第17話 対等なる個人2

 寛は言われてみれば、確かに多くの物語で主人公の成長が描かれているなと思った。

 寛の頭の中で、ツキミの家で観た多くの物語が急に色づいて、連関を成していく気がした。それは表層的な部分ではなく、本質的な深いところでのことだった。

 人はただ生きているだけでは利己的な人間のままだ。相対的な幸せを追い、他者を踏み台にしたり、されたり、蹴落としたりと忙しい。それはいつしか破滅へと至る道だ。

 それよりも他者の幸せを願えるまで成熟した個人となることは、多くの幸福を失わずに済む道のように思えた。何よりも他者に優しく生きられるのは、それを思うだけで胸に温かな灯火が現れたような感慨を寛に与えたのだった。その事自体が幸せなことだと思えた。

 また、真の個人にまで成熟した人こそが政治家になるべきなのではないかとも思った。

 偉い経歴や高い能力などよりも、他者の幸福を心より願える人だ。それは『公共』を担う上で、最低限の資質のようにも思われた。

 そういった人は胡散臭いだろうか。しかし、露悪的になっても仕方あるまい。別に露悪的になった先に真実があるわけでもないのだ。世の中に聖人は少ないだろう。多くの人が俗人であり、理想も欲も持っている。だが、欲だけの極悪人よりは全然ましだ。

 果たしてその人物がどの部類の人物なのかは継続して見ていくことで暴かれるだろうし、いずれ腐っても立憲主義と民主主義が機能していれば、本来自浄作用が働くはずだった。

 他者の幸福を本気で願えるような人々は、食い物にされるのが世の常なのだろうかとも思った。だとしたら、腐っているのは世の中だろう。

 寛はそういった人がもしいたら、そばにいて助けたいと素直に思った。それは子供のように無垢な感情だったが、いつしか失くなってしまっても良いもののようには思われなかった。

 同時に他者を幸せにするだけでは、やはりいけない気もした。その人も含めて幸福にならなければいけない。そうでなければ、醜悪な連中にいずれ献身のみを美徳とされて抜き取られ、一方的な搾取が正当化されてしまうだろう。だから、自分だけ、他者だけではないみんなの幸福を見つけなければならない。

 もしその人が公人であるならば、そばにいるわけにはいかないだろう。対峙することが彼らへの誠実さだ。そのことを理解できないものは、資質がないことを自ら証明していると言えるだろう。

 また、先程の老人の言葉を反芻していた。人は人の痛みや悲しみを完全に想像出来るのだろうか。もちろんそんなことは老人に聞くまでもなく、出来ないだろうことは理解った。

 だから、人は対話するのだろう。それは謙虚で誠実な行為だと思った。

しかし、それでも他者と完全に理解し合うことは難しい。きっと不可能だろう。だが、限界を知りつつも、近づくことが出来るし、もしかしたらそばにいることだって出来るかもしれない。

 人は少しずつしか良くなれないのだな、と思った。だが、その歩みを放棄することが、人の営みの中で最も愚かなことだろうとも思った。

 弱い立場の人をかわいそうだと同情するのは、良くないことだろうかとも思った。この問いは何故か機械的に頭に浮かんだ。

 同情するのは良くないということが、理由もよく検討されぬまま巷間に流布している気がする。

 恐らく同情は人を見下す行為であるからというのがその主たる理由だろう。しかし、本当にそうだろうか?

 本当に相手のことを見下していたら、悲しんでいようが、痛みを感じていようが何もこちらの胸が痛むことはないだろう。相手が本来自分と同じ対等な存在だと思うから、胸の痛みを感じるのだ。

 同情は人を見下す行為だという言説は、弱い立場の人や困った状況に置かれている人を助けないで良いとする正当化に使われているのではないだろうか。

 もちろん実際に弱い立場に置かれた人自身には助けを拒否する権利があるが、それは助けが必要かどうか聞いてみなければわからない。聞いてみることが何より重要だ。

 同情は優しさの種だ。聞いてみなければうまく発芽することもないだろう。同情は人を見下す行為だという言説はそれを阻害している。

 人は長い人生の中で苦境に立たされたり、悪い状態になることもあるだろう。それは相対的に弱い立場に置かれているということだ。もしかしたら、それは先天的なものであったり、一生続いてしまう類のものかもしれない。しかし、だからといって、その人が自分と対等な存在でないなどと断じるのは傲慢であり、それこそ見下しているのだと寛は思った。

 見下すとは人の意識の中でのことだ。目には見えないものだ。だから、自身で自身をチェックし、気をつけなければならない。

 もしも弱い立場の人を対等でない存在であるとしてしまえば、自身もまた誰かと対等でない存在であると是認することになる。自分だけが特別だと思うのは勘違い以外の何物でもないだろう。

 つまり、対等であるという見方を守ることは自身が何者にも脅かされてはならない、尊重されるべき個人であるということを守る規範でもある。それは、ひいては得られる豊かな公共を守ることにも繋がっている。

 また、助けが必要か聞いてもまともに答えられない状態ということもあるだろう。もしかしたら、自分を失くしてしまうという事態もあるだろう。ツキミのおばさんはその状態になることを想定して、先に自ら選択したのだ。

 本当に何の外圧もなく、自ら選択した人が居たら、それを尊重するのは大切なことだろう。一抹の寂しさを感じてしまうこともあるかもしれないが、それを尊重することが他者を尊重するということだ。

