第15話 奴隷となった国民2

 寛は少し考えてから、言った。

「えっと、例えばライオンがシマウマを食べるのは当然で、それは力の関係上仕方のないことだということではないですか?」

「そうですね。では、翻って、人間社会で弱肉強食を唱える人というのはどういう人でしょう?」

「う~ん、別に力が強いからってわけじゃないですよね。何か頭が良いからとか、そもそもお金があるからだとか、またはそうなりたい人が言いがちなイメージがあります」

「そうですね。自然界とはずいぶん違いますね。ということは、つまりここでいう弱肉強食とは人間社会上にのみ作られた階級化のためのフィクションだということです。

 もちろんこのフィクションを信じるのは自由なのですが、これを信じて資するところがあるのは既に支配層である人々だけでしょう。

 これを大衆の人々が信じたところで、彼らの幸福に資するところがあるのでしょうか。おそらく恵まれない環境に自分の中で折り合いをつけられるくらいのものでしょう」

 反知性主義に無自覚な大衆が、また自覚的な支配層に都合よく使われているようだ、と寛は思った。

 気をつけていないと、実に様々な言葉で分断されて階級に囚われてしまう。そして、それに自覚的でないと、批判を向ける矛先すら間違えてしまうのだ。それは無自覚に階級社会を強化し、再生産し、支配層に利する行為だ。

「階級社会というのはやはり、支配層にとっては非常に都合の良いものですね」

「ええ。頑なに支配層は階級社会を守ってきたものと思われます。なぜなら既得権益を持っている支配層にとってこんなに楽な社会構造はないのです。

 日本における大衆の社会正義とは秩序そのものを守ることでした。

 それでは、それによって大衆が得るものは何でしょう?」

 何だろうか。腐敗したナショナリズム。相手より一枚上だと思える優越心。自分を納得させる方便。

「あ、根源的欲求、自分の居所を得たいっていう欲求ですか?」

 老人は頷いた。

「はい。恐らくそうだと思うのです。

 大衆は大衆であるがゆえに、つまり多数派は多数派であるがゆえに安心できます。

 だから、その秩序を壊そうとするものは敵なのです。だから、大衆である多数派が勝手に階級構造を守ってくれるのです」

 なるほど、これは楽だわ。寛は思った。

「安心できるという効用が実は日本の大衆的反知性主義の源泉でしょう。

 そして、現憲法言うところの『公益及び公の秩序』に反するなというのは悲しいかな、こうした大衆の性質を先取りしたものでした。

 本来ここには『公共の福祉』という言葉が入っていたのですが」

 『公益及び公の秩序』とは現憲法にある言葉だ。これによって、国家からの様々な制約が正当化されている。『公益及び公の秩序』とは『国益及び国家の秩序』ということであり、要するに支配層の利益とその利益を産む階級構造に国民は反してはならないというだけのことだろうと、今の寛には理解出来た。

「『公共の福祉』とは何でしょう?社会理念とか社会正義のことでしょうか」

 福祉とは幸福のことだろう。ということはみんなの幸福ということだろうか。

「『公共の福祉』とは多義的な言葉であり、歴史的にも変遷しているので定義の非常に難しい言葉なのですが、改憲前の最も有力な説は個人と個人の間での人権衝突の際に調整のために現れる公平原理とされていたようです」

「え~と、どういうことでしょう?」

「個人が人権を自由にふるう時、全員が全員気ままに振る舞ってしまえば必ずどこかで衝突が起こりますよね。

 例えば、あなたがテレビゲームをしていたとしましょう。そこに弟がいたとします。他のゲームがしたいとやってきたとしましょう。でも、あなたは始めたばかりで、まだゲームを続けたいのです。あなたならどうしますか?」

 寛は架空の弟を想像して考えてみた。

「うーん、そうですねぇ。一時間交代とかが妥当じゃないですかね」

「なるほど。その時、きちんとゲームを始めたばかりだと事情を説明しますか?」

「まぁ、多分」

「それなら弟はある程度納得してくれそうですね。

ところでこの二人の間にあるのは一時間毎という、公平の原理ですよね。それはお互いのゲームをしたいという個人的欲求に基づく人権衝突を上手く調整してくれました。

 非常に卑近な例ではありますけど、これは『公共の福祉』が立ち現れた一例だと言えると思うのです」

「なんとなくわかった気がします」

「良かったです。

 ところで、あなたは先程『公共の福祉』とは社会正義や社会理念のことかとおっしゃいましたね。字義どおりの『公に共有する幸福』だと予想したわけですね」

「ええ」

「私も実は常々そうであったら良かったのにと思っていました。

 『公共の福祉』を大衆の中で話し合うことでいわゆる社会理念や社会正義へと昇華出来たら良かったのにと思っていました。あくまでも自分たちが守るべき規範は自分たちで決めるのだということです。そしてそれは何より個人の幸福に根ざした上でのものでなければなりません」

