第16話 対等なる個人

○日本国憲法

〔個人の尊重と公共の福祉〕

第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


●自民党日本国憲法改正草案

(人としての尊重等)

第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。



 自分の利益を得るために公共の福祉を売るような連中が称賛され、公共の福祉に資するために自分の利益を犠牲にする人が非難される。

 完全に狂っていると寛は思った。

 そして自分は狂った果てに立っている。自分もそれに合わせて狂っているのかもしれない。ジャミロクワイも真っ青だ。狂いを感じられるということはまともである証拠だとせめて思いたかった。

 前に国際関係におけるリアリズムという言葉を少し調べてみたことを寛は思い出した。テレビでやたらとコメンテーターが現政権は徹底したリアリズムでー、などと言っていた。その言葉に違和感を覚えたからだ。徹底した現実主義だというのなら、もう少し世の中の人々の貧しい暮らしを見て、良い方向に導こうとするのではないかと思ったのだ。

 しかし、政治上のリアリズムを調べたら、想定していた現実主義とは全然違った。彼らの言うリアリズムとは、国家を主体に置き、自国の利益を第一に考えて覇権を競い、弱い国を武力でもって食い物にしようと各国がしているという強迫観念に憑かれたような世界観のことだった。

 国家が主体だというのなら、まるでそれを人のように見ているのだろう。だとしたら、常に誰かが自分のことを襲ってくるかも知れないから、ナイフで武装しとこうという人がいると想定出来るわけだ。そうすると、隣のやつもそいつのことが恐いからバットでも持っとこうとなるわけだ。そこに緊張関係が膨張し、次々と際限のない武装が行われるわけで、その間を均衡状態などと呼ぶけれども、膨らみきった風船はちょっとのショックで破裂してしまうかもしれない。いやいや、そこまで行く前に話し合ってみろよ、もしかしたら良いやつかもしれないじゃん、と理性の残った第三者は思うことだろう。こんな愚かしい世界観を未だに持っているとしたら、本当の目的は別にあって、それは軍産複合体や腐敗したナショナリズムのためにあるのではと訝しんでしまう。

 リアリズムなどという紛らわしい言葉を使っているが、何のことはない彼らの中の現実でしかなく、結局の所フィクションである。新自由主義も国際関係におけるリアリズムもさもこれが現実ですよという顔で闊歩し、人々を騙し、取り込もうとしているのである。

 そこでは確かにジャミロクワイの言うように、取り込まれた社会の中で生きる他ない自分もまた狂っているのではないかと疑念が生じてしまう。

 隣で『ヴァーチャル・インサニティ』を鼻歌で歌うツキミが思い出された。もしも自分がまともなら、それはやはりツキミのおかげだろう。ツキミの世界に触れて、自分は均衡を保てていたのだと思った。

 しかし、自分とは何だろうか?十八にもなって自分探しかと頭の中で冷笑的な声が響くが、これもまた不真面目で怠惰な反知性主義的な態度なのではないだろうか。

 果たしてどれだけの人が自分というものに答えを出せているのだろうか。自分など無いと嘯いてみても、悟りが開けるわけでもなかろう。人は相変わらず幸福を求め、不幸に嘆いている。

 今の社会には圧倒的に『自分』がないのだな、と寛は思った。ツキミのおばさんは例外だった。なぜなら彼女は『自分』を知っていた。だから幸福だったと言えたのだ。

 だが、それを知るためにはどうしたら良いだろうか?

「大衆の貧相な公共意識は支配層に上手く利用されますが、同時に階級社会であるが故に大衆の公共意識は貧相でもあるのです。

 しかし、それでも大切なものを守るために一縷の望みをかけるなら、草の根的な、ボトムアップ式の公共を求めて議論するしかありませんでした。

 そのためには『個人の幸福』を改めて問い直し、ひいては本当の『公共の福祉』とするために大衆が議論するしかなかったのです。現在自分たちは自分たちの真の意味での社会正義を支配されているのだと、階級構造を自覚しなければならなかったのです。

 そこを政権はわかっているから現憲法では万一の希望も潰すため第十三条において『個人』という言葉を抹殺しました」

「『個人』ですか」

「はい。大衆ではなく、対等な『個人』として他者と向き合い、ひいては社会や国家と対峙しなければならなかったのです。

 よくある議論で、自分さえ良ければいいという人が増えた、それは『行き過ぎた個人主義』だから個人を国家が取りまとめ、個人は国家のために何が出来るかを考えなければいけないのだというものがあります」