 だから、逆説的に言って、自ら選択することが出来ない状態である場合、他者を尊重する観点から、周りの人に出来ることはないということになる。『自分』があるかどうかの判断は、結局の所、『自分』でしか判断出来ないのだから。出来ることがあるとしたら、ただその状態の保全に努めるばかりである。

 それは周りの人からしたら経済的にも、心情的にもとても辛い時間だろう。彼らは長い時間試されることになるのだから。

 その境地は一種の極限だ、と寛は思った。言葉にすることなどかなわぬ、想像を絶する境地だ。だから、今、一般論として語ることは、彼らに対して容易に理解できると言うことは、謙虚さを無くした傲慢だ。しかし、難しい問題だからと彼らの世界を隔絶したものだとしてしまうのも、また酷薄な態度だろう。

 彼らを孤立無援にしてしまうのは、間違いだ。人を尊重するということは、勝手にしろと突き放すことでも、拒絶されることを恐れて横目に何もしないということではない。正面からまっすぐに向き合って、相手を慮り、恐れを抱きながらでも、手を差し伸ばす行為のことだ。

 もし彼らが手を伸ばしてくれればいつでもサポートできる、そういった状態を言うのであろう。

 そして彼らが手を伸ばした時、自責や迷惑ではないかという負い目を感じて欲しくなかった。こちらも迷惑だなどと思いたくない。「困った時はお互い様だ」と当然のように言いたい。

 それは自己責任論による破壊から、公共の財産である平等や公平を守る態度であり、魔法の言葉だ。ひいては自由を守ることにも繋がるだろう。

 自由とは「他人に迷惑をかけないこと」と嘯くのは簡単だ。確かに「他人に迷惑をかけない」ことが自由というのは基本的なことだろう。しかし、自重や忖度、勝手な想像で他人の迷惑を判断しがちではないか。それは貧相な自由だ。聞いてみたら、案外そんなことは無かったということは少なくないだろうし、交渉の余地もあるだろう。

 まっすぐな目線での対話こそが自由や平等、公平といった公共の財産を守り、育むものだ。

 自己責任の檻に囚われてはならない。囚われれば『貧相な個人主義』となり、『貧相な公共意識』の担い手となってしまうだろう。

 そこには他者はおらず、ただひとりぼっちの膝を抱えた人が居るだけだ。自己責任の檻に囚われ、幸福を求めることも出来ず、『自分』もわからず、想像の中の『他者』を慮る。これでは自らの器を作っていくことは出来ず、貧相な個人はいずれ大きな容器に容れられる他ないだろう。

 しかし、寛は自己責任論に囚われて貧相な個人主義に陥ってしまった彼らを一方的に責める気にはなれなかった。

 彼らは他者を想うという優しさの種は持っている。しかし、人は皆、対等な個人であるという共通理解がない社会では、それは育まれない。つまり、階級社会故に自己責任論に囚われて貧相な個人主義になってしまったのだと思った。

 例えば公共的な精神や社会を真理だと思いながらも、実際に目の前にあるのは階級社会であり、そこで生きていかなければいけないのが、この社会だ。ここに不協和が生まれる。

その社会に上手く適応できたものはコミュ力が高いなどと言われる場合もあるが、中には上手く適応できず人付き合いが嫌になってしまうものもいるだろう。階級的な社会が正しいとは思えず、馴染めないからだ。

 そこでは自分が見下されるだけならず、自分も誰かを見下すことを強要される。それは何よりもストレスだろう。なぜなら、それは彼らにとって罪だからだ。誰だって、汚れたくはあるまい。

 自己責任論に拠れば、そういった階級社会での不協和を一応は解決できる。自分よりも立場が弱い者はこれまでの努力が足りなかったのであり、自分に踏みつけられても仕方がない。そういう物語の上で生きるならば、他者は既に対等な個人ですらなく、見下してもいい存在になってしまう。良心の呵責に悩まされることも減るだろう。

 しかし、少し想像力を働かしてみるだけで、人には様々な事情や条件があり、只努力が足りなかったから弱い立場に居るわけではないことが理解るだろう。

 まっすぐな目線でじっくりと話した時、そのことに気づけるはずだ。

 それでも世界はそもそも不公平なものであり、それを嘆くのは甘えである、と既に取り込まれた人々は言いがちだ。

 そういった人々は、時には自分のほうが辛い立場にあったのだ、などと体験を交え正当化を図り、何故か相対的に言ってそれほど強くない立場の人間までもが自分より下の者には強く当たるのである。既に完全に取り込まれた彼らは、支配層にとって都合のいいスピーカーになってしまう。

 しかし、彼らが本来すべきことは自分の体験を元に社会を改善しようとすることだろう。

 なるほど、確かに世界は不公平なものだろう。しかし、みんなが住んでいるのは世界ではなく、社会だ。社会はより良い方向にデザイン出来るはずだ。ならば不公平を完全に無くすのは不可能かも知れないが、なるべく無くそうとするのが社会というものを作った意味の内の一つだろう、などと考えるのは嘆きや甘えだろうか。

 いや、違う。これは意見だ。嘆きや甘えだと感じてしまう人は、まるで子が親にそうするかのように感じられているわけで、お上意識が強いということだ。この社会の主体者であるという意識が希薄なのだ。それは自分のように足枷をつけられた人の発想だ、と寛は内心苦笑した。