 寛の脳裏に小中学校の頃の『道徳』科目が浮かんだ。しかし、それは全体主義的な内容のお話であったり、なぜか主人公が無条件で奉仕することが礼賛されるといったお話ばかりだった。それは一方的な搾取ではないのか?という疑問は許されなかった。一体誰のための幸福に誘導しようとしていたのか。明らかに老人がここでいう『公共の福祉』とは違うものだった。

「しかし、残念ながら『公共の福祉』は政権側によって個人の持つ人権を制限するものとして使われるに終始してしまいました。

 『公共の福祉』という言葉もまた国民の中に定着することはありませんでした。

 なぜなら実際の運用上、階級社会の中で『公共の福祉』はそう立ち現れる機会を持たなかったからです。

 例えば先程の例で言うと、あなたが横暴な兄であったとしますね。ゲームは独占です。弟の抗議に兄は何ていうと思います?」

 寛は架空の弟相手に、自分が横暴な兄であったらという設定の上で何と言うだろうか考えた。そもそも兄弟が居る家庭が少ないからイマイチ想像力が働かなかった。

「う~ん、うるせえ、兄を敬え!とかですかねえ?」

「なるほど。端的ですね。自分は兄故に『偉い』のだということですね」

「そうですね。最近の父親とかだいたいこんな感じですし、兄がいたらやっぱりこんなかな、と」

「非常にそういう人々は私の頃は多かったですねえ。戦後からだいぶ経ってましたけど、やっぱり社会は家父長制的な名残はどこかあるんですね。平成に入ってもそういう人々はたくさん居ましたね。今は再度色濃くなってしまっているようですが」

 もしかして、思っていたより老人は若いのかなと寛は思った。


「もちろん父故に、兄故に『偉い』なんていうのはフィクションなんですが、特にこの風潮は糾弾されることはなく、伝統とか笑い話の種になっていましたね。

 ところでこういった不条理な階級を作る仕組みは家族だけでなく職場や学校など日本のいろいろなところにあったと思うのですが、やはり伝統とか社会風土とかいう言葉で正当化されていました。

 あまりに実生活に喰い込んでいたので、批判もままならないという有様でした。もし批判したらあからさまに『社会秩序が乱れる!』と逆に批判されたことでしょう」

「弟の幸せは蔑ろにして良いのか、といった問いは彼らの頭の中にはないんですね」

「そのようでした。彼らにとって社会秩序は個人の幸福に優先されるのですね。今思えば日本は本当に近代社会だったのかな?と思ってしまいますが、確かにこういう伝統とか社会風土があったからこそ『公共の福祉』は滅多に立ち現れなかったのです」

「なるほど。この風土じゃ、根付きそうもありませんね。弟が仮に異議申し立てをしつこくしたとしても、親だってまともに取り合ってくれるかわかったものではないですし、兄から不当な暴力も受けそうです」

「実際によくある光景だったでしょうね。

 そして階級は再生産されますから、兄弟は家庭外でも自然と階級の論理に従って生きることになるでしょうね」

 長い学校生活の中で、階級の論理に取り込まれない生徒が今の時代居るのだろうかと寛は思った。

「改憲前の社会はこのようなものでしたから、残念ながら『公益及び公の秩序』へと変わってしまうことは自然なことでした。

 自然な流れではありましたが、やはりもう元の流れとは隔絶した社会になってしまいました。あらゆるところで国家が顔を出す正当性を得たのですから。

 しかし、もしかしたら多くの大衆的反知性主義者にとっては福音にすらなってしまったのかもしれませんね。従順でさえいれば、精神の居所に困ることはなくなりました。

 しかし、そうして得られる安心は本当に幸福なのでしょうか?」

 寛はこれまでの話を思い出し、答えた。

「違うと思います」

「そうですね。

 まず実際的問題として、生活が非常に苦しいですね。肉体的欲求をまともに満たすためには、精神的欲求になど構う暇もなく働かねばならないという人がほとんどの社会になってしまいました。飢えた人が食事作法を気にすることなどないでしょう。また、それを責めることも出来ません。支配層からしたら、これは都合の良い統治を行うための土台です」

「生かさず殺さずの奴隷ですね。働けなくなったら、自殺薬を飲めというわけですもんね」

「そうですね。これは本当に私達大人の大きな罪です。

 そして、精神的な面でもやはりとても大きな罪を犯しています。本来秩序が守るべき社会正義という中身を置き去りにした私達大衆は、未来に負債を押し付けてしまいました。

 階級社会という構造の中で、大衆は反知性主義的な大衆、つまり支配層に従順な大衆であれば在るほど、根源的欲求である精神の居所を得ます。もしも空気を読まず、秩序にケチでもつけようものなら罰を受けます。少数派が目の前で不当な排撃を受けていようとも、大衆は多数派を得られる安心を選び、時には排撃に加わります。

 しかし、それは強権者に本来大切なはずのものを蔑ろにされても、従順でさえいれば自分だけは殴られないで済むといった臆病者の態度でした。そんなものは幸福ではありませんね。それは本質的に罪です。