「ああ、よく聞きます」

 寛は学校でも、テレビでもそんな話をよく耳にするなと思った。

「そうでしょう。しかし、これは間違いです。明らかな支配者側の恣意的な正義です。

 繰り返すようですが、私達に本当に必要なのは、横と横の、大衆の中での話し合いです。

 彼らお得意の家族国家観で言えば、親である国家が常に口を出して、子供である国民を自分の思い通りの状態にすることが彼らの理想なのです。

 また、幼い頃に自分で考えて行動しようとすると、途中で遮られて最適解とされることを教えられてつまらない思いをするという経験をしたことは誰もが有るでしょう。これもまた上位の存在に、自主的で自由な考えを制限される一つの類例でしょう」

「それは少しうがった見方ではないでしょうか?」

「確かにそうかもしれません。親が小さい子供にものを教えるのは当然のことでしょう。例えば文字そのものを教えるだとか電車の乗り方を教えるだとか、そもそも知らなければ始まらないものを教えるのは当然のことです。しかし、どういう作文が正しいだとか、最適ルートはこうだとか無闇矢鱈と口出しするのは子供の自由で自主的な考えを奪うことになるでしょう。ある程度のところまで教えたら、後は自由にさせるべきなのです。それが学校でも社会でも上位存在が一から十まで口出しして、彼らの中の最適解を押し付けるのです。それは明らかな恣意的な正義だということは、その行為が誰のための幸福に資するのかということを考えれば瞭然でしょう。

 といっても、この例えはやはり危険なのです。そもそも家族国家観は階級化の論理です。少し間違えばすぐに階級社会となるでしょう。

 そうはならないように国民は国家を監視しなければならなかったのです。国家と国民は親と子ではありません。国家と国民は恩義の関係で結ばれているわけではありません」

 熊野あたりが聞いたら発狂しそうだな、と寛は思った。

「少し具体的に考えれば、公務員は国民のためにあります。国民は税金を払い、そのお金で公務員は暮らしています。では、公務員と国民はお金だけで結ばれるものでしょうか?だとしたら、より多く払ってくれる大企業や金持ちの人により多く奉仕するのが当然の論理になってしまいます。国家が一部の支配層のためにあるのではなく、国民のためにある一種の共同体であるのならば、原理的に言って共同体全員の幸福のためやそれに根ざした社会理念のために公務員はあるべきでしょう。

 実際に国家が提供するサービスを国民が受けた時、国民は国家に感謝しなければならないだろうという論理が出てくるということもあるでしょう。しかし、これは錯誤です。

 国民と公務員は、二分されたものではありません。公務員は国家の元にいるのではありません。公務員も共同体の一員です。我々は社会理念で繋がった存在です。そこにおいて受けるサービスは国家から下賜されるものではないのです。公共の理念のために行われることなのです。つまり、それは公共の具象化です。

 感謝は共同体の一員であり、直接話し合い、関わりをもった公務員にすればいいのです。そうすることで、社会理念は強化され得るでしょう。

 公務員と国民は生活のためのお金だけでなく、お互いのための社会理念で繋がっているのです」

「国家と国民は対峙するものではないのですか?」

 寛は矛盾ではないのかと思い、質問した。


「はい。確かに一見矛盾したものに感じると思います。国民は国家を対等な目線で対峙し、監視しなければいけません。お友達ではありません。実際上は、そういった緊張関係でなければいけません。なぜならば、国民全員が所属する団体が国家ではあるものの、一部の人間に支配権を握られているのが実情だからです。

 ここでは公務員のあるべき態度、またそういう理念を持っている公務員を前提としてお話しました。直接一人の人間としてお互いが関わり合って、彼や彼女が社会理念のために働いているのだと確認された時は、同じ共同体の一員である個人として感謝をするのは良いことだろうと思います。

 しかし、悲しいかな、そういう人間ばかりではないのです。人間は不完全なものです。一人の人間の中でさえ理念を想う心と利益を欲する心が共存しているものでしょう。だから、実際は国家及びそれに属するものはお友達でもお上でもないのだという意識を常に持って、接しなければなりません」