 しかしまた、不協和から自己責任論に囚われて貧相な個人主義に陥ってしまった人々は、無意識のうちにでも人を見下す罪を感じているのだろうと思われた。彼らはその隠された罪を、自身も階級社会に組み込まれ、見下される存在だということを受け入れることで贖っているのである。

 自己責任論は彼らにとって、罪を隠すのに都合のいい物語だった。そして、階級社会に組み込まれることで、自動的にその罪は精算されもする。

 一見完璧なシステムだ。

 だが、やはりここに『幸福』はない。個人にとっても、社会にとってもだ。

 誰にとって完璧なシステムか。それはやはり支配層にとってだろう。個人は貧相になり、社会も改善されることはない。

 階級社会が保たれるということはつまり、支配層のための社会が今までどおり保たれるということだ。秩序は保たれ、支配層の幸福も保たれるのだ。

 結果として、自己責任論は秩序を強化し、階級を再生産する。それが自由を蝕み、公平や平等を壊す。「他人に迷惑をかけるな」という怒声となり、増々人は他者に手を伸ばすことが出来ず、自己責任の檻に囚われる。

 支配層以外の大衆社会全体が自己責任論に囚われてしまい、その果てに自殺薬の受容があったと考えられるのではないか。

 ツキミのおばさんは例外だろう。彼女はあくまでも自分の幸福のために飲んだ。

 しかし、日本人で自殺薬を飲む多くの人は、決して、自らの幸福のために飲むのではない。家族を含めた他者に迷惑をかけたくないから飲むのである。そんな不幸な終着点で良いのだろうか。

 そして、さらにその不幸を促進したのが現憲法二十四条『家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない』という項目だろう。

 現在では、『個人』が無くなり、『家族』が基礎的な単位となってしまった。そこでは自己責任ならぬ、家族責任が問われるのである。個人は認められないが、実質的には、自己責任の檻はまだ生きている。自己責任という言葉は、『個人』という本来豊かな世界へと人々を解放する魔法の言葉を、檻に変えてしまう呪いの言葉だった。人々は社会にある様々な檻に加え、強固な二重の檻に最初から囚われている。

 現憲法二十四条によれば家族の幸福が、家族の一員その人の幸福よりも優先されるというわけだ。だから、多くの年長者が自殺薬を服薬する結果になったのである。それは明らかに外圧がかかった状態だろう。個人の『幸福』に基づくものでは有り得なかった。

 だが、その家族を責める気にも寛にはなれなかった。

『家族』という小さな社会で人を支えることは困難だろう。場合によっては二人きりの社会で老老介護ということもよくある話だったはずだ。そこではやはり想像を絶する境地があったろう。

 だから、みんなで助け合えるよう、囲いの無い社会がデザインされるべきだったはずだ。

そのデザインのためには個人の幸福に基づいた上で、一人ひとりが主体性を持ち、社会の幸福、つまり『公共』を描かなければならなかった。

 そのためにはやはり、公共的な社会でなければいけなかった。対等に話し合える社会でなければいけなかった。

 しかし、階級社会である故にそれは阻害された。個人は貧相になり、主体性も無く、貧相な公共が支配層によって描かれてしまう。そして、また、それを自然なことなのだと受け入れてしまう。

 多くの人々は「他人に迷惑をかけるな」という恣意的な正義に支配されていたことだろう。そしてそれを律儀に守り、相互監視するわけだ。なぜなら、秩序こそが社会正義なのだから。

 行き着く先は自殺薬の受容しかあるまい。

 しかし、どうしてこうも階級社会が大衆にもこびりついているのか?

 階級は再生産されるからだというのが一つ考えられるだろう。階級化を正当化する論理、上下関係や、相手を見下しても良いという風潮は当然のようにはびこっている。

 特に、ある価値観から見た時に、相手を見下しても良いという風潮が対等にさせない社会を促進している。

 例えば、仕事の有無・貴賤、箸の持ち方に代表される中身のないマナー、容姿、学歴、金銭の多寡、ファッション、人々はランク付けが大好きだ。

 だが、それらはすべて社会的装飾品に過ぎず、すべて社会がなければ成り立たないフィクションだ。

 人間の本質はそんなところには無い。それらをして人を見下すのは、人間の尊厳を汚す行為だ。また、その時、自分も汚れているのである。

 階級の再生産の主たる正当化の論理は、自分が不当に扱われたのだから、自分もまた他者を不当に扱ってもいいのだということだろう。また、不当に扱われないと許せないのである。そしてこの負の連鎖が繰り返されることによって、階級は強化されていく。

 箸の持ち方一つで他者を見下すことのなんて愚かなことだろう。その人が料理を口に運ぶのに困っていないのなら、口を出すことではあるまい。一体そこからその人自身の何が理解るというのか。育ちが悪い?教えてくれる人が周りにいなかった?そんなことがその人の本質的なところだろうか。重要なことだろうか。その人自身をまっすぐに見られているだろうか。

 恐らく人が人を見下す時、それは自覚的には行われない。無自覚に見下すのである。それは既に醜悪なるものに完全に取り込まれたものの態度だ。階級構造を再生産し、強化する無自覚はもはや罪だ。

 箸の持ち方に自動的に難癖をつけたくなるものは、踏みとどまり、自己分析し、自覚しなければならないだろう。それは先輩に敬語を使わない後輩に違和感を覚える自分も同じだ、と寛は思った。

