆気にとられる。


「だからって。そんな、少佐ほどの男性にそんなことしてもらうだなんて、絶対にダメですから!」


「どうして。俺は東南の空を飛ぶアイアイを見てみたい。カープの妻がそこを気にしなくなって、斉藤も気兼ねがなくなって、このままペアが維持できることが藍子の最大の望みなんだろ」


 その通りだった。だけれど、それがこんなことで解決出来るとも思えない。


「ですけれど……。少佐が恋人のふりをしてくれても、もうとんでもなくこじれているので無理だと思います。見ましたでしょう。『先輩』にだってくってかかってくるんですよ」


「あれはカープが本当の意味で妻と向きあっていない証拠だ」


「でも、そう簡単に変わらないと思いますよ。いいんです、わたしはもう、ペアも解消、小笠原行きがなくなることも覚悟しましたから。その後は、岩国から出て行く希望を出すつもりです」


 戸塚少佐が驚きの見せ、哀しそうな目を見せてくれる。


「藍子、そこまで決意していたのか」


「潮時です」


「だが、このまま様子を見てもいいだろ。藍子に恋人ができてどう態度が変わるか俺も知りたい。ここがジェイブルー105の正念場だ。出来そうなことをやるだけやって見極めても遅くはない」


 確かに。少佐の言うとおりだった。

 珈琲が出来て、藍子はソファーにいる彼のところへ持っていく。


「あの、まさか今夜。泊まるところがないなんて言いませんよね」

「泊まるところはない」


 もう確信犯でしょと言いたくなって、藍子はその言葉を飲み込む。


「ここに泊まるつもりですか」

「恋人同士に見せるには、俺を泊めたと思わせたほうがいいだろう」


 その手に乗るか乗らないかを藍子も迫られている。


 だが少佐が言うとおりに、藍子に恋人ができたとわかって、あの夫妻がどう変わるかは藍子も知りたかった。


「いまお座りのソファーがベッドになりますから」

「わかった。ありがとう。それで充分だ」


 どうしてだ、ひと晩一緒に愛しあったから、今夜も――なんて言わなかった。ほんとうに『恋人のふり』で来てくれたのだろうかと、まだ信じられないけれど、珈琲を飲むクインさんの横顔はいつも藍子が見ているアグレッサーの先輩の顔、男の卑しさは感じられなかった。

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