 すべてを信じ、すべてを委ねるというのならそれは親子のような関係になってしまうだろう。また、友人のような単純な信頼関係の上に成り立っているのでもない。

 国家と国民はあくまでも社会理念、つまり大本を辿れば『みんなの幸福を願う心』で繋がっており、本当にその通りに運営されているのか国民は監視しなければならない。

 それが老人が最初に言っていた、国民に課された不断の努力だったのだろうと寛は思った。

「また、国家という巨大な階級社会に取り込まれ、国家権力を我がものとしてふるおうとする人々、支配層の一員なのだと自認する人々も確かに存在します。

 それは国家の階級社会の上の方に行けば行くほど顕著となるでしょう。彼らは恐らく国家に尽くすことこそが真の社会正義なのだとすら思っているのではないでしょうか。確かに国家の階級社会の中で『個人の幸福』を追求し、周りの人間と対話し、周りの人間も自分と同じように国家権力を我がものとしてふるうのが幸せなのだと感じる人々ばかりだとしたら、何の疑問も感じないでしょう。人は自分の周りの世界が、世界のすべてなのだと思いがちです。何の疑問も感じずに、彼らにとっての幸福を、彼らにとっての真の社会正義を信じ続けるでしょう。しかし、それもまた恣意的な正義です。

 果たしてそれは本当に皆の幸せを願う社会理念だと呼べるものでしょうか?階級社会故にふるうことが出来る力を、気ままに下層のものに行使し、利益を搾取する。そんなものが『真の社会正義』でしょうか。

 階級社会故に生み出される強大な力を、下層のものにふるうことが出来てしまう。これが階級社会という構造そのものが持つ力の源泉でしょう」

 寛はフィクションの力は強力だと思った。特にそれがフィクションであるということに無自覚である時、人は何の疑問を抱かずその上で生きる他ない。

 しかし、手品師が手品だと言い皆を騙すのはエンターテイメントであり皆を幸福にする行為だが、手品師がこれは超能力です、真実ですと騙り詐欺を働いていたらそれは犯罪行為だろう。

「搾取される側の痛みに気付き、疑問を持ったものは上にはいけません。そんな人間が上に立ち、構造を破壊してしまったら、利益を享受できなくなると既得権益者は考えるからです。だから、何の疑問も感じず、搾取される者の痛みにも気付かないどころか同じ人間としてすら見ていないような人しかほとんど上にはいけません。そして、彼らはその世界で凝り固まり、支配層として恣意的な正義を自分の利益のためにふるいます。彼らもまた、階級社会に取り込まれた人々なのかもしれません」

 悪を生む構造であることは明らかだと、寛には思えた。

「社会のことを考えず、自己利益のみを求めてしまう人々は別に公務員だけではありません。

 特に金持ちなど税金を多く納めている人々からは不公平だという声があがるでしょう。我々はこんなに税金を収めているのだから、優遇しろというわけです。納税額は自分の働きを数値化したものですし、相対化も容易ですから、強い説得力をもって不公平感を持つことはわかります。

 特に一代で成功したような抜群の才覚を持つ人は強い不満を持つものかも知れません」

 いわゆる『凄い』人達のことだろう。

「しかし、そういう人にはぜひ一度考えてみて欲しいのです。例えば多くのアイデアを出し実行力もあり、人を使い、多くの人に物を買ってもらうことに成功した人。

 例えば、芸事を磨き、多くの人を笑わせ、テレビに出て人気者になり、時代を変えたスター。

 確かに彼らがいなければ、世の中は不便でつまらないものかもしれません。しかし、どんなに偉大な才覚を持とうとも、他者がいなければ成立しないのです。『凄い』もまた一人では成立しません。一人きりの世界で一体誰が物を買ってくれるでしょう、笑ってくれるでしょう。

 人は、個人は一人きりでは弱いものです。だから、共同体や社会というものを作ります。彼らは共同体の一員であるから成功という果実を得られたのです。我々は共同体という土壌を共有しているのです。これもまた『公共』なのです。

 かといって、個人が共同体に完全に飲み込まれてはいけません。あくまでも個人でいなければ、個人の幸福を忘れ、ひいては真の社会正義を忘れてしまいます。そして、偽の社会正義である秩序だけが残り、箱の中身に恣意的な正義が容れられてしまいます。