 もしも自動的に他者を見下してしまう自分が居るのなら、結果としてそれは自分の幸福も上位存在に捧げ続ける行為であり、第三者の幸福も毀損する行為だ。

 いつまで経っても階級構造は続く。いつまで経っても原始的な社会のままだ。

 そんなことを繰り返していく内に『個人』は中身スカスカの貧相な体になっていく。社会的装飾品をいざ脱いだ時、一体何が残るだろうか。

 同じ社会に住むものとして重要なのは、箸の持ち方を一様にすることでは断じて無い。箸の持ち方はバラバラでも構わないから、美味しい料理をいっぱい食べて、幸福を共有することだろう。

 中身のある、実り多い社会にするためには、対等に話し合って、共有できる幸福を探すことだ。対等に話し合うという事自体が大きな幸福でもあるだろう。なぜなら、そこには協和が生まれようとしているのだから。そして、その先に公共も産まれ得る。社会における『公共』とは、共有できる『幸福』のことだ。

 時には対立することもあるだろう。しかし、我欲のみに走らない、対等な話し合いが持たれれば、いずれ『公共』は作られる。我欲のみを追求すれば、いずれ破滅へと至る。階級の論理で自分だけが永久に『幸福』でいられると思うことは傲慢だろう。それは歴史が証明している。

 『個人の幸福』に基づいて話し合うことは我欲の応酬になってしまうだろうか?

 そんなことはないだろう。『個人』であるということは互いに尊重されるべき対等な存在同士であるということを含んでいるのである。ならば、自然と妥協や共有できる幸福を見つけ、時には『他者の幸福』を願い、『公共』へと至るだろう。

 もちろんその『幸福』は、自分の不幸や他者の不幸によってもたらされてはならない。基本的に『みんなの幸福』でなければならない。しかし、自分には直接関係はないが、自分も不幸にはならないし、『他者の幸福』にはなるだろうということが考えられる。

 例えば、寛にはLGBTの友人は居ないし、居ても隠しているが、彼らが堂々と暮らしやすい社会になればいいと思う。

 老人や障害者が爪弾きにされて、自殺へと道を狭められてしまう社会ではなくなって欲しいと思う。

 あたり前のこととして、外国人労働者と自分たちは同じ人間であるという意識でいたい。

 彼ら全員に幸せになってほしい。

 彼らと共に幸せになりたい。

 そう思うことが愚かだろうか?いや、立ち止まり、ただ冷笑的に振る舞うことが愚かなのだ。

 これは偽善だろうか?偽善でも良い。露悪的になっても、それは真実でもなければ、現実でもない。支配層のための正当化の論理に過ぎない。

 お互いを縛り合うためだけの、秩序のための中身のないマナーや、酷薄で消費的な優越心を満たすためだけの物差しももう要らない。

 ただ誠実に、まっすぐに向き合って、お互いを大切にしたい。幸福や自由や平等や公平や愛が社会にとっても、大切なものなんだって、真面目に話したい。

 そんな社会を作ることは難しいことだろうか。すぐそこに『幸福』はあるかもしれないのに、いつまでも上から生産性で区切られているほうが、楽だから良いというのだろうか。でも、それは『幸福』から遠のき、『不幸』へと至る道だ。

 もう自分が不幸だってことも理解らなくなっているのかもしれない。何が幸福なのかを知らないから。

 誰それよりマシだって、安心できることが幸福だって教えられてしまったのかもしれない。なんて『貧相な幸福』だろうか。

 『個人』と『公共』は互いに栄養を交換し合い、成長していく関係にあるのだろう。多くの人々にとってより良い社会とは、幸福に基づいてこの二つが自覚的に支え合っているのではないか。

 『個人』とは、個でありながら、個であるが故に、自分だけでは幸福は成立し得ないことを知っている人のことだ。

 『個人』が他者の幸福を願う時、そこには愛が産まれている。それは一方的な関係ではない。直接返ってくるものではないかもしれないが、連環的な関係だ。その先にあるのが『公共』だ。

 だから、檻に囚われた『貧相な個人主義』ではなく、お互いに手を伸ばし合える『豊かな個人主義』を作らねばならない。

 そのための絶対必要条件はお互いが対等であるという自覚の元に行われるコミュニケーションであり、そこから産まれる愛という栄養素なのである。『豊かな個人主義』が補完的に連なった先に、公共的な社会が現出されるだろう。それは「困った時はお互い様」だと言える社会だ。

 そこには、真の幸福がある。

 だが、その幸福を簒奪しようとしたり、毀損しようとしたりして、自らの利益に変えようという連中も出てくる。

 いわゆる新自由主義者や歴史修正主義者、差別主義者だ。彼らがヘイトスピーチやヘイトクライムをしたり、我欲のみに駆られた行いをする時、社会は確実に傷つき、不幸へと向かっている。実際に彼らは他人の不幸から自分の利益を得ている。

 そんな連中を放置しておくべきだろうか。黙っていれば、確実に自分たちの幸福は奪われるというのに。

 それとも自らも醜悪なるものの一部となって、簒奪に加わるべきだろうか。しかし、待っている先は現在のような破滅だろう。

 自分たちの幸福を守らねばならない。他者の幸福を守ることは、自分の幸福を守ることに繋がっている。どちらが欠けてもならない。それが社会というものだろう。

 社会において常に問われなければならないのは、それは誰のための幸福か?そこに自分も含めた誰かの不幸が紛れ込んではいないか?ということだろう。

 富める者がより富めないことを不幸だと嘆くことがあるだろう。しかし、それは不幸とは言えない。貧者がより貧しい者を見て、自分は幸福だと安心するのも、幸福とは言えない。