 日本の公共には真の意味での社会正義はありません。外箱だけがあります。中身は支配層が決めるのです。支配層のための恣意的な正義です。

 これが階級社会における社会正義は秩序である、ということが抱える重大な問題でしょう」

 なんでも中に容れられるのだ。みんなのものだったはずの公器は専有され、支配層の好き勝手にされてしまう。そして、大衆も好き勝手にされてしまう。

「例えば具体的な例で言えば、先程の派遣法もそうですし、昔はカジノも違法でした。有名なスポーツ選手なども裏カジノに行った咎で捕まっていました。

 しかし、支配層がカジノ解禁のゴーサインを出せばもうそれで万事解決なのです。その規律が何故あったのか?そこを多くの国民が考えることはありませんでした。

 ちなみに、このような階級社会の規律には、支配層から法のように一方的に押し付けられる掟然としたものと、格付けの指標となるようなものの二種類があるように思いますね」

 小学三年生の頃で言えばそれは「見た目」であり、今の社会では「金」「生産性」ということだろう。つまり、掟で並ばなければいけないことが決まっている上に、何順で並ばなければいけないかまで決まっているということだ。並んでいる当人達は息苦しいが、上から見下ろせばなるほど、綺麗な秩序が保たれていてさぞかし気分が良いことだろう。

「階級社会下の大衆は怠惰に慣らされてしまいます。しかし、それは自分たちが自分たちの幸福に根ざした社会理念、社会正義、公共の福祉などといったものを決められないという無力感があるからです。

 自分たちの大切なもの、自分たちの規範を決めるのは階級社会故に上位存在である支配層であり、自分たちは与えられた規律を守ってさえいれば良いのだということを、身をもって幼い頃から教え込まれるからでしょう。

 秩序という偽の社会正義を破ろうとすれば、排撃される恐怖が刻まれているのです。だとすれば、本質的に問題なのは、階級社会という構造であるということは明らかでしょう。

 言い訳になってしまうかも知れませんし、罪深いことには全く変わりありませんが、公共に対する大衆の怠惰、不真面目さへの欲求は、階級社会故に発生するのです」

 なるほど、確かに言い訳だ。しかし、寛にはその言い訳は自分のためのものでもあることが感ぜられた。

 構造故に発生してしまう悪であるということもまた、理解出来た。だとしても、老人が言うように自分たちは罪深いことに変わりはないが。

「改憲前から『自己責任』という言葉がもてはやされるようになっていました。その中で『不摂生を続けている人が勝手に病気になったのに、健康な俺が負担しなければならないのは不公平だ』という言説がありました。副総理が度々その発言を繰り返していました。

 しかし、病気になる人は病気になりたくてなるわけではないし、不摂生な生活の定義も曖昧です。遺伝で病気になりやすい人も居ます。なによりいざというときのために、みんな公費を払っているわけで、病気になったら切り捨てるというのはおかしい。また、そこに不公平感を持ち込むのは詐術です。自分ひとりが一方的に病気の人を支えているわけではありません。みんなで支え合うというのがそもそものスタンスでしょう。いざという時は、いつ、誰に来るかわかりません。こんなことをいうのなら公費を払わなければいい。

 という議論になって、最終的に公的保険を解散させるのが狙いだったのでしょう。結果、そうなりました。これもまた新自由主義的活動の一環です。ここでの自己責任論はなけなしの社会理念的制度である公平の破壊でした」

「他にもありますか?」

「はい。同じ時期に、戦地で武装勢力に囚えられていたある戦争ジャーナリストの方が解放されました。そこで社会に吹き荒れたのも自己責任論でした」

「何故でしょう?」

「まず多くの人が彼は一攫千金を狙って戦地に写真を撮りに行ったのだ、という資本主義一辺倒の論理でしか捉えられなかったことです。ここにも貧しい公共意識と反知性主義的性質が見て取れます。

 実際戦場ジャーナリストというものは金銭面では全く割に合わないものだそうですし、彼は三年半に及ぶ虜囚生活で多大なダメージを心身ともに受けました。自己責任だというのであれば、十分に彼自身でリスクを支払ったと言えるでしょう。また、日本政府は彼の解放に関して特に何かしたというわけでもないようです。一体、私達は彼に対して何か責める材料を持っているのでしょうか。

 彼ら戦場ジャーナリストはリスクを承知で戦地に生きます。それでも皆に戦地の情報を伝えようとする理由は、平和や自由、公正などまさに公共に資するためでしょう。少しでも人類や人間社会を良くしたいという、本来称賛されるべき志を持っているからでしょう。

 実際にそういう志を持っていても、実行できる人は稀です」

 彼は非難されるべきだったのか。もしもその時、社会が彼を称賛し、無事を祝う意識を持っていたのなら、現在のような悲惨な状況になっていないのではないか。寛はそう思った。

「彼を非難した自己責任論は、平和や自由への攻撃でした。

 今や大衆の秩序が守る規律の一つに自己責任が挙げられるでしょう」

 崩れ去った社会保障、自己責任の果ての自殺薬、制限される権利、過大に課される義務。一体何のための国家なのか考えることもせず、今日も人々は秩序を守り続ける。自分たちの幸福を置き去りにして。

「このように大衆の貧相な公共意識は支配層にうまく利用されました。また、階級社会である限り、利用されやすい状況は続いてしまいます」

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