 一部の金持ちの人たちが意見を言うのは『個人の幸福』という最も基本的な要素から言えば当然の権利ではあります。しかし、そこにひるむことなく一般の人々は意見を交わし、議論しなければいけないのです。そのためには金持ちだから『凄い』、『凄い』から『偉い』。だから発言権があるのだという思い込みから脱することです。それは金という大きな物差しに取り込まれ、階級社会化しているから起こるのだということを自覚しなければなりません。

 日本社会は『凄い』が『偉い』にすぐ転化されてしまう社会なのでしょう。階級化に慣れすぎた弊害です。よく目を凝らしてください。本人は全く凄くないのに、『偉い』を受け継いだだけの人はそこら中にいますし、そもそも、本来的に人はすべからくただの人です。どんなに金持ちだろうが、美人だろうが、面白かろうが、ただそれだけのことです。取り込まれる必要はありません。それはつまるところ大事な、唯一つの自らの『個人』を放棄することです。

 『個人』は共同体の中で唯一人の『個人』でなければいけません。これは階級の中で埋没した人として生きてきた私達にとっては、非常に困難で寂しいことと感じるかもしれません。しかし、まっすぐに向き合った他者との交流の中で、私達は相対的な上か下かだけではないもっと豊かなことに気付けるはずです。それは平面的なものではなく、もっと深みや奥行きをもった独自の拠り所、器となるでしょう」


 みんな、とは『個人』の集合体でなければならない。あくまでも群れとしてではなく、社会理念により繋がっていることに自覚的な集団だ。

 そうでなければ『みんなの幸せを願う心』はすぐに『支配層の幸せを願う心』へと変えられ、数々の権力の濫用を許してしまう。

 また、自分も含めてだが『凄い』人信仰がこの国では強すぎるのではないか、とも思った。今でも『凄い』を根拠に従ってしまうのはフィクションに取り込まれていると言わざるを得ない。多くのことに無自覚なのだ。

 そもそも凄いって何だ?スポーツの世界のように純化した指標のあるところならば理解りやすいが、社会全体に関わってくる政治の世界での凄い人は多義的だろう。さらに言えば、どんなに凄いとされる人でも、みんなの幸福に資するかは理解らない。物凄い学歴や経歴を持っていても、人間としてどうかと問われると疑問符が付く人は多いだろう。また、そういった人々にすべてを任せてしまうというのは、結局の所主体性を失っているのである。

 『個人』であるということは『自分』があるということだと寛は思った。

「『個人』とは何でしょう?そこの所をもう少し詳しくお願いします」

「そうですね。実はこの『個人』という言葉が今までしてきたお話の中で最も重要なものだと思います。

 なぜ七十年もの猶予があったのに、このような社会へと後退してしまったのか。その問題点は階級社会と貧相な公共意識にありましたが、それを唯一解決に導けるのは『個人』という概念を常識として共有することだったろうと思います。

 人が生きる動機は基本的に幸福になることだと言えるでしょう。では、幸福とは何でしょう。

 それは肉体的、精神的欲求を満たすことでしょう。肉体的欲求とは、つまり、食、睡眠、性など人が生物であるがゆえに持つものです。これらは非常に重要なものです。生きる土台です。しかし、その分わかりやすくもあります。

 人間を複雑にしているのは精神的欲求でしょう。人間の精神は人それぞれ、千差万別です。何を欲しているのかは、その人にしかわかりません。

 また、実際の所、人間の欲求は肉体と精神の要素が複雑に絡み合っています。だから、二つを満たすことが幸福に繋がるのだと思います」

「片一方ではダメなんですね」

 確かにそうだろう。大好物を食べようとも、不安なことが心にあれば、精神的欲求は満たされておらず、幸福とは言えないだろう。逆に過度の寝不足の中で喜ばしいことがあっても、その喜びは半減してしまうだろう。もしかしたら、喜びだと感じることすら出来ないかもしれない。

 だから、昔は生活保護というものがあったのだろう、と寛は思った。いざという時、生活の土台を保障する。性以外の生きるために必要な衣食住を保障する、というのは国民が国家に期待する当然の機能のはずだ。しかし、これもまた支配層の恣意的な正義と大衆の貧相な公共意識により破壊されてしまったのだということは容易に想像がついた。