 上下でしか捉えられない人間観には絶対的な幸福は存在しない。人は人と比べることでしか、幸福を感じられないと嘯くのは取り込まれたもののセリフだ。

 まっすぐに、対等に他者と向かい合えれば、幅も、奥行きも、深みもある豊かな幸福があるだろう。そこでは誰とも比べる必要のない、独自の、絶対的な個人が育まれる。そしてそれを阻害せず、むしろ促進させる公共社会がある。

 社会とは、つまるところ保障装置である。それは個人が幸福となるためにある。決して、誰かの不幸を促進し、一部の人々にのみ恩恵を与えるものであってはならない。

 共産主義ってわけじゃない。だが、金に使われるのも、国家に使われるのも御免だ。

 金も国家も、自分たちの幸福のために使いたい。主体的でありたい。そういう社会でありたい。だから、個人でありたい。


 そういったことを一気に寛は考えた。

 自分にとっての絶対的な幸福はどこにあるだろうか?

 答えは決まっていた。

 だが、その前に、老人に最後に聞きたいことがあった。

「この社会では個人で在り続けることは、非常に困難ですよね。恐らく、改憲前からそうだったはずです。何か良い方策はあるでしょうか?」

 老人は火に薪を加えて言った。

「ある憲法学者の本に書いてありました。個人を保つためにはやせ我慢が必要である、と」

「えっ」

 ここに来て根性論か、と寛は正直思った。

 老人は寛の表情を見て、微笑んだ。

「私も初めてそれを読んだ時、イマイチしっくり来ませんでした。

 しかし、それはどんな相手にも対等たろうとする態度を表しているのですね。ハッタリや安いプライドなどとも言い換えられると思います。

 例えば、昔観た洋画で、冴えない少年が憧れている綺麗な、少し大人っぽい少女に声をかけるんですね」

「ああ、そういうシーンよくありますね」

 寛は何故かそういうシーンを観ると、いつも叫び出したい気持ちに駆られた。これから起こる恥ずかしい出来事、断られて惨めな気分になる少年の心にリンクしてのことだったと思う。

「そうですよね。非常によくあるシーンのように思います。もちろんそこから物語が始まるからという実用的な意味もあるのでしょうが、それ以上に重要なメッセージがここにはあると思うんですね」

「と、いいますと?」

「大抵の作品では、少年はその時、なるべく堂々と振る舞おうとするんですね。それはいわば自分に下駄をはかす行為で、ハッタリです。相手と対等な目線に立とうとするのです」

「上でもなく、下でもなく、ただ同じ目線で対話するために必要な行為だということでしょうか。つまり、『個人』を保つためというわけですか」

「そのとおりです。相手と対等である個人同士でなければ豊かな関係は築けないということも理解っているからでしょう。見下したり、見上げたりする関係の中に、お互いを想い合う愛は実際上築き難いのです。だから、少年はハッタリを使うんですね」

「けど、ハッタリとかやせ我慢や安いプライドって、何だか日本だとイメージ悪いですね」

「そうですね。それらはよく攻撃されます。でもそれは、露悪的で階級的な連中の勝手な言い分だと思います。嘘をつくなよ、本心を言えよ、本当はお前は弱い奴なんだろ、と突っつくわけです。何の権利もないのに、安いプライドならば踏みにじってもいいとするわけです。

 しかし、それは人間の尊厳を踏みにじる行為です。それがハッタリだろうが、やせ我慢だろうが、安いプライドだろうがその人自身の物ですし、それらの価値は本来その人にしか決められません。その人にしかどうこうする権利はありません。

 露悪的で階級的な連中の行為は同情とは違います。同情とはあくまでも対等な立場から『大丈夫か?』と聞く行為でしょう。しかし、ここでは相手を尊重しようという態度は見られません。彼らは自分が汚れてしまったから、他の人も汚れなければ気が済まないといった類の連中です。自分が見下される存在であるから、他人もそうでなければ気が済まないといった連中です。彼らにとってはそれが真実であり、現実ですから。

 しかし、人には招かれねば入ってはいけない領分というのがあります。『個人』とは精神的に『個別の領域を持った人』とも言えるでしょう。

 それにしても、日本は確かに対等たろうとする頑張りを挫こうとしますね。上下ばかりを気にする社会だからでしょうが、『出る杭は打たれる』という言葉が象徴的ですね。ハッタリ、やせ我慢、安いプライドという言葉にマイナスイメージがある理由は、そういう社会的背景が作用したことは間違いないでしょう。

 階級社会であるがゆえに秩序という社会正義を保とうとするということ以上に、やはり自分より立場の弱い者には何をしても良いんだという考えが根強いように思います。それがこの社会を維持する何よりの燃料に思えてなりません。

 もしかしたら、これが日本社会の本質なのかもしれませんね。そうは思いたくありませんが」

 だとしたら、中身スカスカよりなお悪い。いや、比べ物にならない位、性質が悪い。『個人』同士の対等な社会観など望むべくもない。

 はっきり言って、日本は反人権社会だ。人権という言葉すら何か毛嫌いされている節がある。

 プライドを持て、と言われるより、プライドを捨てろと言われることの方が多い。プライドが高い、と言われる時、それは決して褒められてはいないだろう。

 だが、そもそもそれは高いとか低いとか値踏みされて良いものだろうか?

 ふと、中学三年生の頃、ツキミを抱きしめた時のことを思い出した。

 まるで取り残された子供のようなのに、必死で大切なものを守ろうとするその姿に心打たれた時のことを思い出した。

 自分はそんなツキミを愛しいと思い、頭にキスをした。

 やせ我慢でもハッタリでも、安いプライドでも何でも良い。重要なのは、『個人』を保つのに必要なのは、断固として渡さぬ、守ろうとする意志なのだと寛は悟った。

 そして、一人ぼっちでも、時に寂しさに耐えてでも、攻撃に晒されようとも『個人』を守ろうとすることこそが『強さ』なのだとも思った。

 それは特に日本のような階級社会下では、厳しい闘いだろう。

 そうだ、これは闘いだ。相手がどれほど凄かろうが、偉かろうが対等たろうとすることを守る闘いだ。

 また、寛はこうも思った。

「対等たろうと頑張るシーンが今でも繰り返し描かれているということは、この闘いは今でも、どんな社会でも常に起きているということではないでしょうか?

 だとしたら、やはり、わたし達もまた、対等な『個人』であることを守るために頑張らなければいけないのではないでしょうか」

 老人は寛の言葉を噛みしめるように頷いた。

「なるほど。確かに、そのとおりです。いけませんね。私はついつい露悪的になっていたようです。そこに行っても、『幸福』に根ざした真実があるわけでもないことを知っていたはずなのですが。

 気付かせてくれて、ありがとうございます」

 そう言って、老人は微笑み、寛は少し照れた。

 老人が言う。

「露悪的になるのではなく、そこで立ち止まって冷笑的になるのではなく、批判や分析を加え、反省しなければいけませんよね。冷笑的になるということは、多くのことを見下し、切り捨てるということに他ならないのですから。

 私達は自分が大切にされなかったから、自分も誰かのことを大切に扱わないでいい、などと開き直るのではなくて、負の連鎖を止める努力が必要だったということですね。

 見上げない努力も大切ですが、見下げない努力もまた大切です。対等を保つということは両方向からの努力が必要であり、バランスが大切だということですね。

 少し具体的に考えれば、もしも自分が不当に扱われても、関係のない第三者に当たるのは間違っているということです」

「言葉にすると、ものすごく幼稚で、なんだかつい呆れてしまいますね」

「はい。しかし、階級社会である日本では、実際に対等を保つのは、つまり『個人』を保つのはやはり非常に困難でした。

 階級社会の特質として、支配層がもし下の者を大切に扱わなくても、罰することができません。一旦不公平、不公正が産まれると、階級社会ですから、下の方向へと延々と負の連鎖が始まります。これは単純化したモデルではありますが、実際にそのようなことは改憲前の日本では特に頻繁に起こっていたように思います。いわゆるモラルハザードなどと呼ばれていました。

 超一流と言われていた企業の不祥事が相次ぎ、もはやどの企業が不祥事を起こしたのかも覚えていられない程でした。

 スポーツ系の団体トップの不祥事も相次いで起きました。

 何より一番ひどかったのは政権でしょう。国家の最高機関であるはずの国会を軽視して、いい加減な答弁を繰り返す。これは国会議員という国民の負託を受けて代表となった人々を軽視しているということであり、つまりは国民を軽視しているということです。

 法案に必要なデータはいい加減極まりないものであり、それが野党により暴かれても、気にせず強行採決をする。後の取材ではいけしゃあしゃあと議論は十分に尽くしたと言い張る。こんなことが通用してしまうということは、じわりじわりと既に独裁国家の体を成しつつありました。

 政権の中でも特に首相は、野党に痛いところを突かれるとすぐに前の政権よりはマシだったと論点をずらしました。基本的に他人のことを舐めていましたし、『他者』の痛みがわからない人間でした。実の父親にもそんなことを言われていたというのは有名な話です。

 忘れられないのは現在の外国人労働者をさらなる劣悪な環境へと導いた法案に関する質疑において、人が何人もその時点で死んでいるというのにヘラヘラ笑って、そこでも馬鹿にした態度で答弁していた、その姿です」

「何だか、真面目な子供に政権運営を任せたほうがまだ良い世の中にしてくれそうな気すらしますね」

「本当にそのとおりです」

「私利私欲に走らず、みんなの幸せを真面目に考えてくれそうな気がします」

「しかし、実際には私利私欲にのみ走り、利権集団と化した政権がやりたい放題の状況が延々と続いていました。そして、その状況は更に悪化して現在へと引き継がれています。

 与党は過半数以上を維持していましたから、なんでも通ってしまいます。しかし、だからといって国会なんて無意味だと国民が断じて無関心になってしまうのは、政権の思う壺でした。彼らの手口は常に権力によってゴリ押しし、権力を縛る鎖を緩め、その状態に国民を慣れさせることでした。多くの国民が異常事態を異常だと認識できていませんでした。民主主義と立憲主義の持つ自浄作用を壊すことが目的だったのです。

 また、階級社会故に上が公正さを欠けば『じゃあ、自分だって良いだろう』と人々は思ってしまいます。そこに自己正当化の論理を見出し、取り込まれ、人を見上げるか、見下すかしかしなくなります」