 国家の最重要事項とは何だろうか?社会的弱者を守ることと戦争をしないよう外交努力を重ねることの二つではないか。生活を便利にするのは二の次だし、ましてや防衛費を増やして近隣諸国との緊張を煽ったり、支配層の中で国民の税金を山分けするような仕組みを作ったりすることなど害悪以外の何物でもないだろう。

「はい、両方が満たされなければ幸福は感じられないでしょう。

 では、『自分の幸福』とは何でしょう?それを知るためには人は各々、まずは『自分』を知らなければなりません。

 精神には鏡がありませんから、人は自分以外と関わることで『自分』の輪郭を掴んでいきます。それは自分の幸福の形を知ることでもあります。

 そしてその中で自分以外の『他者』もまた『自分』と同じ幸福を求めるものであり、悲しみや痛みを感じる一個の人間であるということを知ります。

 他者は自分と同様に尊重されるべき存在であるという認識を得るのです。自分が他者によって傷つけられたりすることが不当であるということは、自分もまた他者を傷つけることは不当であるということです。

 そして、お互いが尊重されるべき一個の人であるという認識が生まれます。これは『個人』の芽吹きと言えるでしょう。公共的な社会を営む上で人々に必要な大前提、共通認識がこれです」

 つまり、お互いが人間の原則的なところで対等であるという意識を持つことが必要だということだ。もしもそうでなければ、オッサン化の議論のところで検討したように、不公平な社会となってしまうだろう。

「旧憲法第十三条にはこうありました。

『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』。

 ここには個人の最低限の定義も含まれています。個人とは幸福追求の権利を有するが、なおかつ公共の福祉に反してはならない。つまり、他者の権利を侵害してはならない、ということでした。それはとりもなおさず、いくつもの尊重されるべき個人が共存している世界観だということです。

 旧憲法ではすべての国民は個人として尊重されるとしました。これは公権力による人権侵害を防ぐ意味合いでも重要な枠組みだったと思います。

 しかし、個人とはただ人が生きていれば、個人たれるものではありません。自分も他者も尊重される存在である、対等であるという意識、自覚がどうしても必要です。そういった意味で、これもまた多くの人々に定着しきれませんでした。

 その結果、現憲法では『個人』は『人』に、『公共の福祉』は『公益及び公の秩序』に変えられてしまいました。

 これは個人として千差万別の幸福を求める権利はなく、生物一般の幸福、つまり肉体的欲求のみを求める権利が認められているということです。

 また個人の権利が最大限に認められる余地のあったはずが、公益及び公の秩序に差し替えられることで国側の都合が優先されることとなってしまいました」

 緊急事態条項により実質やりたい放題ではあるが、これにより正当性を得ているということだろう。国家、つまり支配層が人々の上位存在だと明確に示しているのだ。

「『個人』という言葉には、なんとも言えない豊かさが込められていたのですね」

 寛が惜しいものを無くした気分で言った。

「そのとおりです。『自分』と『他者』は対等であるという見地は非常に重要な気付きです。そして、大前提でもあります。そこから拡がる地平は広大で、豊かなものでした」

 人は対等であるという見地からしか、平等や本当の意味での自由や愛、平和は生まれ得ないだろう。ひとたび均衡を崩せば、平等は不平等に、自由は制限され、愛は自己利益を得るだけの欲に過ぎず、戦争は差別により正当化されるだろう。

 人が『個人』たることは社会全体の『公共の福祉』へと繋がっている。それは字義通りの『公に共有する幸福』だ。

 そしてそれを維持することはとてつもない努力が必要だろう。誰もが幼い頃に「自分がやられて嫌なことは他人にもするな」と言われたことがあるだろう。これは自分と他者は対等な存在であるという気付きを与える言葉だ。

 多くの人がこの言葉に真理めいたものを感じつつも、社会の中でそれを貫き通すことが出来ていない。

 なぜならば、この社会は公共型の社会ではなく、階級社会であるからだ。対等でない人間関係を正当化される論理がいくつもまかり通っている。その中で一人の人間が対等を貫こうと思えば排撃されてしまうだろう。

 かくして『個人』はやせ細り、『公共の福祉』も衰えるばかりだった。

 寛が言った。

「『行き過ぎた個人主義』なんて無かったのではないでしょうか。そこにあるのは『貧相な公共意識』と同様に『貧相な個人主義』だったのではないでしょうか」

 老人は頷く。

「そう思います。もしも、対等な個人が共存しているのだという共通認識が得られていたら、『個人』も『公共意識』も豊かなものとなったでしょう。その時、多くの人がこの社会は自分たちの『公共』であると胸を張って言えたはずです」