 目の前の不公正に負けて、自分も取り込まれれば、上の横暴に目を瞑ることになる。なぜなら、自分も共犯だからだ。やはり、ろくなシステムではないな、と寛は思った。

「モラルハザード、いや、モラルの崩壊、倫理に反すると言った方がより適切な社会状況でした。はっきり言って、社会は壊れようとしていました」

 その後に訪れたのが支配層が望む社会だったというわけだ。しかし、いきなり変わったわけではない。まるでアメーバのようにじわじわと権利を侵害する醜悪なるものの姿が寛には幻視された。

 なるほど、確かにそういう状況下で『個人』をただ一人きりで守るというのは難しそうだ。

「だからこそ、必要なのは、草の根的な、大衆の中での対等な話し合いであり、つまり『個人』と『個人』が連帯することなんですね」

 『貧相な個人主義』も対等に話し合うことで育まれ、『豊かな個人主義』となる。その結果として、『貧相な公共意識』も『豊かな公共意識』へと変わる。

「はい。支配層を自認しているような連中から自発的に変わるというのは有り得ないことでしたから、主体的な個人同士の繋がりにより社会を変えていく必要がありました。この社会は自分たちのものだ、自分たちは責任を持っているのだと意識するだけでも全然違ったでしょう。

 それは、少なくとも旧憲法下においては、本来の姿を取り戻すという正当性のある行為でした。だから、そのチャンスを逃さずに社会全体で公平、公正さを求める社会作りが必要でした」

 支配層が殴ったからと言って、じゃあ、自分よりも下のものを殴ろうというのはおかしい。殴ったやつが罰を受ける社会でないとおかしい。こんな簡単な理屈はそれこそ子供でも理解ることだろう。しかし、それがずっとこの社会は是正されてこなかった。

 権力を握っている者にも、いや、そういった人々にこそ適正な罰が必要だろう。人は必ず間違いを犯すし、それが見逃され続ければ、権力は腐る。これは人類が歴史から学べる真理の一つに思えた。歴史を学ぶのは、決して偽物の自尊心を満たすためではない。二度と同じ間違いを犯さないためだ。

 また、権力者が『公共』を傷つけたり、簒奪したのであったなら、なおさら重罰であるべきだと寛は思った。なぜなら、そういった人々はみんなの幸福の結晶である『公共』を守り、育む立場にあるが故に権力をふるうことを許されていたのだ。それを私的に利用した上、みんなの幸福というとても大きなものを傷つけるなど言語道断だ。罪悪感というものがあるのかどうかすら疑ってしまう。ならば、やはり適正な罰を設け、間違いなく機能する仕組みを作る他ないだろう。そして、それにはやはり、国民の不断の努力が必要だ。

 お隣の国を揶揄するネット記事の中に、大統領が捕まって二十年以上の懲役刑をくらったという話があった。それは十年以上前の話のようだった。しかし、それを揶揄する前に、自国を振り返ってみて、おかしさに気づくべきだろう。冷笑的に振る舞って思考停止している俺達を見て、支配層は嘲笑しているのだ。

 先程、老人は多くの国民が異常事態を異常事態だと認識していなかったと言った。しかし、もしも私的な領域を目の前で侵されたら、誰だって反抗するだろう。例えば、家庭や自分、恋人のことだ。そんなことはもちろん許されるべきことではないからだ。

 しかし、それが許されてしまう、正当性を得てしまう社会がすぐそこに来ているのだという危機を知らせ、共有することが当時重要だったはずだ。

 恐らく憲法が変わっても、何も変わらないと多くの国民はなんとなく思っていたのだろう。しかし、それは間違いだった。それは足枷を明確につけられ、私的な領域など一切持てない、自らが所有物となった瞬間だった。

 奴隷とは何も持たぬものだ。己の生命さえも自分の所有物ではないのだ。そのことは寛には身に染みて感じられた。そして、それでも、業火のような感情が身の内に育っていくのを感じた。

「『個人』同士の連帯を阻害する要因はいくつもあります。上下を正当化する様々な論理、分断化され、憎悪感情は募り、またそれを忌避し、何が自分の幸福かも理解らぬまま、いつの間にか檻に入れられていく。

 そういった『貧相な個人主義』に陥らないようにすることが、まずは何より肝要でしょう。

 とりあえず出来ることは近くに理解者を得ること、ということでしょうか。

 『個人』は確かに時に寂しさに耐えてでも、己が努力にて対等を保たねばなりません。取り込まれてはなりません。そのためにハッタリ、やせ我慢、安いプライドなどを駆使します。しかし、それには限界があります。ただ一人きりなのと『個人』は違います。『個人』とは、人との関係の中で保たれ、育まれていくものに他なりません」

 『幸福』、『他者』、『自分』、それらがなければ『個人』は産まれ得ない。そして、それは『他者』との関わり合いの中で、社会の中で育まれていく。

 だが、もしかしたら、社会が巨大に成りすぎたということもあるのかもしれないな、と寛は思った。

 あまりに巨大に、大量に成りすぎて、『他者』をじっくり見られなくなった弊害があるのかもしれない。

 以前、友人が、飲食店員にお礼言うやつってなんなの?と言ってきたことがある。レジで金を払う際のことだろう。そんなの言われた方も困るよなって、もう一人の友人が言っていた。しかし、何故言ってはいけないのか?