 寛は産まれてから一度として、この社会が自分達が共有するものであるという感覚を覚えたことはなかった。ただ足枷のようなもので紐付けられている感覚だけはあった。それは社会に、いや、国家に保有されているのは自分の方であるという感覚だった。

「人は幸福を求めます。そして『自分の幸福』を知るために、まずは『自分』を知ろうとします。しかし、鏡はありませんから『他者』と関わることで『自分』の輪郭を捉えようとします。そして、その中でお互いが尊重されるべき対等な『個人』であるという認識を得ます。

 通常、人には共感能力がありますから、他者が悲しんでいたり、痛みを感じていればその上に自分の幸福が成り立たないことは理解ります。ひとたびその認識に至れば、お互いが対等な個人であるという大前提なしでは自分の幸福は築けません」

 確かに自分がどんなにハッピーでも、他人をいじめてハッピーというのは許されないことだろう。もしも自分がいじめられる立場だったらどうかという想像力、つまり共感を働かせれば理解るはずだ。単純にかわいそうだと同情するわけだ。その胸のしこりがあるのに十全に幸福を享受出来るものだろうか。

 もしも出来るというのなら、そいつは想像力が足りないか、痛みを知らないか、覚えていられないかのいずれかなのだろう。それとも自分の痛みにのみ過敏であり、他人への痛みには鈍感、むしろ喜びすら感じるという類の人間も居るのかもしれない。

 そんな連中から降り掛かってくる火の粉を払い除けることは、実際上生きていく上でとても重要な技術だろう。強くなければ生きていけないともいう。しかし、それは狂気に囚われたり、酷薄になることではないはずだ。生きることの本分を忘れてはならない。

「その認識の上で他者との交流を重ね、自分を知り、また形作られてもいきます。自分を知るとは自分の幸福を知るということでもあります。また、何を幸福と感じるかも他者との交流の中で成長していきます。

 この営為のことをちょうど器を作ることに似ることから陶冶と言いますね」

「陶冶ですか。初めて聞きますね」

「ええ。あまり使われなくなった言葉のように思います。人間形成の第一がどれだけ高く伸ばせるかという平面的なものに主眼が置かれてしまった、社会が要請したということを表しているのだと思います。

 しかし、この陶冶こそが芽生えた個人を育て、独自の、絶対的な自分専用の精神の器を作るということに繋がるのだと思うのです。

 それは幅や奥行き、深みのある豊かな幸福を享受出来る自分を作ることに繋がりますし、自然感じられる幸福も増えるということです。

 また、平面的で相対的な人間観のように外部の指標に惑わされるということも減るでしょう」

 これまで寛が考えていた根源的欲求、自分の居所を得たいという人間の性質を思う時のイメージは、階級社会の中で自分という点がどこに存在するのかというものだった。そしてそれはめまぐるしく変動する不安定なものだった。

 階級社会は拠り所、価値観、指標といった言葉で表される目盛りのついた容器であり、例えば学校では容姿、学業成績、運動神経の良さなどが挙げられる。

 だが、これらの容器は長じていくに連れて金、生産性というより大きな容器にまとめて容れられる。

 そこでは高いか低いかだ。位置により人間の価値は決まり、息苦しい。少しでも息がしたいなら浮かび上がるしかない。

 また、国家によって人は制限された小さな一律のケースにそれぞれ容れられ、ラベリングされている。

 独自の、絶対の形など許されない。

 横幅や奥行き、底深さといった豊かさは何の価値もないものと断じられる。

 老人の言うように、自らの器を作ろうという試みは考えたこともなかったので寛は衝撃を受けた。

「自分で『自分』を作って良いんですね」

「はい。むしろ、自由に、主体性を持つことが大事だと思います。

 他者との交流の中で、いずれ人は自分だけでなく、他者の幸せも願えるようになるでしょう。

 それは自分が他者と接する時、つまり社会に接する時でもありますが、その際の独自の内部規範ともなります。外部の規律に左右されないそれは一つの理想形です。それを身につけた個人は『真の個人』とも言えるでしょう。

 こういった人間形成論は多くの物語で繰り返されてきた主題です」

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