 金を払って商品を買うという行為の反対側には金を受け取って商品を売るという行為があるわけで、対等な関係である。そこに店員が「ありがとうございました」と載せてきたなら「どうも、ごちそうさまでした」位返したって良いだろう。別に彼らは客の下に居るわけでも、上に居るわけでもない。むしろ、お礼を言う人は店員をきちんと対等な人だと捉えられていると言えるのではないか。

 だが、ここには上下観とは別に、人を人としてすら見ていないのではないかという疑念が浮かぶ。人ではなく、何か役割を果たすだけの人形のように見えているのではないか。

 確かにファーストフード店で目の前が衝立のカウンター席で食べている時など、自分自身のことでさえ飼い葉を食べている牛の気分になることがある。

 また、通学時の満員電車に揉まれている時もそうだろう。人口が減ったら、満員電車も無くなりそうなものだが、それに合わせて電車の運行本数も減らしているから相変わらず満員電車はある。

 多くの大人は死にそうな顔をしてつり革に捕まり、うつむいている。目を細めて見れば、絞首刑を連想させるシルエットだ。急に怒り出す人もよく見かける。降車時に足が当たっただの、イヤホンから音楽が漏れているだのの理由でだ。だが、それらはすべて満員電車という環境ならば仕方のないことだ。混んでいれば移動時に足も当たるだろうし、至近距離ならば音楽だって漏れ聞こえてしまうだろう。

 彼らは常に耐えていて、ふとしたきっかけで暴発してしまったように見えた。そして、その姿はとても人間らしいもののように見えた。つまり、普段彼らは自由な人間性を押し込めているのである。まるで出荷される商品のように、きちんと自身を梱包して大人しくしているというわけだ。

 だが、そういった生活様式は自分自身からして、尊重されるべき人間であるという意識を薄れさせるものなのではないか。そして、結果として他人のこともそう見てしまうのである。

 巨大で、大量なマス社会は確かに強大で、かつ便利だ。だが、目の前の人とじっくりと向き合う、つまり自分と同じ人間であるということを忘れがちにする社会のようにも思えた。入れ替わり、立ち替わり、目の前に現れては消えていく、スクリーンに映された影のような平面的な人間観に陥りがちなのではないか。そして、そこでは自分自身も平面的な影に過ぎない。

 では、そんな社会で求める『幸福』とは何なのであろうか?やはり、巨大で大量で、強大で便利なものになってしまうのか。

 それはどうしたって相対的な『幸福』だろう。しかも、消費的なものである。また、自分自身でさえ消費されるものとなってしまう。

 その社会で一本貫かれる指標が、金ということになるのだろう。あらゆるものを相対化、数値化し、換算してくれるから、あらゆるものの社会的位置を示してくれる。

 確かに便利かもしれない。己の社会的位置を示してくれるし、金さえあればその社会での存在価値も高められる。

 だが、それは所詮取り込まれたものの価値観だ。外部的な指標に過ぎない。

 それは社会的フィクションであり、所詮泥で塗り固めた巨大な高層タワーに過ぎない。

 確かにフィクションでも構わない。どのような社会でもフィクションには違いない。それに自覚的で、選べるならなお良いが、問題は、そのフィクションが『幸福』に根ざしているかだろう。そして、幸福は私欲のみでは有り得ない。『他者』もいて、『自分』もいるから社会なのだ。

 あらゆる人が『幸福』になるためには『個人』という基盤なしには有り得ない。これは真理の一つだろう。

 また、高いとか低いとか言っているうちには、絶対的な幸福は訪れない。それどころか、そうしているうちに『幸福』を追い求めているという大前提さえ人は忘れてしまうのではないか。

 悪貨は良貨を駆逐するのが世の習いというが、人は物ではない。人が人をまっすぐに信頼できれば、そのことを思い出せれば、どうにかなったのではないか。いや、どうにかなるのではないか。少なくとも、そう信じて生きる他ないように寛には思われた。

 マス社会における金という指標に、国家が憲法でお墨付きまで与えてコントロールしているのが今の日本社会だ。

 国家とは本当に何のために必要なのか?内にあっては、弱者を守るため。外にあっては、戦争をしないよう努力するための機関に過ぎない。少なくとも、国民の幸福を搾取、簒奪するなどあってはならないだろう。そのことは先の大戦で既に痛いほど学んだはずだ。

 国家があって、社会があるのではない。社会があって、国家があるのだ。そして、社会は人なくしては成立し得ない。

 しかし、実際には国家と社会が混濁してしまった。本来支配層のための国家にならないよう対峙しなければならない個人、ひいては大衆社会が、支配国家に迎合してしまった。その結果、自分は支配層側なのだと勘違いする人々が続出する始末だ。国家と個人が混濁しているのである。

 国家のことを無批判に信用するのはあまりに愚かなことだ。そんなことをしていれば、手品師なのに超能力者だと平気で嘘をつき、大切なものを簒奪していく。

 今や国家は何よりも肥大してしまった。社会を国家で塗りつぶし、人まで圧し潰そうとしている。内にあっては、弱者を虐げ、強者を助ける。外にあっては、強者におもねり、国民を使って戦争のお手伝いまでする。こんなのは本末転倒だろう。

 こんな社会で正気を保つには、共感してくれる他者が必要だった。

 おかしいことに気付き、理解してくれる他者。その他者に触れることで、豊かな幸福にも気付けるだろう。そんな特別な他者はやはり、寛にとっては一人しか思い浮かばなかった。

「ありがとうございました」

 寛は立ち上がった。

「行きますか?」

「はい。会いたい人が居ます」

「それはとても良いことですね」

 老人は笑った。

 寛はもう一度お礼を言って、立ち去った。

 振り返ると老人は一人、木彫りに没頭していた。

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